下弦之月






 まだ幼い頃、俺は自分の影が恐ろしかった。


 日の下で過ごす時、ふと足元を見れば必ずそこに居る影。

 どこまで行ってもついて来て、どこまで逃げても振り切れない影。

 それが、どんな化け物よりも恐ろしくて堪らなかった。

 いつか影が地面から剥がれて俺を殺し、成り代わろうとするんじゃないか。

 そんな妄想に取り憑かれて、気が気じゃなかった。


 だから。藪を突いた。

 あまりの恐怖に耐え兼ね、愚かしい真似をした。


 かごめかごめ。


 歌遊びの形を取った古い降霊術。

 当時、クラスで流行っていたそれ。


 その歌詞に幾らかの改竄を加えた替え歌で、ヒナを含めた数人と、儀式を行った。


 俺から影が消えるように。

 二度と、自分の影に怯えずとも済むように。


 結果は……少なくとも、半分は成功と言えた。

 子供の浅知恵で執り行った儀式が上手く行くなど、奇跡にも等しい話だ。


 ……いっそ、失敗すれば良かったのに。

 失敗して、腕の一本も失くせば良かった。


 何故成功させたと、夜の度に神仏を呪った。

 下らない。全て自業自得だと言うのに、見当違いも甚だしい限りの八つ当たりだ。

 けれど、分かっていても、呪わずにはいられなかった。


 …………。

 ただ只管に影を怖れるばかりだった俺は、まるで考えもしなかったんだ。

 影が無いということが、果たして何を意味するのかを。


 賢しらに振る舞うばかりの、馬鹿なガキ。

 そんな俺が漸くそれを理解したのは、全てが終わってしまってから。






 そう望んだ俺ではなく――ただ一緒に居ただけのヒナが、影を食われた後だった。






「ごちそーさま!」


 宵の口を幾らか回った頃合、マンションの一室に大声が響く。

 防音が行き届いた物件でなければ、さぞ苦情の種となったことであろう。


「エーゲ、エーゲ!」


 独り者ゆえ、必然的に料理のできるエーゲが作らされた山盛りのチャーハン。

 それをものの五分で食べ終えるや否や、忙しなく彼に絡み始めたヒナ。


「ねえエーゲってば! 無視禁止!」

「……なんだ、騒々しい。今いいところなんだよ、後にしろ」


 本を片手、ぞんざいにあしらうエーゲ。

 すると、足元に纏わり付かれた。


「やぁん冷たくしないでよぉ。ボク泣いちゃうぞ?」

「ええい鬱陶しい。なんなんだ全く」


 身体を揺すられては、本もロクに読めやしない。

 溜息混じりに、ヒナへと向き直る。


「一発芸やります!」

「あぁ……?」


 やたらと大仰な仕草を添えての宣言。

 改まって何かと思えば、お得意のヒナ節だった。

 要はいつも通りの、脈絡が感じられない思い付きである。


 怪訝そうに眉を顰めつつも、取り敢えずやりたいようにさせてみるエーゲ。

 何せ彼女の奇行にいちいち指摘を入れていたら、人生が二百年あっても全く足りない。


「ふんふふーん」


 一方、ヒナは鼻歌を口遊みながら、髪に結わえた風鈴とシュシュを外す。

 緩い三つ編みを解き、濡れたような髪質の癖毛を手櫛で整える。


 そして、しおらしくを作ると、流し目でエーゲを見詰めた。


「美少女」


 …………。

 言うに事欠いて、とはまさにこのことか。

 耳に残る甘ったるい声音が、却って腹立たしかった。


「叩きのめされたいのか、お前」

「なにおー!?」


 作り込んだ儚げな佇まいを崩し、憤慨するヒナ。

 確かに本人の言う通りではあるけれど、しかし自称は避けるべきだろう。

 いつの世でも、ナルシストは受けが悪いのだから。


 そもそも、とエーゲは続ける。


「自分の顔も知らねぇくせに、よくもまあそんな堂々と言えたもんだな」

「んー? だってボクが可愛いのは事実だよ?」


 あっけらかんと告げ、次いでヒナは四つ足でエーゲに近寄った。

 妖しげな彩を帯びた金色の瞳が、眼鏡越しに彼の双眸を覗き込む。


