三十日月
世の中、どんなに手を尽くそうとも、そこに結果が伴うとは限らない。
寧ろ無駄骨、徒労で終わる方が圧倒的に多い。
――分かっていた。
影喰魚を殺したところで、ヒナの影が戻る保証なんかどこにも無かったことくらい。
それに気付いていた妖狐が、息巻く俺に哀れみの目を向けていたことくらい。
――分かっていたけど、考えないようにしていた。
他に可能性のある道なんて無かった。
実際、元凶を殺せば霊障が治ったなんて話は幾つも聞く。
そんな前例こそが、取り戻すための術を何年も探し回った末の、唯一の光明だった。
影喰魚を殺しても駄目なら、もう何をしてもヒナに影が戻ることは有り得ない。
だから、必ず大丈夫だと自分を誤魔化し、何も考えずに突き進んだ。
その結果が、この末路だ。
これから先も、ヒナは縛られ続ける。
生涯を、俺の所為で、夜に縛られ続ける。
…………。
俺は、どうすればいいのだろう。
明日はどこを目指して、歩みを進めればいいのだろう。
どうすれば、俺は――俺を責めようともしない彼女に、罪を償えるのだろう。
せめて、声の限り罵ってくれれば、ほんの少しは楽だと言うのに。
新月の前夜。漆黒が夜を包んだ
カーテンの隙間から微かに光を漏らすエーゲの部屋は、ひどく荒れていた。
ズタズタに引き裂かれ、四散した数十冊の本。
脚は全て折られ、天板は三つに割れ、最早ただの木屑と化したテーブル。
キッチンを隔てる扉など、殆ど原形すら留めていなかった。
「うーわ、何これ。台風でも直撃したの?」
ここ数日、バイトにも出ず閉じ篭り、目につくもの全てへと当たり散らした爪痕。
あんまり暴れるものだから、隣室に住み着いた八尺様が何事かと飛び込んで来る始末。
兎に角、滅多なことでは感情を荒げないエーゲが、猛獣も同然の様相。
一歩もアパートから出なかったのは、寧ろ英断と言えよう。
迂闊に出歩き、もし下手な輩にでも絡まれていたら、半殺しでは済まさなかった筈。
何せ空手三段のヒナを無傷で抑え込める程度には、腕が立つのだから。
「まあいいや。取り敢えずおじゃましまーす」
影喰魚を殺した夜以来、エーゲは目が視えなくなったような心地であった。
これから先、自分がどうすればいいのか。
何を指標として前に進めばいいのか、皆目見当もつかない。
しかし、塞ぎ込むのも当然と言えば当然のこと。
ヒナの影を取り戻し、彼女が奪われた全てを返すという義務。
その義務を果たせる唯一の道が、無残にも閉じられてしまったのだ。
無力感、喪失感、ぶつけどころの無い怒り。
混沌とした感情に打ちのめされ、部屋の隅で膝を折り、項垂れるエーゲ。
「どーぶらいびーちぇる、エーゲ! ヒナちゃんだぞー!」
「…………?」
どっぷりと沈み込んだ底無し沼。
そこからエーゲを現実に引き上げたのは、よく響く朗らかな声。
適当な発音の、舌が足りていないロシア語。
無遠慮な調子で、肩を叩かれる。
ゆっくりと、面を上げた。
「ちょ、顔色悪くない? 目の下もクマすごいし……ちゃんと寝てる? 食べてる?」
透き通った白皙の女。
新調した厭魔の風鈴をちりんと鳴らしたヒナが、居た。
「……ヒナ?」
「はいはいヒナちゃんです」
縁無し眼鏡の似合う怜悧な目鼻立ちで、子供のように明るく笑うヒナ。
そんな彼女を見止めるや否や、エーゲは思わず顔を伏せる。
――到底、会わせる顔など無かった。
影を返してやれる、なんて啖呵を切っておきながら、蓋を開ければこの有様。
重ねて、もう次の打つ手が何ひとつ浮かばないという惨状。
馬鹿馬鹿しくて目も当てられない。
死んで詫びろと怒鳴られて、いっそ順当。
少なくとも、エーゲがヒナに対して抱く罪悪感は、そうした次元のものなのだ。
…………。
だと、言うのに。
「こらエーゲ、なんでボクの方を見ないの。ちゃんとこっち向きなさい」
「むぐっ……!?」
両手で頬を挟まれ、無理矢理に視線を重ね合わされる。
吐息がかかるほどの間近で、金色の瞳と対面する。
