エピローグ〈+A〉

 ――ちく。ちく。ちく。ちく。

 燭台の赤橙と閉鎖の暗黙、朱と濃紺の明暗が溶け混じる豪奢の一室。

 曖昧に形作られる陰影の境界線上に、うずもれる、或いは沈み込むようにして鎮座ましましている、骨董の大時計が、陰鬱に時を刻む。

 音色は、針先から根、芯まで、何かにまみれたかのように濡れて重く、空間に染みて侵すよう。

 一刻一刻、時を告げるごとに、何か生者の尋常では理解の及ばない呪詛を、気の遠くなるような分割の内から放出しているように感じられる。

 灯が踊る。色濃く揺らぐ影の群れ。壮麗なる古物アンティークの数々が吐き出される時を吸い、刻々の合間を無音にて埋め尽くす。艶めく物々のレッド・ブラウンは、照らす火の熱を意味ありげに反射し、室内を不規則な明滅に包み込む。空間は、獲得された血肉を溶く肉食獣の胃袋のごとく、静かに、死と生の匂いを帯びて蟠っている。


「何とも君らしい光だ」


 声が一つ――光景を枠線、がくに捉えて胸に大切に抱えるような、囚われず、しかし閉殻せず接する者を愛する観測者の、静穏至極なる感嘆。


「暗澹……タールのような深淵を基調とする、火の冥々めいめい。生々しく熱を持って脈打ちながら、それでいて死の沈黙、黒々に、これ以上ないほど近しく存在している」


 気付けば輪郭――暗がりの内に、浮き上がるような白。細面、成熟と未成熟の狭間で時が歩みを止めたような完全中性の美、繊細で、しかし泰然と、星明かりのように場を占める少年。


「訪れるたびに、ここは君自身の内面へと近づいていくね。その嗜好は、君の飢餓と関係しているのかな」


 おもむろな問いかけ――応えるように、いつからとも知れず、輪郭、もう一つ。


「そうとも言えるし、そうでないとも言える。私は己の欲するところの物を収集するが、それを駆動する欲望は食欲と似て非なる物だ」


 男――こちらは溶け込むような黒。酸化、凝固した血液に似た暗朱色の瞳、衣装いそう、肉体より伸びる影。くつろいだ様子で椅子にかけているが、漂わせる気配は蜷局とぐろを巻く大型獣に近い。拭いきれない暴力と返り血の匂い――少年が地表に降った星なら、男は地の底深くから受肉した死の汚泥。


「“愛玩”は剥奪という前提プロセスの上に成り立つ娯楽だ。対象の生殺与奪を握り、屠殺を欲求する根源的飢餓を慰撫出来ていてこそ満喫出来る。私は己の満腹を堪能するために入手する一方で、愛玩それこそを快楽するために強奪してもいる」

「なるほど。図と地の狭間の彷徨――一つの景色を幾つもの焦点の中で愉しむように、君は自分自身の欲望を構築的に満喫しているんだね」

「そのように見えたなら、私はもう少し節度というものを覚えるべきなのだろう」


 笑みの体を成さない微笑。親しみ、喜悦、冗長、本来距離を縮めるものであるはずの感情表現が、男という発信源の質のために決定的に歪曲させられ、ただ一色、侵食の危機を感覚させる信号シグナルへと変質させられている。

 生持つ者であれば例外なく脅威と取るだろうそれを、しかし少年は変わらぬ穏やかな愛想のもと受け止め、あまつさえ微笑み返してみせる。愛好するように。


「どうかな。際限の無い欲望は人間という定命が持つ力の源泉の一つだ。僕が君に見たのは、その恒星のような灼熱量で、今でも君は、音無き暗闇の中の孤高の盛火であり続けている。観客の僕から言わせれば、君のような人間には、謙虚さよりも、ある種の誠実さを、その生を通して描いて見せてほしいところだ」

「ならばそうしよう。星図の託宣は今においても些かも有効性を失わない。地を這う一匹のけだものとして、千里を視る神の言葉を頼りにさせていただく」

「今の僕はとてもそういうものではないよ。同じ地表の、隅に転がっている、衰微した残り火だ。それでも当てにしてくれるというのなら、それは嬉しいことだけれどね」


 どこか遠い故郷を懐かしむような面持ちで、少年の目は天を仰ぐ。薄暗い天井の遙か向こう、広がる夜の蒼穹を眺めるようにして。


「彼が死んだよ。正確には、信じたひとに、後を託して退場した」


 惜しむような、或いは清々の満足に浸るような調子で、少年は言った。


「興味深い結末だ。私と君と、どちらの予想とも異なる結果に辿り着いたようだが」

「そうだね。――でも、期待していた。そうなってくれたらいいと。そんな奇跡が起きてくれたら、それはとても素敵なことだと」

「例えそれが、生き血を油にして引き継がれる地獄の聖火だとしても、かね?」

「ああ」


 少年は微笑みを絶やさず男に視線を向ける。


「遙かな昔、人は楽園を追放され、野を彷徨う命の一つとなった。もとより人は天と地の狭間を生きている。とてもつらい道のりを、罪人に相応とされた不分明の鎖に雁字搦めにされて、苦しみながら」


 瞳には紺碧。男の黒とは異質な、無辺の寂寞に無数の小さな瞬きを内包した、寄る辺なく時を刻む夜空のような眼差し。


「受難にあってなお光を戴くことは、言うまでもなく耐え難い苦痛で、また生として捉えるなら、紛れもなく自殺――自ら死地の袋小路に飛び込む矛盾した行為に他ならない。――でもね」


 滲む感情――少年の形ばかりを取り繕った、仮初めに脈打つ心臓に、唯一つ宿った真性の熱。


「僕が君たちを好きになったのは、ひとえにその燦めきが、幾千光年の旅路の足を止めさせるほどに、眩しかったからなんだよ」

「勇気づけられる逸話だ」

「うん。君にも、僕は希望を抱いている。例え君の判断と選択が、世界中の誰からも望まれないものだったとしても」


 笑みを深める――朗らかに。


「一つだけ、尋ねても構わないかね?」

「もちろん。何なりと」

「継承は変質を伴う。彼の敗退は、彼の理想に何をもたらす?」

「そうだね、君の言葉を借りようか。彼の夢は一つの白黒画モノ・クロームとして引き継がれた。図と地――そこには、何をも生み得ない行き詰まりの黒と、巡り巡った先で描かれるだろう白が混濁している」

「単なる不確定性の謂と捉えるには、含意を感じる物言いだな」

「ああ。もっとシンプルには、こういうべきかな」


 とんとん、と、爪先を濃朱の絨毯に、小さく音を立てて二度。

 因果俯瞰とも、眺望試算とも遠く離れた不分明者が縋る、ごくささやかなおまじないの所作。


「確率はとても低い。これは瞳に魅入られた不憫な人間の火達磨の道行きでしかない。だけれど、僕は期待している――願っているし、信じてもいる。要は、こう思っているのさ。これはとても駄目かもしれない、だけれど、ってね」


 ――ちく。

 暗澹と時を刻み続けていた時計が、その呪詛の紡績を止めた。

 あたかも玩具の振り子時計が、主の不意な捲握けんあく――己の法則を遙かに上回る暴威の余波に圧搾され、機能を失ったかのように。


「貴重な見解の披露に感謝する」

「こちらこそ。演者との会話は、僕にとって何よりの歓びだ」


 少年がそう口にすると、あたかも幻灯の光像が消え失せるように、その輪郭は跡形もなく、暗闇の中に溶けて散った。

 ――ちく。

 ――ちく。

 数秒の無音。その後に、再び時計の針が動き始める。ぎこちなく、錆び付きのような怯えの気配を漂わせながら。


「――」


 深い空洞の底から穿つような血生臭い視線が、天井の向こう、天上に瞬く星々を見た。

 暗朱色の瞳には、何事かを演算する機械のような無機質さと、全てを混沌の内に溶解させ咀嚼する、巨大な胃の腑を抱えた獣の熱量とが湛えられていた。

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[WoC] Sleepless Synapse かおりな @kaorina

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