臥待月






 枕を使わずに眠るべきではない。


 あれは、魂の蔵。

 眠りに落ち、夢の世界に踏み入った者を常世へと繋ぎ止める錨。


 故、枕なく床に就けば、魂が身体から剥がれてしまう。

 そうなれば道しるべを失い、夢から出られなくなる。


 曰く、夢幻の漂流者。

 馬鹿みたいに寝相の悪い奴が枕を蹴飛ばし、そのまま……なんて話は、たまに聞く。


 広く、猥雑に入り組み、絶えず流動する夢の世界。

 一度迷い込んでしまえば、まず脱出は能わない。


 こればかりは、医者だろうと陰陽師だろうと手も足も出せない領域の話。

 だから大抵、まだ幼い子供の時分、親が徹底的に寝相を直す。

 俺もガキの頃は、頭に枕を括り付けられて眠ったもんだ。


 …………。

 まあ、俺に関しちゃ夢に囚われる云々ってのは、縁遠い出来事なんだが。






 何せここ十年、夢なんて一度も見ていないんだから。






「甘っま」


 舌先に纏わり付く生クリームの甘味。

 反して、何とも苦々しげに眉間を歪ませながら、エーゲはコーヒーを啜った。


「んだこれ。こんなもんの何が美味いんだ」


 立て続けに三杯飲み干し、漸く落ち着く。

 険しい視線の先には、平皿に乗った小奇麗なショートケーキ。

 最近、度々話題に挙げられている評判の店の品。

 ヒナにねだられ、割と近所ということもあり、買ってきたのだ。


「やっぱ合わねぇな。こういうの」


 興味本位で口にしてみたけれど、早くも後悔の只中にあるエーゲ。

 残りの色取り取りなケーキが詰まった紙箱の蓋を閉じ、空のカップを軽く水で流す。


「はぁ……」


 正直、こんな物のために三時間も並んだのかと、やや気落ち気味だった。

 如何に評判高かろうとも、自分で食べて不味いのでは一文にもならないというもの。


 とは言え、ヒナからの頼まれ事など大概がこの調子。

 やれ人気の菓子が食べたい、やれ流行りの小物が欲しい。

 目当ての品がネットで手に入り辛い時は、こうやってエーゲが足で買いに行く。

 もう何年も二人の間で幾度となく繰り返された、至極当たり前のやり取りであった。


「……さっさと届けに行くか」


 徒に時間を置いて、鮮度を落としてもつまらない。

 身支度を整えるべく、エーゲは気だるく立ち上がった。


 …………。

 と、その前に。


「この食いさし、どうすっか……」






 甘味が苦手な人間に、ショートケーキ丸々ひとつは毒と変わらない。

 舌どころか喉の奥、頭の中まで甘ったるく、胃が軋む。


「うぷ……あー、気持ち悪りぃ」


 おぼつかない足取りで、薄手のコートを着込む。

 ケーキの箱を取り、靴を履き、部屋を出る。


 そうして、鍵穴越しに施錠の音が指先を伝った直後。

 ふと横合いで、扉が開いた。


「あぁ?」


 それを目の端で見止めたエーゲは、怪訝そうに視線を流す。


 当然だろう。

 安いだけが取り柄のこのアパートに、エーゲ以外の住人は居ない。

 どころか、大家ですら殆ど寄り付かない。

 色々、いわくが付いて回っている物件なのだ。


 すわ厄介事の類かと思い、半ば無意識に身構えるエーゲ。

 けれど、隣室から現れた姿を見て、肩透かしでも食らったように警戒を緩めた。


 ――それなりに背の高いエーゲよりも、更に頭二つ三つ分抜けた上背。

 季節外れな白いワンピースと、大きな帽子を被った装い。


 成程。近頃この辺りでよく見かけると思えば、なんてことはない。

 果たしていつからなのかは露知らねど、すぐ隣に住み着いていたのだ。