間近とした数十万に一人の輝く双眸は、どこまでも澄んでいた。
露骨に目を逸らされた不機嫌は含めども、怒りや憤りの色は一切窺えない。
そして、それが却ってエーゲの心を軋ませる。
『影? あ、戻らなかったんだ。へー』
ふと彼は、暁月の晩にヒナと交わした最後の会話を思い出した。
あの夜。目覚めた彼女に、エーゲは全て告白した。
影喰魚を殺せはしたものの、影は戻らなかったこと。
他に取り戻す術が、現状の彼にはおろか、妖狐にも文車にも思い当たらないこと。
エーゲは兎も角、残る二人は片や大妖、片や数百年を生きた九十九神。
彼女等が首を横に振ったならば、打開が望める手立ては存在しないに等しいこと。
そうした全てを洗い浚い、口早に打ち明けた。
まるで責め苦、断罪を望むかの如く。
『ってかボクの風鈴が砕けてる!? わーん、お気に入りだったのにー!』
けれども。直後にヒナが紡いだのは、影よりも風鈴を惜しむ口舌。
手応えの感じられない、真意の理解が能わぬ声。
対するエーゲは、見当違いな苛立ちさえ、抱いてしまった。
何故、怨嗟を俺にぶつけない――と。
「ねーねーあのねー、ボクお腹空いちゃったの。何か食べに行こ?」
どこまでもふわふわと軽く、綿菓子のように振る舞うヒナ。
異常とも呼べる甘ったるさと柔らかさに、エーゲの苦悶と思惟が少しずつ削られる。
ヒナの、この幼馴染の胸の内が、全く分からない。
笑顔の裏に黒い感情を潜ませているのか、或いは本当に本心を語っているのか。
考えれば考えるだけ、より一層混乱させられた。
「んー? おーい、エーゲー?」
挟み込まれた頭を、軽く揺すられる。
もう、まともな思案に割く気力すら失せかけていたエーゲは、力無く溜息を吐き出す。
暫し間を置き、返したのは、錆びた仕草での首肯。
次いで、小さな呟き。
それは日頃の彼と似ても似つかぬ、弱々しい声音での言葉だった。
「なんなんだ……お前……」
「コンビニのチキン、ちょー美味しー」
衣を噛む度に口の中へと肉汁が飛び散る、揚げたてのチキン。
近所の公園でブランコに腰掛け、幸せそうにそれを頬張るヒナ。
まあ、ものを食べている時の彼女は、大体このような感じであるが。
「……リミットは三十分だ。新月に近付いた方が活性化する化生も多いからな」
「はーい」
公園の四方に結界を張っていたエーゲが戻る。
式紙を空へと飛ばした後、ブランコの支柱に寄りかかった彼。
次いで、ヒナの傍で舞う燐光纏った蝶を、鬱陶しげに握り潰した。
「あ、かわいそー。その蝶々、綺麗だから好きなのにー」
「つっても、結界の中に告死蝶うろつかせてたら何の意味もねぇだろ……」
切らした針の代わり、拾った小石を指先で弾き、間髪容れずもう三匹仕留める。
淡く光を帯びた翅がバラバラに砕け散る様は、残酷ながらも幻想的であった。
「エーゲも食べる? 何か口に入れないと倒れちゃうぞ?」
「……そうだな……あぁ、そうするよ……」
「どーぞどーぞ」
鱗粉で汚れた手をはたき、袋に十個近く詰まったチキンをひとつ受け取る。
スパイスが利いた筈のそれは、けれど妙に味が鈍かった。
数日、まともに眠れていない所為だろう。
同様に食事も疎かとしていたからか、固形物がひどく飲み込み辛い。
とは言え、結界を張る際の消耗も含め、いい加減何か食べなければ持たないのも事実。
缶コーヒーで、無理矢理に胃まで流し込んだ。
「美味しいって幸せだよねー。幸せだと嬉しいよねー」
エーゲがどうにか半分食べ終えた頃、五つ目に手を出しながら歌うように呟くヒナ。
悩みなどとは無縁だとばかりの、陽だまりで眠る仔猫を想起させる振る舞い。
「……ッ」
そんな彼女を見ている内、エーゲは胸の奥底で、言葉にし難い思いが湧くのを感じた。
心がささくれ立つのを感じた。
何故――と。
「ヒナ……」
「んー?」
改めて考えれば、面と向かって
聞くまでもないと決め付け、敢えて確かめるなんて下らないと、切り捨てていた。
――だが、分からなくなってしまった。