「例えばね? すれ違う人とかにこんな感じで笑いかけると、大抵は顔赤くするし」

「……それで何人の男に気ぃ持たせて、人生の黒星を刻ませたと思ってんだ」

「覚えてなーい」


 ほんの少しどちらかが寄れば唇の重なる距離で、ヒナがくすくすと零す。

 分かり切っていた返答とは言え、頭痛を覚えずにはいられないエーゲであった。


 そんな彼の膝へと、猫のように寝転がるヒナ。

 どうにも今宵は、スキンシップを図りたい気分らしい。


「エーゲー、頭なでなでしてー」

「今年で幾つだお前」

「えー……いくつ……何歳? えっとー……んー? あれ、ボクって何歳だっけ……」


 ま、どーでもいーや。

 そう言って面倒げに思惟を切り、ヒナはゆるりと目を閉じる。


「うんん……エーゲの膝、筋張っててかたーい」

「文句があんなら退け。つか、寝るならベッド行け」

「やー」


 不平を述べる割、陣取って離れようとしない。

 いつにも増して、とことん甘えたがりな様子。

 時々あることだった。






「むにゃ」


 ヒナが目を閉じてから、十分か、十五分か。

 本のページを捲る音に重なる形で、すやすやと寝息が立ち始める。


 つい一時間前まで朝昼通して眠っていた筈だと言うのに、何とも寝付きがいいもの。

 枕とされたエーゲは、吐き出した嘆息に合わせ、肩を竦める。


 そして――ひどく悲しそうに、顔を伏した。


「…………そうだよな」


 一切の混じりけ無い、驚くほど真っ白な癖毛。

 嘗ては黒かった、色の抜け落ちてしまった髪を、指先で梳る。


 きめ細かな、血の通っていることが信じられない白磁の肌。

 もう十年以上も陽光を知らぬ頬に、掌を添える。


 ――静かに思い返すのは、先程にヒナと交わした会話。


「他人の目に映った自分しか、見えねぇんだもんな」


 袖を引いて、微笑んで。

 そうやって誰かの眼差しを通さなければ、己が見目形すら分からない。


「半分しか、生きられねぇんだもんな」


 日の下では存在すら適わない。

 夜という時間でのみ、そこに居ることができる。

 そんな有様では、己の歳さえ忘れもしよう。


 ――何もかも、自分が招いた咎。


 愚か者の浅慮に、馬鹿な軽挙に巻き込んでしまった。

 ヒナからあまりにも多くを奪い、今も尚、彼女から奪い続けている。


 だが。


「安心しろ。何をしてでも、必ず返してやるから」


 偶然と幸運の後押しを受け、ようやく差した光明。

 探し続けた過去の爪痕を、エーゲはついに見付け出したのだ。


 影喰魚かげはみ


 幼少期のエーゲが抱いた影への怖れを依代に生まれ落ちた化生。

 あれを殺しさえすれば、奪われたものを取り戻せる。


「お前はもう、何の不自由も無く生きられるんだ」


 眠るヒナの手を取り、深く深く噛み締めながら、エーゲは呟く。

 まるで、許しを乞う罪人のように。






「悪いな。メリーさんの時といい、度々面倒を持ち込むようで」

「え、いぇ、あの……私は、別に……」

「別段、気にする必要はないと思うよ。見てごらん、あのニヤケ面」

「るっさい! アンタはいつもいつも言葉が余計なのよ!」

「ふふふふふっ。それが狐さ」


 ヒナをベッドで寝かし付けた後、マンションを出たエーゲ。

 彼が急ぎ足にて向かった先は、文車妖妃の古本屋。


 道中、訳知り顔で姿を見せた妖狐も引き連れ、テーブルを挟み、三人での対面。

 挨拶など少々の前置きを入れてから、エーゲは本題を切り出した。


「……どうか、あんた達の知恵を貸して欲しい」


 古びた、けれどよく磨かれた天板に手をついての低頭。

 文車は目を見開き、妖狐もまた意外そうに口元へ手を添える。


「正味の話、弱ってる」


 二人の反応は、当然と言えば当然のものであった。

 何せエーゲは化生、怪奇の類との付き合い方をよく心得た人種。

 故、頭を下げての懇願、弱ってるなどという内情の吐露。

 それ等が如何に危うい行為であるのかを、理解していないワケがないのだから。


 取り分け、気質的に御し易く映るであろう文車は兎も角、妖狐の方は目に見えて危険。

 あからさまにエーゲを狙っている上、その本質は極めて狡猾で打算的。

 弱味などほんの僅かにでも晒そうものなら、返す刀で足を掬われかねない相手。


 狐の口車に乗った者がどんな末路を辿ったか、昔話の例を挙げれば想像に難くない。

 騙し騙され、化かし化かされ。

 一から十、百から千まで疑い尽くし、初めて対等が成立する手合い。

 今のエーゲの行動は、それこそ自殺行為にも等しい所業だった。


 そもそもの話、彼には狐という生き物に対し、拭えぬ苦手意識がある。

 持って生まれた影への怖れともまた異なる、幼少期に刻まれたトラウマ。

 謂わば胸に巣食った腫瘍。それを押し退けるなど、決して容易くはない筈。


 ――にも拘らず、エーゲはそうした。

 思想の大本に根付いた疑心も不信も全て飲み込み、正面から頼み込んだ。


 即ち、覚悟あっての行動。


 どんな代償も厭わないという決意の証明。

 元より、他に頼る宛ても無い。

 例え何を支払うことになろうと、二人の手を借りなければならなかった。


 そうしなければ、彼の悲願は遂げ得ぬのだから。


「ふぅん……成程ねぇ……」


 斯々然々。

 エーゲの内情、その一切を心得たとばかりに、顎を撫でつつ繰り返し頷く妖狐。


 つまりこれは、滅多に巡ってこないであろう好機。

 そう断じた彼女の口の端は、嗜虐的に吊り上がって行く。


「つくづく私をそそらせてくれる……あぁ、今すっごく意地悪したい気分」

「ちょっと――」


 舌先を蕩かせた、愉悦と喜悦を孕んだ語調。

 文車が思わず立ち上がりかけるも、手で制される。


 ただし。エーゲの手に、だが。


「いい。狐ならそう考えるのが当然だろうさ」

「ふふふっ。御理解頂けて嬉しい限りだよ」


 細い諸目の奥、鮮やかな赤い瞳がエーゲを見据える。

 絡め取られたような錯覚。全身を総毛立たせる寒気が、彼を襲う。


 それでも、目を逸らすことはしなかった。

 じっと見返すエーゲに、妖狐は益々笑みを深める。


 そして。


「ふふふふふっ……なぁんてね。冗談冗談、手を貸そうじゃないか」


 獣か、或いは蜘蛛の形相からの、唐突な豹変。

 面食らったエーゲと文車が、揃って唖然とする。


「意外かな? 狐だって真摯な頼みには応えることもあるよ。騙し一辺倒じゃ芸がない」

「……芸の問題なの?」

「もちろん芸の問題だとも」


 なんとも言えない顔となる文車。

 それに――と、妖狐はひとつ間を置いた。


「弱味につけ込んで貴方を手に入れても、円満な夫婦生活は送れそうにないからね」


 何より。


「他の女のために下げられた頭で殿方をモノにするのは、沽券に関わる」


 だから折角の機会だけど、今回はお預けということで。

 妖狐はそう纏めると、少し温くなった茶を啜った。


「……まあ、そんなところかな。文車はどうだい?」

「え……その、わ、私は九十九神だし……人の役に立つのは、吝かじゃないけど」


 男との対面に未だ慣れないのか、硬い笑顔と共に告げる文車。

 エーゲは目を伏せ、深く息を吐くと、再びテーブルへと額を擦り付けた。


「恩に、着る」

「ふふふふふっ。それで、貴方は私達に何をして欲しいのかな?」


 頬杖をつき、妖狐が問う。


 化生の力を借りたいなどと、およそ尋常の頼みごとでないのは確か。

 十中八九、人間では到達できない呪術の深淵に纏わる何かだろう。


 妖狐も文車も、胸の内でそう当たりをつけていた。

 先んじて答えを述べるなら、そんな彼女達の推察は、全く以て正しいものであった。


「夢の中の存在を、現世に引き摺り出す術が知りたい」






 つるべ落としの如く過ぎ去った数時間。

 エーゲが自身の家へと帰り、店の中に静けさが戻った丑三つ時。


「珍しいじゃない。アンタがあんな殊勝な態度を取るなんて」


 未だ居座り、戸棚に仕舞ってあった筈の茶菓子を勝手に摘んでいる妖狐。

 自宅も同然の寛ぎ具合に少々眉を顰めながら、文車は彼女にそう言った。


「特別、不思議がるほどでもないと思うけれど? 普通だよ、普通」


 そんな返しを耳にするや否や、文車が苦虫を噛み潰したような顔となる。


「アンタの自己評価どうなってんのよ。底意地の悪い根性曲がりが」

「ふふふふふっ」


 幾らかの棘こそあれ、あながち間違ってもいない、寧ろ概ね的を射た口様。

 対し、妖狐は含み笑うばかりの煙に巻いた態度。

 暖簾でも相手にしているかのようだった。


「表と取れば裏、裏と取れば表。良くも悪くも意表を突いてこその狐さ」

「あっそ……」


 九十九神とは、人間の想念が道具に宿って生まれたもの。

 つまりは人寄りの怪奇である文車妖妃に、狐の美学や価値観は理解し難い。


 結局のところ、古い知己である彼女にも、妖狐の考えていることはよく分からない。

 そも、無闇と肚の内を明かすような手合いでもない。

 当然と言ってしまえば、それまでだった。


「時に文車。お茶がすっかり冷えてしまった、新しいのを頼むよ」

「嫌に決まってるでしょうが。自分でやんなさいよ、つか帰れ」


 図々しいのも大概にしろ、と突っぱねる文車。

 すると妖狐は、わざとしく悲しげな様子で眉を落とした。


「そうか……では仕方ない、次に彼が来た時はお前の恥ずかしい過去を洗い浚い――」

「ぎゃあぁぁぁぁっ!? やめろ馬鹿! 分かった、分かったから!」

「ふふふっ。快く頷いてくれて嬉しいよ」


 地獄に堕ちろとか、ロクな死に方しないわよなどと垂れ流しつつ、奥に引っ込む文車。

 旧知の相手というものの厄介さを物語るに相応しい一幕である。


 文車が席を外したことで、必然一人きりとなった妖狐。

 彼女はまだ中身の残った湯呑みを取ると、それを余さず床へと流す。


 けれど、見遣れば床には一滴の雫も落ちていない。

 もしこの場に誰かが居たなら、まさしく狐につままれたであろう光景。

 そんな中、妖狐は何とはなし指先に火を灯すと、小さく溜息を吐き出した。


「……だって、しょうがないだろう。あんな顔で頼まれたんだもの」


 狐特有の切れ長な双眸を閉じ、思い返すのは、先頃見たエーゲの姿。

 意地悪をしろと囁く稚気も、恩に着せようなどという邪も、失せてしまった。


「どうやら私は、自分で思っていたよりずっと、彼に対して本気らしい」


 ――それに。


「あんまりにも、可哀想だったから」


 嘗て、己のせいで奪われてしまったものを取り戻そうと必死な彼。

 半生の中で、ヒナを守りながら、文字通りに可能な限りの時間を費やしたのだろう。


 安アパートの隅に積み上げられた、怪奇絡みの様々な資料。

 その全てが繰り返し読み込まれ、ボロボロだった。


 服の内に忍ばせた、護符や針などの退魔呪具。

 奥の手のナイフに至っては、妖狐ですらその存在に些か驚かされた。

 あんな代物、買い求めるとなったら百万や二百万ではきかない筈だと言うのに。


 けれど――けれど、そうやって頑張れば頑張るほど、妖狐にとっては哀れであった。


 何故なら彼女は、全てを知っている。

 より正しくは、残酷な真実に、勘付いている。


 …………。

 例えどんなにエーゲが足掻こうと、無意味でしかない。

 如何な代償を支払おうとも、何を犠牲にしようとも。

 決して、決して。


「彼の望みは、叶わない」





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