第6話 小さく笑った

「う……ん」


 私たちが騒いでいたせいで、今までぐっすりと意識を落としていたパンジーが目を覚ました。


「あれ、私どうしてここにいるの?」


 むにゃりと起き上がるパンジーさんの胸元は緩く開いている(治療するとき、私が緩めたのだ)。大きな白い胸元が零れ落ちそうになっていて、私は慌てて顔を逸らした。彼女は、そんなところにもホクロがあるのだった。


「良かった、パンジー起きたんだ~」


 モクレンさんが心底ホッとした様子でわずかに笑顔が戻った。気分が優れないようなのはボタンだ。体を両腕で抱きしめて、ふるりと一回震えた。


「ちょっと……トイレ」


「ボタン?!」


 私は心配してナツメにパンジーさんを任せると、薄暗い廊下にボタンを追って出た。ボタンは扉を隔ててすぐのところで座り込んでいた。


「く……るしぃ」

「ボタン!」


 私はすぐにそばにしゃがみ込んで、彼女の背中を擦った。空調の効いた廊下だというのにどっと汗をかいている。


「最近何かぁ、おかしいんだ」


 はぁ、というため息とともに、胸元を落ち着かせるように自分でぽんぽんと叩いている。


「色々、聞きたくないものが聞こえたりぃ。見たくないものが見えたりする……」

「……それってどういう?!」


 私が顔を近づけて問いつめようとしたところに、キキョウさんがリビングから出て来た。


「パンジーさん帰るって、あんたたち奥で休んでていいよ。私らが何とか誤摩化しといたから」


 そう言って開いたドアで私たちをパンジーさんから(というかモクレンさんから?)隠してくれた。私はそれを察してボタンを抱いて立たせると、奥の寝室へ二人で引っ込んだ。


「大丈夫?!」


 ボタンはぐったりと疲れ果てたようにベッドに横たわると涙を横に流した。大きな水色の瞳がぐじゅぐじゅと緩んでいる。


「もう何も見たくなぃ、聞きたくなぃ。もう何も……思い出したくなぃ」


 呻くようにそう言って、彼女はそのまま寝入ってしまった。今のはどういうことだろう? こんな風な形で、弱ったボタンを見るのは初めてだった。


 控えめなノックが響いて、「はい!」と私が短く返事をすると、ナツメが細い隙間からするりと入って来た。


「……パンジーさん帰ったよ。あの人しっかりしてそうで、案外ぽやぽやしているからさ、いつの間にか私たちの部屋に来て眠ってしまったってことで納得したみたい」

「そう、良かった!」


 ……本当だろうか? それでもほぅっとため息をついて、ベッド縁に腰をかける。ナツメは伸び上がってボタンが眠っているのを認めると、困ったように眉を下げた。


「それでね、どうやって勘づいたのかはわからないんだけど、タケさんから呼び出しがあったんだ。ボタンのこと起こせるかな?」

「いや、やめとこ!」


 間髪言わずそう答えた。


「そう、だよね」

「そうだよ!」

「……何かあった?」


 廊下からの灯りが、ナツメの華奢なシルエットを浮き立たせている。そのせいで、彼女が酷く不安そうに見えた。


「別に。今日みたいな言い争い初めてだったから、ちょっと吃驚しただけ!」

「そっか、じゃあキキョウさんとモクレンさんには私が言っておく。明日どうせ休みだからみんなで行こう」

「うん、ありがとう!」


 ようやく笑ってナツメに言えた。するとナツメも少し笑って部屋を出て行く。扉が閉まってから、そう言えば彼女に助けてくれたお礼を言うのを忘れたことを思い出す。そうして、彼女の名前を無意識に呼んでしまったことも……。


 私はそれから暫くボタンのそばに座って、彼女の様子を見下ろしていた。


「何だろう……分からないこともないよ!」


 私はボタンの投げ出された手のひらを握った。するとホラ、流れ出してくる映像がある。それは小柄なシルエットであった。ボタンが最初に出逢ったころ着ていたような、フードつきのポンチョを被って、手にはバケツのような物を持っている。


「……私と同じように、大切な人を亡くしたんだね」


 私たちの時間を遮るように、控えめなノックとともに、ドアのガラスにまた、違う人形のシルエットが映った。


「あーちゃん?」

 私は声に、『そこにいて』と念じてから静かにベッドを立って扉の外に出た。そこには心配そうなキキョウさんが立っていて、私を見上げてくる。


「ボタンは?」

「興奮してたけど、今は落ち着いたのか、寝ちゃった!」

「そう。モクレンさんも今先風呂入ってる。渋ったけどナツメが一緒に入るって背中を押して、何とかかんとか……」


 らしくもなく、彼女は首の後ろをがしがしと擦る。見下ろすキキョウさんが、なぜか緊張して見えた。不意に焦ったように私から目を逸らす。


「あーちゃん、あのさぁ」

「なに?!」

「何か、怒ってる?」


 あぁ、そういうことか。


「怒ってないよ! 別に」

「だって笑っていないじゃない全然、いつもはずっと笑っているのに」


 ……そうだった。家族を亡くしてから私は。殊更ようになったのだ。それは私にとっての保身とも言える。だからすぐに口角を上げて微笑んで言った。


「なぁにそれ? いつだって笑ってないよ、私だって!」

「いやぁ、そうだけどさ」


 それはうまくいったようで、キキョウさんも苦笑しながら頭を掻いた。二人のクスクス笑いを断ち切るように、ガチャリっと。廊下の奥で金属音がした。脱衣所からナツメかモクレンさんのどちらかが出て来たようだ。


「怒ってはない、それは本当! 明日もちゃんとするしボタンもそうするように言っておくから」


 そう言うと、キキョウさんの肩をぱんぱーん! と軽快に叩いて、何食わぬ顔で彼女を伴うと、一緒に互いの寝室を目指す。


 橙色の廊下を向こうからやって来たのはモクレンさんだった。こちらは恐ろしいほどの無表情。タオルに隠れても青白い顔は見て取れる。


 一言も会話をせずすれ違ったあとに、何だか修羅場過ぎる状況に、滑稽さに、思わず笑いがこみ上げて来て、私は天井に向かって小さく吹き出した。

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