エピローグ〈+A〉
――ちく。ちく。ちく。ちく。
燭台の赤橙と閉鎖の暗黙、朱と濃紺の明暗が溶け混じる豪奢の一室。
曖昧に形作られる陰影の境界線上に、
音色は、針先から根、芯まで、何かに
一刻一刻、時を告げるごとに、何か生者の尋常では理解の及ばない呪詛を、気の遠くなるような分割の内から放出しているように感じられる。
灯が踊る。色濃く揺らぐ影の群れ。壮麗なる
「何とも君らしい光だ」
声が一つ――光景を枠線、
「暗澹……タールのような深淵を基調とする、火の
気付けば輪郭――暗がりの内に、浮き上がるような白。細面、成熟と未成熟の狭間で時が歩みを止めたような完全中性の美、繊細で、しかし泰然と、星明かりのように場を占める少年。
「訪れるたびに、ここは君自身の内面へと近づいていくね。その嗜好は、君の飢餓と関係しているのかな」
おもむろな問いかけ――応えるように、いつからとも知れず、輪郭、もう一つ。
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。私は己の欲するところの物を収集するが、それを駆動する欲望は食欲と似て非なる物だ」
男――こちらは溶け込むような黒。酸化、凝固した血液に似た暗朱色の瞳、
「“愛玩”は剥奪という
「なるほど。図と地の狭間の彷徨――一つの景色を幾つもの焦点の中で愉しむように、君は自分自身の欲望を構築的に満喫しているんだね」
「そのように見えたなら、私はもう少し節度というものを覚えるべきなのだろう」
笑みの体を成さない微笑。親しみ、喜悦、冗長、本来距離を縮めるものであるはずの感情表現が、男という発信源の質のために決定的に歪曲させられ、ただ一色、侵食の危機を感覚させる
生持つ者であれば例外なく脅威と取るだろうそれを、しかし少年は変わらぬ穏やかな愛想のもと受け止め、あまつさえ微笑み返してみせる。愛好するように。
「どうかな。際限の無い欲望は人間という定命が持つ力の源泉の一つだ。僕が君に見たのは、その恒星のような灼熱量で、今でも君は、音無き暗闇の中の孤高の盛火であり続けている。観客の僕から言わせれば、君のような人間には、謙虚さよりも、ある種の誠実さを、その生を通して描いて見せてほしいところだ」
「ならばそうしよう。星図の託宣は今においても些かも有効性を失わない。地を這う一匹の
「今の僕はとてもそういうものではないよ。同じ地表の、隅に転がっている、衰微した残り火だ。それでも当てにしてくれるというのなら、それは嬉しいことだけれどね」
どこか遠い故郷を懐かしむような面持ちで、少年の目は天を仰ぐ。薄暗い天井の遙か向こう、広がる夜の蒼穹を眺めるようにして。
「彼が死んだよ。正確には、信じた
惜しむような、或いは清々の満足に浸るような調子で、少年は言った。
「興味深い結末だ。私と君と、どちらの予想とも異なる結果に辿り着いたようだが」
「そうだね。――でも、期待していた。そうなってくれたらいいと。そんな奇跡が起きてくれたら、それはとても素敵なことだと」
「例えそれが、生き血を油にして引き継がれる地獄の聖火だとしても、かね?」
「ああ」
少年は微笑みを絶やさず男に視線を向ける。
「遙かな昔、人は楽園を追放され、野を彷徨う命の一つとなった。もとより人は天と地の狭間を生きている。とてもつらい道のりを、罪人に相応とされた不分明の鎖に雁字搦めにされて、苦しみながら」
瞳には紺碧。男の黒とは異質な、無辺の寂寞に無数の小さな瞬きを内包した、寄る辺なく時を刻む夜空のような眼差し。
「受難にあってなお光を戴くことは、言うまでもなく耐え難い苦痛で、また生として捉えるなら、紛れもなく自殺――自ら死地の袋小路に飛び込む矛盾した行為に他ならない。――でもね」
滲む感情――少年の形ばかりを取り繕った、仮初めに脈打つ心臓に、唯一つ宿った真性の熱。
「僕が君たちを好きになったのは、ひとえにその燦めきが、幾千光年の旅路の足を止めさせるほどに、眩しかったからなんだよ」
「勇気づけられる逸話だ」
「うん。君にも、僕は希望を抱いている。例え君の判断と選択が、世界中の誰からも望まれないものだったとしても」
笑みを深める――朗らかに。
「一つだけ、尋ねても構わないかね?」
「もちろん。何なりと」
「継承は変質を伴う。彼の敗退は、彼の理想に何を
「そうだね、君の言葉を借りようか。彼の夢は一つの
「単なる不確定性の謂と捉えるには、含意を感じる物言いだな」
「ああ。もっとシンプルには、こういうべきかな」
とんとん、と、爪先を濃朱の絨毯に、小さく音を立てて二度。
因果俯瞰とも、眺望試算とも遠く離れた不分明者が縋る、ごくささやかなおまじないの所作。
「確率はとても低い。これは瞳に魅入られた不憫な人間の火達磨の道行きでしかない。だけれど、僕は期待している――願っているし、信じてもいる。要は、こう思っているのさ。これはとても駄目かもしれない、だけれど、それでもきっと、番狂わせは起きるだろうってね」
――ちく。
暗澹と時を刻み続けていた時計が、その呪詛の紡績を止めた。
あたかも玩具の振り子時計が、主の不意な
「貴重な見解の披露に感謝する」
「こちらこそ。演者との会話は、僕にとって何よりの歓びだ」
少年がそう口にすると、あたかも幻灯の光像が消え失せるように、その輪郭は跡形もなく、暗闇の中に溶けて散った。
――ちく。
――ちく。
数秒の無音。その後に、再び時計の針が動き始める。ぎこちなく、錆び付きのような怯えの気配を漂わせながら。
「――」
深い空洞の底から穿つような血生臭い視線が、天井の向こう、天上に瞬く星々を見た。
暗朱色の瞳には、何事かを演算する機械のような無機質さと、全てを混沌の内に溶解させ咀嚼する、巨大な胃の腑を抱えた獣の熱量とが湛えられていた。
[WoC] Sleepless Synapse かおりな @kaorina
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