暁月
ヒナには、影が無い。
否。あるにはある。
しかしそれは、僅かな食い残しで形を繕っただけの、ひどく薄いもの。
とても影とは呼べない、ズタズタの残骸。
……影が無いということは、即ち光を受け止められないということだ。
故に、ヒナは光の世界と言い換えるべき日中には存在できない。
どことも知れないどこかへと消えて、夜の訪れと同時、再び現れる。
あいつはそんな、半分きりの人生を強いられ続けている。
危険で孤独な夜にしか遊び歩くことも能わぬ、暗がりに追いやられた生き方を。
ヒナは鏡に映らない。写真にも姿が残らない。
当然だ。あれ等はどちらも光による現象。
あいつは自分の形を知ることも、過去の瞬間を切り取ることも適わない。
人とは違う時間の流れに立たされておきながら、あまりにも酷な仕打ちだ。
光が受け止められない身体では、目玉など何の役にも立ちはしない。
よってヒナは盲目だ。普段視えているのは、特殊な呪術を篭めた眼鏡の恩恵。
あのレンズを通さなければ、あいつは何ひとつ視られない。
光とは、色でもある。
その光を留められなくなったヒナは、髪からも肌からも色が抜け落ちてしまった。
あいつがいつも黒い装いに身を包んでいる理由は、色を失くしたことへの不安。
最も濃い色を纏うことで、少しでも喪失感を拭おうとしているから。
最後に、とどめに、ひと噛み。
無色たる白は、更なる呪いをヒナへと与えた。
ヒナの本当の名は、
由来は無論、同じ名を持つ花。
そして、白い雛芥子の花言葉は『忘却』。
そんな言霊が、あいつを呪った。
多くの呪いが最も力を高めるのは、真なる闇が訪れる新月の夜。
その日を境に、雛芥子は忘れてしまう。
半分きりの一ヶ月間で縁を紡いだあらゆる相手のことを、取り零してしまう。
親も兄弟姉妹も、知人も友人も、全て全て。
ただ一人。俺という例外を除いて、忘れるんだ。
それこそが、愚かな俺への罰なのだと、知らしめるように。
「おーう青二才。なんぞ機嫌良さそうやんけ」
いつも通り、夜の四辻でのヒナとの待ち合わせ。
動物の骨を混ぜ込んだ白墨でアスファルトに経文を記していると、背後から声。
聞き覚えのある、およそ品性というものが欠如した語調。
振り返ってみれば、中年男性の頭をぶら下げた芝犬――人面犬が、そこに居た。
「…………」
「あぁん? なんやその『嫌な奴に会っちまった』みたいなツラは」
「嫌な奴に会っちまった」
「口に出して言うなやボケェ! 喧嘩売っとんのか!」
ぎゃんぎゃんと吠え立てる人面犬。
飛び散る唾を顰め面で避けた後、エーゲはふと気付く。
八尺様が居ない、と。
「……なんだ、捨てられたのか? 同情はしてやらねぇぞ、そのブサイクじゃ当然だ」
「誰が惨めな捨て犬じゃあッ! 今からご主人とこに行く途中じゃい!」
倍の勢いで喚かれ、流石に耐え兼ねて耳を押さえるエーゲ。
悪気があったワケではないのだが、確かに今のは言い過ぎだったかと自省する。
「大体のぉ、言うに事欠いてブサイクとはどーゆー了見じゃあ!?」
「……どうも何も、事実だろ」
「だらっしゃい! ワシぁこれでも人面犬の中じゃあ伊達男で通っとるわい!」
それが事実だとするなら、人面犬業界の顔面偏差値は胴体着陸寸前の勢いだろう。
とは言え、敢えて口にする必要もあるまいとエーゲはかぶりを振る。
幾らなんでも、哀れが過ぎた。
「可哀想なもんを見るような目ぇすんなや! 動物愛護団体に訴えたろかァ!?」
声に出さずとも、目が口ほどにものを言っていたらしい。
もうひとつ、自省する。
尚、どうでもいいけれど、動物愛護団体が人面犬の擁護をしたという話は聞かない。
何かにつけて動物虐待だと騒ぐ彼等も、化生の類となると無関心なのである。
世知辛い世の中だが、対応としては間違っていなかった。
「ったく、近頃の若いもんは全く……礼儀がなっとらん!」
「昭和か平成みたいな物言いだな」