あまりにも、ヒナが気に留めた様子のひとつすら、おくびにも出さないものだから。
故、エーゲは。
半ば無意識に口を突いて出る形で、その疑問を声とした。
「お前は俺を……俺を、恨んでるんじゃないのか……?」
「ほえ?」
ぱちぱちと目を瞬かせるヒナ。
要領を得ないその反応に、俯きながら彼は続ける。
「全部、俺の所為なんだぞ」
静かに血を吐くような口舌。
後悔と自嘲で混沌と濁った声音。
「髪からも肌からも色が抜け落ちた身体も」
「昼の世界を生きられない在り方も」
「鏡に映らず、写真にも残らない欠落も」
「新月の度、出会いの記憶を取り零す呪いも」
「何もかも何もかも何もかも、俺の」
震えを帯びた舌先で、矢継ぎ早に並べ立てる。
嘗て己の過ちで以て失わせた、奪い取ったも同然の全てを。
そうやって言葉として紡ぐことで、一層に重くのしかかる罪過の圧。
掌に爪が食い込むほど強く握り締め、真紅の血をぽたぽたと滴らせる。
「俺が一体、お前にどれだけの不自由を強いたと思っているんだ」
幾重もの縛鎖による雁字搦め。
まともな暮らしなど、これから先もおよそ望めない。
「日の下を歩くことも出来なければ、誰かと添い遂げることさえ難しい」
妹も同然な幼馴染の人生を、こんなにも歪めてしまった。
にも拘らず、十年も待たせた挙句の贖いは、全くの無駄骨だった。
「全部全部、俺の責任だ」
恨まない筈がない。
憎まない筈がない。
ならば、せめて。
「責め立てろよ。当たり散らせよ。なんでいつもみたいにヘラヘラしてられんだよ」
我ながら身勝手もいいところだと、エーゲは内心で呆れ果てた。
だが、それでも言わずにはいられなかった。
奪われた影を、ヒナへと返す。
最早エーゲにとって、己が
けれども、その実現は今や絶望的。
大海を往く船旅の中途、頼りきりであった羅針盤を失ったに等しい心境。
神仏という輩の無情さなど今更だが、いくらなんでも酷が過ぎる。
何の罪も無い女一人、救ってくれやしないとは。
「どうして。ちくしょう、どうして」
弱々しく両手で顔を覆い、踏み固められた土にずるずると腰を下ろす。
何色もの絵の具を混ぜ合わせたかの如く、思考が定まらない。
「……なんだってんだよ、お前は……ッ」
熱く痛む目頭。
鼓膜の奥で喚く耳鳴り。
全身に深い罅が入ったような錯覚。
いっそ気狂いでも起こせれば、どんなにか楽だろう。
自暴自棄に蝕まれながら、声も無くエーゲは嗤う。
そんな彼を。ふわりと、柔らかな感触が包み込んだ。
抱き締められている。
一体誰に、などと考えるまでもない。
今この場には、エーゲとヒナしか居ないのだから。
「ッ――!?」
想像もしなかった、唐突な行為。
軋むほどに、エーゲは身を強張らせる。
対し、彼の耳元に唇を寄せるヒナ。
彼女は優しく、けれど少しだけ怒った風に、囁くのだった。
「ばか」
「恨んだりなんてするもんか。ボクはちゃんと知ってるんだから」
爪を黒く塗った細い指が、背を撫ぜる。
何かの花に似た淡い芳香が、そっと鼻腔をくすぐる。
「キミがどれだけ苦しんできたのか。どれだけボクを守ってきてくれたのか」
弱り果てた心に染み入るウィスパーボイス。
頭痛を招くほど騒がしかった耳鳴りが、止んだ。
「……当然の責任を果たしてるだけだ」
かき抱かれるヒナの腕が心地良くて、思い出したように眠気が押し寄せる。
それを振り払いながら、エーゲは彼女を押し退けた。
「俺は……賞賛されることなんか、ひとつもやってない」
「でもでも、ボクはとっても感謝してるんだよ?」
分からない奴だ、と胸の内で苦々しく思う。
誰よりも己を責め続けているエーゲにとって、慰めや肯定の言葉など毒でしかない。
じくじくと腑が痛む感覚に奥歯を噛み締め、力無く嘆息する。
そして、重ねて否定を吐き出すべく、口を開きかけた間際。
唇へと指を添えられ、機先を制された。
「分かってる」
哀を含んだ声色。
呼応するかの如く、風鈴が寂しげにちりんと鳴る。
「エーゲの後悔も自責も、みんな分かってる」