「八尺様……」


 向こうもエーゲに気付いたのか、彼を見下ろし、目を細める。

 次いで、にたりと笑いかける。

 相も変わらず、驚くほど下手な笑顔だった。


「……今日は、人面犬は一緒じゃないのか?」


 出来れば、あの下品な犬とは顔を合わせたくない。

 そう思いつつエーゲが問うと、八尺様は静かに首を横へと振る。

 一緒に暮らしているワケではないらしい。


「アンタもお出掛けか? 今夜は良い月夜だからな」


 今度は首肯。

 細長い十指の生え揃った手が、エーゲの頬を撫ぜる。


 しかし、やはりと言うか無口な女であった。

 八尺様特有と聞く、奇怪な響きを孕んだ笑い声さえ上げない。

 勿論、同種の怪奇にも個体差はあるため、そういう変わり種が居ても不思議はないが。


「…………あぁ、待った。アンタ、ケーキ食うか?」


 緩やかな所作で踵を返し、立ち去ろうとした八尺様。

 その背を呼び止め、エーゲは手にした紙箱を軽く掲げる。


「ちっと買い過ぎてな。ヒナにあんま甘いもんばっか食わせるのも良くねぇし」


 どうだい、と台詞を締め括るエーゲ。

 対し、八尺様は暫し彼を見詰めた後――やはり、薄気味悪く笑って、頷くのだった。






 十六夜月の照らす夜道に、鼻歌のような真言がそっと響く。

 少しだけ軽くなった紙箱を揺らさぬよう、エーゲは歩いていた。


「随分、あの女に気安いじゃないか。気質は兎も角、性質は割と危険な手合いなのに」

「あぁ? 別に特別気を許してるワケじゃねぇよ。結局はアレも化生の類だ」


 ……ただ、そう。

 もしもそんな風に見えるのであれば、その理由は、きっと。


「なんとなく姉貴に似てんだよなぁ、八尺様って」

「ふむふむ。貴方の姉君は随分と大柄なんだね」

「いや、身長そっちじゃなくて顔立ちとか雰囲気とか……オイ」


 台詞も半ばに、はたと気付くエーゲ。

 弾かれたように横合いを見遣れば、口元を覆った袖の奥でにやにやと笑う妖狐。


 いつの間にか素知らぬ顔でエーゲの隣を往き、平然と言葉まで交わしていた彼女。

 全く以て、狐とは恐ろしいものである。


「……アンタ、マジで神出鬼没だな」

「狐だもの」

「つか、俺を付け回したりしてねぇよな?」

「ふふふふふふふっ」


 笑って誤魔化された。






 インターホンを押し、壁に寄りかかって待つ。

 三十秒ほど経った頃合、もう一度押す。


 それを、四度繰り返した。


「……出ねぇ」


 辟易とも、嘆息ともつかぬ呟き。

 首を掻きながら、エーゲは小さく舌打つ。


「ったく、いつもこれだ。要らん手間ばっかりかけさせやがる」

「苦労してるんだねぇ。心中お察しするよ」

「ほっといてくれ」

「ふふふっ。そんな貴方への労いに、特別、私の尻尾をモフモフさせても構わないよ?」


 柔らかな毛皮で覆われた四本の尾が、誘うようにゆらゆらとくねった。


「……………………要らねぇ」

「おや? おやおやぁ? もしや貴方、この四尾に興味があったりするのかな?」

「ふざけんな。誰がんなもん」


 口では否定しながらも、言葉の奥には別の色を含んだ声音。

 が、敢えて刺々しく突っぱね、強引に会話を断ち切る。


 次いで、今一度インターホンを押すエーゲ。

 やはりと言うべきか、玄関の向こうから、反応は全く窺えない。


「寝てやがるな、こりゃ」

「貴方に買い物を頼んでおいて? 常識を疑うよ」

「化生相手にそう言われちゃオシマイだな。擁護の声も見付かりゃしねぇが」


 かぶりを振りつつ、大きく溜息。

 そしてポケットを漁り、合鍵を取り出す。