精神を養う写経や禅などの文化、魔を退けることにも繋がる古い作法。
そうした交々が学校教育に組み込まれた幻世生まれは、寧ろ礼儀正しい傾向にある。
「平成の終わり頃なんかは、ワシを見ただけで誰も彼もキャーキャー言ったもんじゃい」
「人面犬が珍しかっただけだろ。あと、それ多分悲鳴だと思うぞ」
平成終盤と言うと今から二十年飛んで少し前、九十年代後半。
五色不動の結界が失われてから、数年足らずの頃。
未だ怪奇の存在が半信半疑であり、政府の動きも鈍かった時期。
そのような折に人面犬が黄昏時の往来を歩こうものなら、悲鳴も上がっただろう。
なんなら、悲鳴と共に石のひとつも投げられている筈。
改まってしみじみと振り返るほど、良い時代とは思えなかった。
まあ、思い出とは総じて美化されるもの。
昔は良かったと高らかに語るこの様子では、綺麗さっぱり忘れていると思われる。
幸せな話であった。
「……ジャーキー、食うか?」
「だからその哀れんだ目をやめいっちゅーとろーが!」
怒声を吐きつつも、エーゲが差し出したビーフジャーキーを毟り取る人面犬。
骨格は人でも咬合力は犬のそれなのか、硬い干し肉をビスケットのように噛み砕く。
「慰めたつもりなんだが」
「余計な世話じゃ! っとーに人間はしょーもない輩じゃのぉ!」
嫌味ったらしく言いながら、後ろ足で耳の裏を掻く。
そして、どこからか取り出した煙草を咥え、器用にもライターで火を点けた。
「ぷはぁ……まあ、ええわい。ワシは寛大じゃけぇの」
「寛大」
あれだけ怒鳴り散らしておいて、どの口がほざくのか。
得意げな人面犬を見下ろすエーゲの眼差しは、実に冷たい、白けたものであった。
「で、最近どんなもんじゃ? んん?」
「子供と久し振りに話す父親かよ。絡んで来るな、さっさと行け」
「往来での歩き煙草はマナー違反ちゅうのを知らんのかいな」
そう返されてはぐうの音も出ず、溜息混じりにブロック塀へと背を預けるエーゲ。
黒い夜空を見上げると、細い月が薄雲のヴェールを纏っていた。
ヒナは、まだ来ない。
気だるくポケットを弄り、引っ張り出した懐中時計をちらと見る。
既に待ち合わせ時間は過ぎていたけれど、いつものこと。
恐らくと言うか間違いなく、あと十分は待たされるであろう。
…………。
ならばこその、ちょっとした手持ち無沙汰ゆえに、か。
煙草を吸い終えたら尻を蹴り出す心積もりで、エーゲは人面犬に語りかけた。
「ずっと探してたものが、ようやく見付かりそうなんだ」
「ほーん。だから機嫌が良かったんかい」
「幼馴染みの大事なものでな。やっと、返してやれる」
「何よりやないか」
安堵に緩んだ口の端。
見た目には少々分かり辛いが、心底嬉しげな様子だった。
そんなエーゲを尻目、人面犬は肺いっぱい吸い込んだ煙を残らず吐き出す。
「ま、相手の方もそれを望んどるなら、の話やけどな」
「……あ?」
「人間はアホやからなぁ。一度信じ込んだら、中々疑おうとせぇへん」
何とも引っかかる物言い。
エーゲが、訝しむような目を人面犬に向ける。
「どういう意味だ」
「ただ一直線に突っ込む前に、もういっぺんよう考えてみぃってこっちゃ」
携帯灰皿に吸い殻を落とし、伸びをする人面犬。
まさしく休日の中年男性を思わせる振る舞いの後、彼はだらだらと踵を返した。
「ほいじゃのぉ。まーまー頑張りぃ」
「あ、おい――」
制止の声も聞かず、去って行く。
残されたエーゲは暫し佇み、それから小さく舌打った。
「……馬鹿馬鹿しい。これだから、オッサンは」
所詮、事情も知らぬ部外者の的外れな説教。
そもそもあの年代の輩は、自論を託宣のように語りたがるもの。
素直に聞き入れたところで、益など欠片もありはしない。
けれど。
「……ヒナが……望んでないワケ、ねぇだろうがよ……」
口を突いた否定の言葉は、どうしてか歯切れ悪く。
そんな自分に苛立つように、エーゲはガシガシと頭を掻くのだった。
