朔夜
これより先は、完全な蛇足である。
無理に知る必要の無い真実。
余分な装飾、過分な締め括り。
謂わば舞台裏の、本筋とは離れた出来事。
故、開くかどうかは其方次第。
不要と断じるのであれば、今この場で
或いはそれを選んだ方が、些少なれど快い終わりを迎えられるだろう。
即ち、
往くか、戻るか。
………………………………。
……………………。
…………。
好奇心とは、甚だ度し難い。
とは言え、気持ちは十二分に理解能う。
――然らば、知って頂こう。
そして、どうか味わって貰いたい。
今まで見ていたものの表裏が返る、その瞬間というものを。
「るんるるーん」
真黒の夜。
手を伸ばした先すら見えず、薄気味悪い物音や笑い声がそこかしこで響く新月の日。
そんな夜道をヒナは独り、上機嫌に歩いていた。
「今夜はエーゲはアルバイトー♪ だーから一人でおーでかけー♪」
鼻歌交じり、軽々とブロック塀へ飛び移り、ピンハイヒールの靴で軽快に渡る。
やがて細い足場が途切れると、薄暗く点滅する街灯の真下に着地し、ポーズを取った。
「十点満点、百億点! んー、我ながら惚れ惚れする運動神経――シィッ!」
ズレた眼鏡を直しながらの自己賛美。
その最中、ヒナはおもむろに口舌を断ち、背後へと蹴りを放った。
およそ目にも留まらぬ中段と上段の二連撃。
切れ味すら伴うかの如き風切り音を撒き散らす、疾く鋭利な足運び。
無防備に受ければ、良くても昏倒は免れないだろう程度の威力は窺えた。
だが。
「ありゃ? 外しちゃった」
空を掴んだまま振り抜かれた爪先。
珍しいこともあったものだ、と小首を傾げるヒナ。
厭魔の風鈴が、一拍遅れてちりんと鳴った。
「――危ないなぁ。いきなり蹴り付けるなんて、ひどいじゃないか」
次いで波紋したのは、ヒナのものではない穏やかな声音。
同時、あちこちに灯る小さな火。
か細い朧火にも拘らず、不自然なほど明るい灯。
役立たずも同然の街灯に代わって、瞬く間、辺りを照らし出した。
「こんばんわ、影の薄いお嬢さん」
「ややっ、音も無く忍び寄る変質者かと思えば狐さん! こんばんわー!」
何匹もの告死蝶を侍らせ、手近な家の屋根へと掛けてヒナを見下ろす妖狐。
近付く気配を感じたのは後ろからだと言うのに、一体如何なトリックか。
まあ、狐の化かしを真面目に考えたところで、殆ど時間の無駄だが。
「どしたの? エーゲなら今日はお仕事だぞー」
「存じているとも。先刻、人に化けて顔を出したら追い返された。つれない人だよ」
「あははははっ!」
さも悲しげな様相で以て騙りを語る妖狐に対し、声を上げて笑うヒナ。
ヒールを軸としてクルクル回った後、彼女はふと首を傾げた。
「あれ? だったらなんでこんなとこに居るの? 暇なの?」
しかし、先程から所々ひと言余計である。
加えて悪意が無い分、タチの悪さは折り紙付きだった。
対し、どうとでも受け取れる微笑を添え、君に聞きたいことがあるんだ、と返す妖狐。
なんだと思いつつ、ヒナはブロック塀や電柱を蹴り上がり、同じ屋根へと降り立った。
「ボクとお話したかったの? いいよー別に、暇だもん。なになに?」
急勾配な切妻屋根を登り、棟瓦に座り込むヒナ。
今度は自分が見下ろされる形となった妖狐は、狐火を受けて輝く金の瞳を仰ぐ。
束の間、静寂による空白が通り過ぎる。
ふと気付けば、夜陰に蔓延る怪奇達が齎す雑多な物音や囁き声は、残らず失せていた。
恐らくは妖狐が現れたことで、その存在の大きさに怯え、逃げてしまったのだろう。
そして。
「……いつまで、そうしているつもりなのかな?」
沈黙と呼ぶにはやや短い間を破り、唐突に投げかけられた問い。
目を瞬かせるヒナに向け、妖狐は淡々と言葉を連ね、重ねた。
「君はいつまで、そうやって彼に取り憑いているつもりなのかな?」
妖狐の掌上で小石が燕に変わり、南を目指し飛び去って行く。
「ああ、与太郎は結構。私は狐だからね、全て承知の上で尋ねているよ」
背より燃え上がった狐火が蝶の翅を模り、枯れ葉のようにボロボロと崩れ落ちる。
「君が変わらない今を、心から望んでいることも」
ぴくりと、無邪気な笑顔で固まったヒナの口角が、引き攣る。
抱えた膝に回された手へと、微かに力が篭った。
「あの魚は君の夢に潜んでいたのではなく、
広大無辺かつ複雑怪奇な夢の世界。
故にこそ、何かを隠すには打って付けの場所。
斯くして十年余、ヒナはエーゲに影喰魚を探させ続けた。
賢しい彼が、ただそれだけに目を向けるように。
自分の真意を、気取られてしまわぬように。
「君が受けた呪いは、強力だが単純なものだ」
絡みに絡んだ糸ならば、手繰る者が失せようとも簡単には解けないだろう。
けれど、此度の場合は謂わば一本の鎖。
太く頑丈ではあれど、いざ結び目が外れれば容易く落ちる類。
そう。元凶たる影喰魚が消えて尚も残り続けるなど、本来有り得ないのだ。
海千山千の化生たる四尾の妖狐と文車妖妃。
そんな彼女達が挙って手も足も出せないなど、有り得ないのだ。
たったひとつ、例外を除いて。
「呪いにより失ったものを取り返すには、当人の強い意志が不可欠」
言い換えれば引き寄せるための呼び水であり、繋ぎ合わせるための縫い針。
例え呪いが消えようとも、それが無ければ決して元の鞘には収まらない。
きっとエーゲは、想像だにすらしないだろう。
慚愧に囚われ、妄執にも等しく解呪を追い求める彼では至れぬ、残酷な真実。
即ち。
「君は自分の影を、これっぽっちも望んでいない」
二人の頭上で、風船さながらに膨れ上がる狐火。
闇を払う光明は、彼女等の足元に影を作り出した。
ひとつは、四本の尾をくねらせる巨大な獣。
恐らく、妖狐の本当の姿。
そしてもうひとつは、人の形すら留めていない残骸。
行儀悪くズタズタに食い荒らされた、影の骸。
「奪われた事実を笠に着て、あの人にしがみ付いている」
いつの間にか、ヒナの顔から笑みは消えていた。
無表情に妖狐を見据える眼差しは、普段の彼女と打って変わった冷たいもの。
「……もう一度だけ、聞いておこうか」
抑揚無く、けれど少しだけざらついた声音で、妖狐は繰り返す。
「愛情か、怨恨か。知らないし、どうでもいいけど」
向き合うだけで腹の底をむかつかせる女に、再びの問いをぶつける。
「君はいつまで、彼を苦しませるつもりなのかな?」
死んだ表情で以て、けれども双眸に剣呑な光を宿し、妖狐を睨むヒナ。
きりきりと張り詰めて行く空気の中、掛けていた大棟に立つ。
経文の一節が刺青された首筋を撫ぜながら、彼女は深く溜息を吐き出した。
「うざいなぁ……」
伝法な口調、気怠げに腰へと片手を添えた佇まい。
猫を被っていたと言うより、表と裏を返したような変貌だった。
「うっっざいなぁ……!」
先程までの無垢な少女の顔と、今の凶相。
どちらがではなく、どちらも彼女の本性なのだろう。
如何なる時も穏やかな、万事に於いて快活な人間など、居る筈がないのだから。
「ボクさぁ。見透かされたみたいな物言いとか、大っ嫌いなんだよね」
「それは失礼」
「てか、基本みんな嫌い。誰も彼も覚えちゃいないけど」
「だろうね。初めて会った時、きっとそうだと思ったよ」
エーゲと、それ以外。
ヒナが何かに向ける視線の形は、徹頭徹尾その二種類のみであった。
行き付けのコンビニの店員も、醜悪な異形も、路傍の小石も、等しく同じ。
天真爛漫に振る舞いつつ、瞳の奥底は冷め、凪いでいた。
「きっと、影を失くすより前から、ボクはこうだった」
そう呟き、思い返すのは幼き日の朧な記憶。
常にエーゲの後ろを付いて回り、他の者には決して心を許さなかった自分。
「愛してるんだ。ずっと、ずっとずっと、エーゲだけを」
一瞬、蕩けるような女の顔で、ヒナは言った。
次いで、だけど――と、反転した風に続ける。
「エーゲは何にでもなれる人だし、何処にでも行ける人だった」
名家から養子縁組の話さえ持ちかけられたギフテッド。
精々が見てくれしか取り柄の無い自分では、到底釣り合わぬ相手。
いつか必ず、手の届かない場所へ飛んで行ってしまう人。
そんな純然たる事実を、ヒナは両手の指が余る歳で、早くも悟っていた。
故に。
「最後に太陽を見たあの夕暮れ時、ボクは神様に心底感謝したよ」
影喰魚が生まれ落ち、エーゲの代わりに影を食われた運命の日。
彼女が真っ先に抱いた想いは、およそ言葉にし難い
「泣きそうな顔で謝るエーゲを見た時、自分が女だって心底思い知った」
閉じた瞳が想起する、麗しき過去。
甘い疼きを訴える胎に指先を這わせ、微笑むヒナ。
それは淡雪に生き血を滴らせたような、寒気がするほど美しい
「――ボクのものだ」
静かに見開かれる双眸。
金色の揺らぎに溶けた瞳孔が、きゅっと引き絞られた。
「ボクに影が無い限り、エーゲはボクのものだ」
指も、温もりも、眼差しも。
吐息も、心も、囁きも。
「いつまで続けるつもりか、だって?」
馬鹿なことを聞いてくれる、とばかりに、ヒナは髪をかき上げた。
「逆に聞くけど、もしキミがボクと同じ立場なら、どうする?」
その問いに、妖狐は何も答えなかった。
それが、何よりの答えだった。
「ボクとエーゲは、一生一緒だよ」
影を食われたことで、雛芥子は夜に縛られた。
そんな彼女に対する罪の意識に、盈月は縛られた。
決して逃れ得ぬ、二人を繋ぎ合わせる軛。
呪いであり、罪過であり、祝福でもある赤い糸。
真なる意味で囚われたのは、果たして、どちらなのか。
…………。
まあ、そう深く考えるようなことでもない。
西暦二〇二〇年。幻世二十三年。
あらゆる怪奇、幻想の悉くが現実のものとなった現代日本。
今の世の中、このような話、どこにでも転がっているのだから。
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