 呪術認証付のディンプルキー。

 ピッキング不可能との呼び声も高い、結界としての効力も含んだ代物。

 鍵一本で約五万円とかなり高価だが、今の世では広く使われている。

 多少懐を痛めてでも、安全を求める声は多いのだ。


 ――キーホールに鍵を通した直後、エーゲは怪訝そうに眉間へと皺を寄せた。


「あぁ……?」

「どうしたんだい、低い声出して。鍵が合わなかったりでもしたのかな」

「合う合わない以前の問題だ。そもそもロックが掛かってねぇ」


 折角の結界、セキュリティとて、これでは何の用も成さない。

 夜間は施錠を忘れるなと口酸っぱく言い聞かせているにも拘らず、この体たらく。

 頭痛すら覚えながら、再度溜息を吐いた。


「ほんっ……とに、どうしようもねぇ馬鹿だな……」

「まあまあ、兎に角お上がりよ。寒かったろう、温かい鳩麦茶でも出そうじゃないか」

「なんでテメェは家主みたいに振る舞ってんだ」

「狐だからねぇ。好きなようにするのさ」


 時間帯を考えてか、ノンカフェインの鳩麦茶を推すあたり、地味に気遣いが細かい。

 まあ、カフェイン中毒予備軍のエーゲはコーヒーくらいで眠れなくはならないが。


 ――ともあれ、門口前で立往生していてもしょうがない。

 二人は揃って部屋へと入り――唖然とした。



「むにゃ……」



 一人で住むには、些か手広なマンション。

 玄関を開けてすぐの廊下。


 そこで猫のように丸くなり、ヒナが眠っていたのだから。


「…………」

「…………」


 エーゲどころか妖狐さえも、あまりな光景に言葉が出ない。


 縦しんばこれが夏場なら、百歩譲って暑気払いとも受け取れよう。

 が、一体何を思ってこのような季節、廊下でなど寝ているのか。

 およそ理解に苦しむ所業であった。


「……いや、まさか……寝室のベッドから、ここまで転がってきたのか?」


 七不思議にでも直面したような顔で零すエーゲ。

 尚、殆ど冗談のような推論だったが、まさしく以てその通りである。

 床とベッドの高低差を捨て置いても、どうやって寝たままドアを開いたのか。

 最早、寝相が悪いのひと言では片付かないレベル。

 半ば怪奇現象の領域だろう。


「つーか寝巻きくらい着ろよ……」


 冷たいフローリングに、色白な痩躯を覆うのは黒いブラとショーツのみという格好。

 見ている方が震えてくる。


 幾ら馬鹿とは言えど、これで風邪を引かないのだろうか。

 引かないのだろう。馬鹿だから。


「はぁ……しょうがねぇ……」


 流石に、このままというワケにもいかない。

 エーゲは億劫げな調子でケーキの箱を妖狐に預けた後、ヒナを抱えた。


「それ、冷蔵庫に仕舞っといてくれ。なんならひとつ食ってもいいぞ」

「ふふふっ、ありがとう。しかしその子、大丈夫なのかな?」


 枕も使わず熟睡してるけど、と続ける妖狐。

 無論、あまり良くはない。


 しかしながら、相手は何かと世話が焼けるヒナ。

 その辺の対策は、予め布石を打ってある。


「首、手首、足首に経文の一節。背中には法陣を刺青してる。そうそう剥がれねぇよ」

「ふぅん。用意周到だこと……おや?」


 ふと、妖狐が細い双眸の片方を見開く。

 血を思わせる赤い瞳が、寝息を立てるヒナを見据え、やがて彼女の額に触れた。


「……どうした?」


 そんな様子を訝しむように、エーゲが問う。

 対し、幾許かの沈黙を挟んだ後、妖狐は自らの顎へと手を添え。

 そして、淡々と告げるのだった。


「ちょっと、まずいかも知れないね」






 ビーズクッションの群れが堆く積み上げられたベッド。

 その周りには、半分以上用途不明な小物の数々。


 また増えてやがると思いつつ、うつ伏せでヒナを横たえるエーゲ。

 そして、彼女の背中。

 幾何学模様で織り成された法陣に、ゆっくりと掌を宛がった。


「……熱いな」


 体温は平熱前後であろうにも拘らず、不自然な熱を持った刺青部分。

 明らかな異常。何かしらの呪詛を受けていることは、疑う余地もなかった。


「っとに馬鹿女め。無精しやがって、全く……」


 本来、住居には簡易結界として盛り塩を置くのが定説。

 けれどもヒナの場合、家の鍵がそのまま魔除けの作用も齎すため、それを怠っていた。


 だと言うのに、今宵彼女は施錠もせず過ごし、挙句無防備にも廊下で寝こける始末。

 最早、道端に裸でいるのと変わらない。

 良からぬものを招き寄せて、当然の行為だった。


「よく今日まで生きてたね、この子」

「俺もそう思う。五体満足でいられるだけでも出来過ぎだ」


 験力の極端に薄い、呪術に対する抵抗力さえまともに持たない身体。

 加えて、怪奇的な存在を引き付けやすい金色の瞳の持ち主。

 その上で、恐ろしいほど散漫な用心。

 エーゲが如何にヒナを守ることに心を砕いてきたか、苦労の度合いが窺えた。


「まあ、不幸中の幸いかな。最悪の事態には至ってないよ」


 これのお陰でね、と妖狐が手に取ったのは、枕元に転がった鞠。

 元を辿れば、彼女の持ち物であったそれ。


 染み込んだ四尾の妖狐の験力が加護の役目を担ってくれたのだ。

 やはり渡しておいて正解だったと、エーゲは胸を撫で下ろす。


「そうは言っても、このまま放っておいたらどっちにしろ危ないけど」

「だろうな……大体、何に憑かれたんだコイツは」


 憑き物を祓うにせよ、相手の正体が定まらなければ迂闊に手は出せない。

 力尽くでどうこうしようものなら、ヒナ本人にまで影響が及びかねなかった。


「私が聞こうか? 貴方達の間じゃあ、寝言と話すのは避けるべきなんだろう?」

「……頼めるか」

「造作もないことさ。報酬は、あの美味しそうなケーキをもうひとつ」


 エーゲが頷いて返すと、妖狐はヒナの耳元でぼそぼそと囁いた。

 一見、何気ない行いではあるが、実際は相当に高度な呪術。

 眠るヒナを介し、彼女の内へと巣食うもの自身に直接問い質しているのだ。

 恐らく、人間の術者でこれが使える者は殆ど居ない。


「うーん、はいれたはいれた……てんそーめつぅ……」

「……テンソウメツ?」


 やがてヒナの口から紡がれたのは、意味の有無さえ不明な音の連なり。

 だが、少々の思惟を経て、エーゲは彼女に取り憑いた存在を暴き立てた。


「ヤマノケか」

「みたいだねぇ」


 主に山中の獣道に出没し、姿を目とした女にのみ憑く化生。

 エーゲ達が住む街は山裾に位置するため、稀に住宅街でも見かけることがある。


 勝手を許せば厄介な手合いではあるけれど、憑いた女が目覚める前なら祓うのは容易。

 どうやら大事とならずに済みそうだと小さく安堵し、エーゲは護符を取り出した。


 が、しかし。


「みゅうぅ……やーめーろー……抉り出しも活け造りもヤダぁ……」

「…………あぁ?」


 苦しげに呻くヒナ。

 何やら様子がおかしいと気付き、手を止めるエーゲ。


 抉り出しと、活け造り。

 不穏な想像を掻き立てるそのワードは、彼にとある都市伝説を思い起こさせた。


「猿夢……?」


 獲物を眠りの中で電車に乗せ、凄惨な方法で殺して行く怪奇。

 夢裡にて命を奪われた者は、現実でも心臓麻痺を起こして亡くなるという。