「にしても、珍しいよねっ。エーゲがお出かけに誘ってくれるなんてさ」
小さな口でハンバーガーを頬張りながら、どこか嬉しげにヒナが言う。
対し、エーゲは顎へと垂れたケチャップを拭ってやった後、軽く肩を竦める。
「いいだろ、たまには」
「たまにじゃなくても大歓迎だよー! ボク、基本的にフリーだし!」
「……暇人め」
呆れ混じりの、苦笑気味な呟き。
食べ終えたハンバーガーの包み紙を、無造作に放り投げる。
丸めた紙屑は綺麗な弧を描き、寸分違わずゴミ箱に吸い込まれた。
「あ、ポテトちょーだい?」
「好きにしろ。冷めて不味くなる前に食っちまえ」
冷たくなったフライドポテト。
取り分けファーストフード店のそれの不味さは、およそ筆舌に尽くし難い。
たった十数度かそこらの温度差で、何故あそこまで劇的に不味くなれるのだろうか。
エーゲは昔から不思議でならなかった。
「でもボク、あのもそもそした感じも嫌いじゃないよ?」
「お前はそうだろうさ」
グルメと嘯きつつ、実際はプラスチック以外なら何でも食べかねない悪食。
A級もB級もC級も関係無し、生焼けも黒焦げも半解凍もお構い無し。
胃袋自体、線の細さに反して頑強。ジャガイモの芽程度は意にも介さないレベル。
着の身着のまま無人島に放り込まれたとしても、恐らく問題無い。
水さえあれば、あとは木の根でも何でも齧って長らえるだろう。
ただし、コーヒーだけは飲もうとしないが。
子供の頃ブラックを口にして以来、トラウマらしい。
「ねーねー、食べ終わったらどこ行こっかー」
ちょうど螺子を巻いていた懐中時計を見れば、午後八時過ぎ。
大概の店は、とうにシャッターが閉じた時間帯。
遊べる場所と言えば、この近辺ではカラオケくらいのものだろう。
……なのだが、今夜は少しだけ事情が違った。
「映画なんかどうだ。珍しくレイトショーやってるらしいぞ」
「ほんと!? なになに、今なにやってるのー!」
日頃、スクリーンで映画を観る機会など殆ど無いに等しいヒナ。
予想通り提案に食い付いた彼女を尻目、エーゲは折り畳んだパンフレットを取り出す。
そして、スケジュール欄を見下ろし――絶句と共に、顔を歪ませた。
「……『キョンシーVSハブⅤ』……だと……?」
「わーい! 行くー!」
秒を刻む毎に気力が削ぎ落とされ、
そんな、どう取り繕おうとも苦行としか形容能わぬ、悪夢の如き三時間であった。
「すっごく面白い映画だったね!」
「死にそうなほど最低最悪な映画だった……」
片や文句無しの五つ星、片や星ひとつくれてやるのも御免被る落第点。
レビューを書けば、さぞ対照的となるだろう感慨を胸に、並んでシアターを出る二人。
喜色満面、御満悦な様子のヒナ。
反面、生気が抜け落ちたようなエーゲは、人生でも上から何番目かに悔いていた。
「いやー、まさか第五の刺客との戦いが将棋対決だったなんてね」
「明らかにハブ違いだろ……つか、奇声混じりに延々将棋打ってただけじゃねぇか……」
更に言うなら、決まり手はハブ側の二歩。
始終防戦一方のキョンシーが、禁じ手による反則負けで勝利を拾った幕切れ。
映画の内容としても、将棋の内容としても、下の下にすら届かない。
脚本家に抗議の電話を寄越したくなる次元であった。
「続編が出たらまた観に来ようね、エーゲ!」
「絶対嫌だ」
「約束だよ!」
「話聞け」
ただ、まあ、一点。
ヒナがここまで楽しめたことだけは、評価に値する。
そう思いながら、少しだけエーゲは笑った。
――これなら、
「ヒナ」
「んー?」
ふと。街灯の下で立ち止まり、そっと呼びかけるエーゲ。
ピンハイヒールを軸に、くるくると何度か回って振り返るヒナ。
薄明かりの下と、暗闇の中。
そんな構図で向き合いながら、本題へと切り込んだ。
「……足掛け十年ってとこか」
「え?」
「本当に、随分待たせちまった」