分からない筈がない。
物心つく前から一緒だった。
半生以上の時間を共に過ごし、ずっとエーゲを見詰めていた。
「だけど」
目の下の隈をなぞり、額を合わせる。
透明なレンズ越し、互いの視線が溶け合う。
「それをボクに、押し付けないで」
――唇を、重ねた。
ヒナの方から、触れるだけのキス。
何をされたかエーゲが理解すると同時、彼女は名残惜しげにゆっくりと離れた。
「ねぇエーゲ。ボク、割と幸せなんだよ?」
潤んだ瞳、赤らんだ頬。
こうした年相応の女らしい
そんなエーゲの傍ら、ゆるりと立ち上がったヒナ。
ピンハイヒールで軽快にステップを踏みながら、髪留めと風鈴を解いた。
「真っ白な肌も髪も、超美白って感じで可愛いし」
僅かな月光すら跳ね返し、淡く輝く麗しい姿。
振り向いて、指をひとつ立てる。
「昼間は消えちゃうのだって、別に痛かったり苦しかったりするワケじゃないし」
先程、エーゲが並べ立てた罪の証を、努めて明るくなぞって行く。
「鏡になんか映らなくても特に困らないし、写真だって元々あんまり撮らないし」
彼の抱く罪悪感は、些か大袈裟が過ぎるのだと。
まるで、そう諭すかのように。
「……そりゃ、毎月毎月それまで会った人達のことを忘れるのは、少しだけ困るけど」
でも、とヒナは前置いて、笑った。
「エーゲのことは、ずっと覚えていられるもの」
白い雛芥子の花言葉が齎した呪詛。
新月が訪れる都度、出会いに関する記憶を忘却する呪い。
けれど、エーゲだけはその例外。
何故と問うなら、それは実に簡明なカラクリ。
「だから大丈夫だよ、
迂闊に名を知られようものなら、どこの誰に呪われぬとも限らない。
故、親兄弟を除けばヒナくらいにしか明かしていない、エーゲの本名。
盈月。即ち満月の別称。
欠けることも沈むことも無い、不落の月。
彼が験力の多寡を月齢に左右される所以であり、同時にヒナが彼を忘れない楔。
皮肉と言えば、皮肉な話だった。
「エーゲが居てくれさえすれば、ボクは大丈夫なのです」
好意の吐露にも等しい、締め括りの甘い台詞。
得意げに胸を張ったヒナを、エーゲは暫し呆然と見据える。
そして程無く、深々と肩を落とした。
「……お前って、本当に馬鹿だよな」
「なにおー!?」
自身を苛む呪いの元凶相手に思慕を寄せるなど、正気の沙汰とは考えられぬ思考回路。
半生以上を共にした女だけれど、全く以て理解し難い。
だが――だからこそ。
「そんな掛け値無しの馬鹿さ加減に……ほんの少し、救われる」
「んむ? わーい、褒められちゃったー♪」
喜び跳ねるヒナを尻目、寝不足の重い身体で緩慢に立ち上がるエーゲ。
次いで溜息混じり、ポケットへと両手を突っ込んだ。
「……帰るか?」
「うんっ!」
呟き、歩き始めたエーゲに応じ、続くヒナ。
気だるく足を出す男の周りを、ちょこちょこと忙しなく付いて回る女。
結局はいつも通り。収まるべき鞘に落ち着いた二人。
余人が見れば歪と映るやも知れない、しかし彼等にとっては平たる関係と光景。
ふとエーゲは、星も月も見えぬ晴天の夜空を仰ぐ。
中空で舞う告死蝶をなんとはなし眺めつつ、彼は小さく口の端を吊った。
「そう悲観ばかりすることもねぇよな……」
幸か不幸かは兎も角、使える伝手もできた。
四尾の妖狐、及び文車妖妃。
彼女達に助力を乞えば、いずれは解呪の手立ても見付かろう。
既に影喰魚の一件で借りを作ってしまった以上、もはや足踏みする理由も消え失せた。
毒を食らわば皿まで。
例え高位の化生であろうとも、使えるものは使い尽くす。
とどのつまり。諦めて膝を折るには、まだまだ早い。
「ヒナ。次はキッチリ耳揃えて返してやるから、もうちょっとだけ待っててくれ」
「おっけー! 期待しないで待ってるよ!」
中々言ってくれる。
満面の笑顔で返された言葉に、エーゲは久方振り、声を上げて笑うのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます