第15話 プールサイド

「何言ってんだよ」


 ナツメが、彼女の手首を掴みなおして引っ張った。すると、ボタンはそこにとどまって、散歩から帰りたがらない犬みたいな、いやいやする仕草をした。


「あたしは行けなぃ」

「何で?!」


 私も反対の腕を拾おうとした。その時にピリッと電流みたいのが走った気がして、思わず指先を引っ込めた。


「……みんなと一緒には行けない、そんな資格がなぃ」

「ボタン」


「記憶がないんだもん……っ」


 絞り出した声が悲痛だった。彼女にしては叫ぶように大きな声で。私たちは思わずその場で固まった。ナツメの腕を振りほどいて、ボタンは私たちから距離を取る。するとパキパキと私たちの周りで卵の殻が割れていくような音がし始めた。


 と思ったら……。


「きっとあたしなんだ……『エコトリアの少女』。だって……だって、憶えていないもの、何も」

「……!」


 空間の狭間に亀裂が走った。ボタンと私たちを二手に分けるように、床から灰色の壁が現れる。それがパキパキとパズルが合わさっていくように出現しては空間を塞いでゆく。ボタンの姿を隠してゆく。


 私はただ残された小さくなってゆく隙間から、彼女の瞳を見ていた。水色の瞳を、酷く傷ついたみたいにしているのは、一体何に傷つけられたというのだろうか。一体誰にそんな顔にされているというの……?


「それは……」

「え?!


「……あたしに」


 明らかに私の顔を見つめて、私の心の問いかけに、彼女は引きつって答えた。灰色の壁が、その笑顔にも似た表情をどんどんと隠していった。


「ぁたしにされてるの」


「……くそっ」

「ヤバイ、空間閉じちゃう」

「ボタン!」


 私たちは何もできずに、ただ彼女の名前を呼んだ。ナツメだけが精一杯右手を伸ばす。その白くて繊細な指先が、一瞬。彼女に届きそうにも見えた。


 しかし、ボタンは手を差し出さなかった。閉じる空間の狭間から、私たちが、親しくなったと思っていた少女の顔が見える。その時見た彼女の表情が……。私はおもわず口の中で、「やめて……」と呟いた。


 最後に。彼女は、ボタンは、寂しげに笑った。それを見て私の瞳の奥が、ツキンと痛む。涙が出そうになる。滲み出す前に壁のピースが全て埋まり、ボタンのいる空間がパタリと閉じた。


 パシンパシンと、まるでパズルが組み合わさるように、唐突に閉まってしまった空間。広かった廊下は、あっという間に私たちのいる一つの区切りを残すのみとなってしまった。


 ドスンッと鈍い音が狭い空間に響く。壁を殴ったナツメの右手から紅い色が滲んだ。彼女には……ボタンには届かなかった右腕。


「あいつ、……自分で残りやがった!」


 吐き捨てるように言う言葉が痛々しくて、私は何も言うことはできない。モクレンさんが「気配が消えたみたい~」と小さく報告した。


「……探しに行こう」


 キキョウさんがポツンと、……でもしっかりした意志で呟いた。


「だって、あいつにあんな顔させたまんまじゃいらんないでしょ?」


 それにモクレンさんが頷く。


「そうね、相変わらず三階の方から嫌な予感がするし~……」


 そうモクレンさんが困ったように言うので、あなたの『予感』はもう、それ『予』感じゃありませんからね、って。そうも思ったけれど、私はボタンが目の前で私たちを拒絶したことがショックですぐには動き出せそうにない。すると、突然ボタンが消えたのと反対側の壁が真っ二つに割れた。


「おい、お前ら」

「!」

「こっちだ」


 そこに立っていたのは黒い石油みたいな塊を背にしたタケさんで、壁を割った勢いで、黒い前髪が目の上に全部降りて来ている。その目でぎろりと睨まれた気がして私は身震いした。私以外の三人は、タケさんの黒い装いに吃驚している(いやそれだけじゃないだろうが)。


 タケさんは私たちを促すように手招きすると、自分がやって来た黒い道に先に逃がす。閉じ込められていた空間を後にする時、私が肩越しに振り返ると、タケさんに切り分けられた壁が気持ち悪く蠢いて、また隙間を閉じてしまっていた。


 黒い塊はぐねぐねと私たちについて来る。タケさんは黒いトレンチコートを羽織っている。中に着込んだグレーのタートルネックのせいでいつもよりキチンとして見える。しかしその後ろにはあの液体のような物体が、彼にへばりつくように浮いていた。


「ど、どうしてタケさんはここへ?」


 ちてちてと小刻みに足を動かして、彼と並走して尋ねたのはナツメだった。


「あんなおおっぴらに『亜空間』への入り口が開いてたら、そら入るしかないんじゃないの?」

「タケさん~、次右です」


 モクレンさんが指示した通り向かうと、階段が現れる。私たちは三階へ向かって階段を駆け登った……つもりだった。


「!」


 一瞬の出来事。でもこの感覚には記憶がある。ボタンの瞬間移動の感覚に似てる。そう思ったと同時に、どこか湿っぽい赤い通路の上にみんなして『落ちた』。


「ぎゃん!」

「い、ててて……」


 この通路には見覚えがある。ふらりと立ち上がって扉の向こう、たどり着いたところは屋内プールだった。編入初日に案内されてから体育の授業で使うのを楽しみにしていた場所だ。すぐに球技大会のシーズンになって、結局泳ぐことは叶わなかった。屋内プールは学園の半地下にある。


「上に行かせない気か?」


 タケさんが呟くと、カツンっと目の前でヒールの音がした。


「あらぁ~? 今度は王子様も一緒なんだ♪?」


 その甘ったるい声には聞き覚えがあった。プールサイドに、真っ黒い渦巻くような穴が空いている。そこから白いタイツの足がにょっきりと生えて、床を派手に鳴らしたのだった。

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