硬い靴音を響かせ、ヒナとの間合いを詰める。
緩い三つ編みに伸ばした指先が、結わえた風鈴を涼しげに鳴らす。
「やっと、お前との約束を果たせそうだ」
段々と見開かれて行く、金の双眸。
淡雪を思わせるあまりにも白い肌に、少しずつ赤みが差す。
「
掠れた声音。耳元で彼女の名を囁く。
今にも折れてしまいそうな痩躯を、強く抱き締める。
そして。
「今夜、きっと――お前に、影を返してやれる」
びくり、と。
熱を帯びた身体が、エーゲの腕の中で、跳ねるように震えた。
「まるで、くちなわのようだね」
着物の袖で口元を覆った、表情の読めない仕草。
遊び疲れ、帰るや否や眠ってしまったヒナを見下ろしながら、妖狐がぽつと零した。
「あぁ? 蛇がどうしたよ」
「……いいや、なんでも。貴方が気にする必要は無いことさ」
呟きの真意を問うエーゲだけれど、涼しげに目を伏せつつ、はぐらかされる。
持って回った口振りと態度に訝しく思うも、相手は狐。
下手に深読みして遊ばれるのは御免だと、思惟を断ち切った。
「店から出たのなんて、いつ以来かしら……うぅ、他人の部屋の匂いって苦手……」
妖狐から視線を外したエーゲ。
何とはなしに窓の方を見遣れば、月が浮かぶ黒天を見上げる文車の姿。
些か落ち着かない様子で、衣服代わりの巻子本を整えていた。
あんまり及び腰なものだから、大丈夫だろうかと要らぬ懸念を抱いてしまう。
事が事ゆえ、流石のエーゲも少し神経質になっているらしい。
「さて、時間も程良い塩梅だ。そろそろ始めようか」
午前二時十三分。
音頭を取った妖狐曰く、今時分は一日の中でも特に
つまり逆手に捉えたなら、エーゲ達がこれから執り行おうとしている
即ち、夢と現実の接続という難事の成就に対し、最も抵抗が緩い時間帯と言えるのだ。
「まずはもう一度だけ、繰り返し念を押しておこう」
淡々と告げながら、妖狐が軽快に指を鳴らす。
刹那、周囲の空間が僅かに歪み、滲む。
ふと気付けば、ヒナの部屋に居た筈の四人。
彼等は本のページを捲るかのように、立ち所を移していた。
「今から私と文車が行うことは、貴方達人間にとって少なからず危険を伴う」
そよ風にささめく、黄金のすすき野原。
エーゲの知らない景色。恐らくは狐の領域であるそこ。
地べたに横たえられたヒナを囲む形で、文車が法陣を張る。
此方もやはり、エーゲには理解及ばぬ高次の術式で構築されたものだった。
「賽の目次第では、貴方もただじゃあ済まないだろう。覚悟の程は?」
「笑止。故にこその禁呪だ。だからこそ俺は、あんたら化生に頭を下げた」
「……ふふっ。ならば結構!」
手短に交わされた問答。
じっとエーゲを見詰めた後、妖狐は満足気に微笑むと、早口で呪を唱え始める。
「――、――――」
人間には、正しい聴取も発音も不可能な声での詠唱。
所々しか受け取れない、断片的な音の連なり。
それに合わせ、白紙の巻物に怒涛の勢いで文を書き綴る文車。
凄まじい速記にも拘らず、書体は驚くほど流麗であった。
「……ッ」
固唾を飲みつつ、そんな二人を見守るエーゲ。
その指先は、半ば無意識にだろう。
懐の奥へと仕舞い込んだナイフの柄を、強く握り締めていた。
一分か、或いは十分か。
狂ったリズムで時を刻み示す、時計の針。
感覚を曖昧模糊とさせる、曲がりくねった時間経過。
「――
ふと風の止んだ一瞬に、妖狐の囁きが凛と静寂を打つ。
同時。どこか遠くで、或いは近くで、カチリと小さな音が鳴った気がした。
袖をたくし上げた妖狐の右腕が、瞬く間、肘まで炎に包まれる。
激しく燃え盛る狐火を灯した
「さあさ、お立ち会い。これより夢幻を引き摺り出そう」
ヒナお気に入りのビーズクッション。
柔らかなカバーに、妖狐の腕がずぶずぶと沈み込んで行く。
「文車。この子を護る結界の方は頼んだよ」
「はいはい……」
気の無い返事と裏腹、筆を紙面へと滑らせる速度が目に見えて増す文車。
にも拘らず、書き損じや誤字を一切出さないその手腕は、見事の一語に尽きた。
流石、手紙から生まれた九十九神と言うべきか。
その一方で枕という錨を辿り、ヒナが見ている夢を手探りで
程無くして彼女の腕とクッションの隙間から湧き出す、しゃぼん玉のような何か。
虹色の光沢を淡く放つそのひとつひとつの内には、雑多な光景が収められていた。
「なんだ……?」
「夢の切れ端さ。触らない方がいいよ、もしも混ざってしまったらコトだからね」
道が繋がれたことで、泡玉の形を取って早くも現実を侵し始めた夢裡。
妖狐の言う通り、触れれば取り込まれ、一部と化してしまう危険な代物だった。
「そうなったら一巻の終わり。しゃぼんが弾ければ、中の全ては消えて失くなる」
大小様々な泡玉は既に無数へと至り、中心に座す妖狐とヒナの姿を覆い隠していた。
そして、それ等は緩く吹く風に巻かれ、四方八方に散って行く。
風任せで読み難い動きの上、兎にも角にも数が甚大であった。
「……ひとつ聞くが、壊す分には問題無いのか?」
「全く大丈夫。夢なんて次から次に湧くからね。この子に異常は出ないよ」
「そうか。そいつは良かった」
聞くが早いか、エーゲはコートの内から破魔の針を引き抜いた。
指の間に挟み、十本以上を同時に構え、振り回すように投げ付ける。
「得意技だ。飛んでるカラスの翼も撃ち抜ける」
暇を見ては練習を重ねた、正確無比な投擲術。
彼の手近で舞うしゃぼんの殆どが、音を立てて破れ砕けた。
「…………結婚、しよ?」
そんな姿に、何かが琴線へと触れたらしい。
思わず口を突いて出たかのような、婀娜っぽい求婚の声を紡ぐ妖狐。
「断る」
無論、エーゲは新たな針を構えつつ、にべもなく切り捨てたが。
「無駄口叩いてねぇで、さっさと進めやがれ」
「つれないなぁ……好き」
「マジでなんなんだコイツ……」
選択肢の如何を問わず、ほぼ自動的に上がり続ける好感度。
ここまで来ると、もう殆ど呪いと変わらないのではなかろうか。
正夢之小道。
夢と現とを接ぎ合わせる、極めて特異な呪術。
人が用いる術理の系統樹には片鱗すら存在しない、狐狸特有の術。
それを執り行う前、エーゲがヒナを外へ連れ出したのには、幾つかの理由があった。
ひとつは、彼女に適度な疲労を与えるため。
夢の世界とは絶えず激流に晒された、荒唐無稽な混沌の異界。
その激流を緩めるには、理想的な形での睡眠こそ肝要。
眠りが穏やかなものであれば、夢見も些少なり理性を得る道理。
慰め程度の沈静化だが、それでも確実にハードルは下を向く。
そして、もうひとつは単純に彼女を楽しませるため。
心とは弾めば浮き上がり、気落ちすることで沈み込むもの。
多幸感によって軽くなれば、その分だけ引き摺り出しやすくなる。
そう。つまり、そういうことだった。
「貴方から誘われたデートが、よほど楽しかったらしいね。少し羨ましいくらいだよ」
「言ってる場合!?」
しみじみ述べる妖狐へと怒鳴る文車。
エーゲに至っては、口を開く余裕さえ無い有様であった。
すすき野原一面を揺蕩う泡玉の群れ。
最早、数えることも愚かしいほどの膨大。
そんな僅かな隙間を縫うように、エーゲはしゃぼんをかわし続けていた。
「チッ……」
破魔の針を正面に三本投げ、密集地帯に道を作る。
虹色に阻まれた視界が開けた瞬間、一気に駆け抜けた。
しかしながら、数が数。体捌きだけで対処するなど、そもそも不可能。
出し惜しんだ末、本命に辿り着けなければ元も子もなかった。
結界を張って凌ごうにも、触れたものを喰い取る泡玉が相手では致命的に分が悪い。
結局、七割方は既に注ぎ込んでしまっていた。
「ひとまず、この場を離れてやり過ごすべきか……?」
「お勧めしないよ。 ここは狐の山、私の一族の縄張りだからね」
曰く、この近辺は彼女の陣内ゆえ安全だが、一歩でも出れば保証できないとのこと。
珍しく真面目な語調で、そう告げられた。
「姉さんか妹に見付かったら……たぶん、週末には挙式かな。二人とも惚れっぽいし」
あの日、嫁入り行列に来賓として呼ばれていたのが彼女で良かった。
エーゲは初めて、心底からそう思った。
「繊細な術を使うためとは言え、できればここにはまだ連れて来たくなかったよ」
「――てか! あとどれくらいかかりそうなワケ!? 手ぇ攣りそうなんだけど!」
既に片手では間に合わないのか、左右に筆を持ちながら、文車が悲鳴を上げる。
増える一方の泡玉は、ヒナの夢の最深部へと近付きつつあることの証左でもある。
しゃぼんに塗れながら平然と手探りを続ける妖狐は、空き手で軽く顎を撫で、答えた。
「それらしいのは居たんだけど。影だけの魚って掴み辛くてね」
「もう少し焦りなさいよ! 私もう五分持たない!」
半泣きの文車。
対し、妖狐は素知らぬ顔。
別に文車が腱鞘炎となろうが、妖狐にはどうでもいいのだ。
結界を途切れさせてヒナに命の危険が迫ろうと、妖狐にはどうでもいいのだ。
――けれど、現状に全く焦っていないかと言えば、嘘になる。
「はっ……はぁっ……」
明らかにエーゲの顔色が悪い。
視界を埋め尽くさんばかりに広がる、しゃぼんの隙間。
即ち、夢と現の狭間をすり抜け続けることで、肉体と精神が剥離し始めている。
まさか、ここまで夢裡の浸食が早いとは些か想定外。
急がなければ、彼は泡玉に触れずとも夢に取り込まれてしまうだろう。
月の欠けによる験力低下を受けての呪的抵抗力減衰も無視できない。
持ってあと十分といったところか。
「……鬱陶しい」
少し離れたエーゲにも、すぐ傍の文車にも届かない、昏い声音の微かな呟き。
掴み取ろうとした指先から、獲物がするりと逃げて行く。
「あぁ、面倒臭いなぁ」
ヒナの夢を、彼女の心を壊さぬよう気遣いながらでは、殆ど力が篭められない。
故にこそ先程より、七度も捕らえ損なっていた。
…………。
そも、何故こうまでして、こんな小娘の身を案じてやらねばならないのか。
「少し罅が入るくらい、別に構うことは無いか」
「は?」
どうやら己で思っていたより、妖狐の苛立ちは強かったらしい。
声の調整を誤り、文車にだけ口舌が届いてしまう程度には。
「加減し損ねてしまったらごめんね。ま、悪くても廃人になるだけだし」
枕の中、精神の坩堝たる夢の世界に食い込んだ腕を舐める狐火が、一層に火勢を増す。
そうして、妖狐が何をしようとしたのかを悟った文車が、止めに入る暇も無く。
「――捕まえた」
強引に。力任せに。
どこか酷薄な笑みを口元に浮かばせながら――妖狐は、獲物に爪を立てた。
ヒナの三つ編みへと結わえられた
果たしてそれだけで済んだのは、偏に彼女の悪運強さゆえか。
全てが正七角形となって飛び散った、四十九のガラス片。
見下ろす妖狐はどこかつまらなげに目を細めつつ、勢い良く枕から腕を引き抜いた。
「ふつ・ふつ・ふつり・ふつ・ふつり」
剣が何かを断ち切る音色を口語とした言霊。
爪で引き裂く所作を受け、枕に穿たれた黒い渦の如き空洞が軋むように塞がる。
繋いだ際の繊細さとは裏腹、食い千切らん勢いで以て別たれた夢と現。
大元を失ったことで、犇めく泡玉も次々と弾け消えて行く。
そう間を重ねず、元の景観を取り戻したすすき野原。
何もかも幻だったのではと思わせるほど、僅かな跡形さえも残らぬ光景。
文車の手が止まり、半ば痙攣する指先から、ぽろりと筆を取り落とす。
張り詰めた気が緩んだのか、足をよろめかせたエーゲが、深く静かに息を整える。
まずは、ひと段落。
けれども、演目の本番は、正しくここから。
自分の役目は終わりだと仰向けに倒れ込んだ文車と、一方で更なる覇気を纏うエーゲ。
そんな両者の様子を見て取った妖狐は、未だ燃ゆる手に掴んだ
地を這う虚ろな影を。
実なる身体を持たざる、大きな魚を。
「……かげ、は、みぃぃ……!!」
妖狐に影縫いの要領で踏み付けられ、まともに動けずのたうつ影喰魚。
その姿を捉えるや否や、エーゲの脳と臓腑が激昂に煮える。
「分かっているとは思うけど、こいつは貴方の恐怖を核とした無形の怪物だ」
呟いて、ふと爪を振り下ろす妖狐。
腕が歪んで見えた速度の一撃は、ショベルカーさながらに土石を削り取った。
だが、影でしかない魚は意にも介さない。
ただ妖狐の踵から逃れようと、窪んだ地面の上で半身をくねらせていた。
「貴方にしか祓えない。そして、貴方が怖れている限り、こいつは消えない」
「……俺の、影への怯え、か」
持って生まれた怖れとは厄介極まる。
魂へと直接刻まれた、精神の最奥に巣食う感情なのだから。
死への恐怖などが最たる例。
本来、克服しようと思ってどうこうなるものではない。
よほどに強い別の感情で以て、一切を上塗りでもされない限りは。
「くっだらねぇ」
エーゲはそう吐き捨てると、何の躊躇も無く大股で歩み寄る。
影喰魚を睨め付ける眼差しには、恐怖の色など欠片も宿ってはいなかった。
「そんなもん、ヒナがこいつに影を食われたあの日から、とうに消え失せた」
今、エーゲが嘗ての己が恐怖の具現を前に抱く思いは、ただ只管な後悔と怒り。
一人の女の在り方を歪めてしまった、あまりにも深い慚愧と自責の念。
「足を、退けてくれ。ここからは俺がやる」
「そうか。あい分かった」
頷いた瞬間、妖狐の姿が揺らいで失くなり、文車の隣へと移る。
戒めを解かれた影喰魚は、弾かれたように彼女とは逆の方へと逃げ始める。
――その行先に、何本もの針が突き立った。
「逃がすかよ」
文車の店で買った高等呪術教本。
記載された術を幾つか試したところ、エーゲは針を使ったものと特に相性が良かった。
恐らくは彼の刺々しい気性が、尖ったものとの親和性を高めているのだろう。
加えて、今宵彼が持ち込んだのは、何日もかけて験力を染み込ませた破魔の針。
結界の強度は、以前夢の中で咄嗟に使った時の比ではない。
「あとは、こいつだ」
喉奥で声を磨り潰すように告げ、懐から取り出したのは、一本のナイフ。
奇妙な形に刃を研ぎ上げた、まともに使えばリンゴの皮剥きも難しいだろう代物。
何故か、刀身が仄かに赤い。
そんな異様を遠目に見据えた文車が、驚愕に目を見開いた。
「ちょ……あれ、まさか五色不動の……!?」
「目赤不動明王像の一部を溶かし込んだ神刀だね。私達のような存在にとっては猛毒だ」
怪奇、化生の類とは、基本的に人の手では殺せない。
祓うか封じるか、そのどちらかの選択肢しか選べない。
エーゲの持つナイフは、そうした不可能を覆せる数少ない例外のひとつ。
たった一度きりしか使えない代わり、異形の徒を完全に滅する御神刀。
銘を『明王の小指』という。
「起きろ」
鞘から抜き放たれたことで、波打つように溢れ出る神威。
本能的に脅威を感じ取ったのか、影喰魚が結界を破らんと一層激しく暴れ始める。
が、更に七本。
手持ちの残り全ての針を惜しげもなく投じられ、完全に括られた。
目前に迫った悲願達成、満願成就の時。
笑みとも憤怒ともつかない顔で、エーゲはひとつ、吐息する。
「かごめ、かごめ――」
影喰魚を産み落とす帰結となった、わらべ歌。
今この瞬間にそれを口遊むエーゲの心境は、果たして歓喜か或いは皮肉か。
彼自身、よく分からない。
「籠の魚はいついつ死にやる――」
逆手に振り上げられたナイフ。
囚われた獲物に、その兇刃を凌ぐ手段は無い。
「腹を捌いて、
柄を握る五指が、小さく震える。
強く噛み締められた奥歯が、ぎりっと軋む。
そして。
「喰われたものを、喰い返せ――!!」
空気を破らんばかりの、喉を裂く咆哮。
四半秒の後。ひとつの怪奇が、永遠に死んだ。
けれども、ヒナの。
雛芥子の影は、戻らなかった。
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