 ――どうやら、ヤマノケと猿夢のダブルブッキングを食らっているらしい。


「マジかよ、オイ。馬鹿のくせにややこしい状況作りやがって」

「ふふふふふふふっ。逆に器用な子だねぇ」

「笑ってる場合か」


 これではそうそう手が出せないと、エーゲは唇を噛んだ。


 ヤマノケだけならどうとでもなる。

 猿夢だけならどうとでもなる。

 けれど、この二つが同時とあっては、格段に面倒は増す。


 何故なら、猿夢の対処法は憑かれた者をことだからだ。


 片や、目覚める前に祓わねばならないヤマノケ。

 片や、一刻も早く目覚めさせなければ殺されてしまう猿夢。


 見事に相反した性質の存在。

 どうしたものかと、エーゲは頭を悩ませる。


「寝こけてる間に祓い屋を……朝が来る前に猿夢が殺しちまうよな……」


 あまり悠長に考え込んでいる時間も無い。

 取り敢えず、似た事例がネットに上がっていないか調べるため、スマホを出す。


「……ふふっ、お困りのようだね。そんな貴方に打開策を授けようじゃないか」

「あぁ?」


 画面をフリップする手を止め、妖狐を見遣るエーゲ。

 彼女は妖しげに笑いながら、掌上に小さく狐火を灯した。


「対症療法がそれぞれ異なるなら、いっそ病巣を取り除いてしまえば問題無い」


 紙屑を丸めるかのように握り潰される狐火。

 そうして再び開かれた手の中には、赤い飴玉がひとつ握られていた。


「要するに、貴方がこの子の夢に入って、憑き物を直接落とせば良いんだよ」






 他人の夢に入り込むというのは、実のところ、そう難しい話ではない。


 呪術に関する幾らかの知識と、現代日本人が持つ平均程度の験力。

 あとは干渉する相手の本名さえ知っていれば、誰でも行える。


 ――だが、それが安全かどうか聞かれたなら、軽々けいけいと首を縦には振れない。

 寧ろ、多分に危険が伴う行為と呼んで差し支えないだろう。


 夢の世界は混沌とした精神の坩堝。

 故に広大、かつ不安定である。

 法則など存在せず、何が起こるか予測もつかない完全なる未知の領域。

 心を侵され、正気を失い、永劫を彷徨う羽目になることも十二分に有り得る話。

 まともな神経の者なら、他人の夢に入ろうなどとはまず考えない。


「でも大丈夫。さあ、この飴をどうぞ」


 そう言って妖狐がエーゲへと差し出した、赤い飴玉。

 複数種の霊草を、験力と共に練り込んだ丸薬。


 これは所謂、気付け薬のようなものだった。

 己が名すら忘れかねない酔夢の中であろうとも、正気を保つ手助けをしてくれる。

 少なくとも舐めてから暫くの間、忘我や発狂に陥ることは無い。


「…………」


 黙して受け取った飴を見下ろすエーゲ。

 毒を疑ったのか、程無く、受け取った飴を舌先でちろと舐める。


 人によっては失礼と取るだろうが、全く以て正しい判断であった。

 例え何があろうと、化生の齎す作為を手放しに信用するべきではない。

 その相手が狐狸の類ならば、尚更に。


「甘っま」

「ふふふふっ、どうか我慢しておくれ。良薬は口に苦いものだからね」

「いや、寧ろ苦い方が助かったぞ。死ぬほど甘いんだがこれ」


 砂糖とは違う、蜜とも異なる、脳に刺さる不可思議な甘さ。

 エーゲは眉間に皺を寄せ、吐き気を堪えるように舐め溶かす。


 甘味が苦手な彼にとって、軽く拷問にも等しい前準備。

 数分かけて噛み潰し、最後のひと欠片に至るまで飲み込んだ。


「……ぅえ」

「大丈夫かい?」


 先のケーキに続き、まさか日に二度もこんな目に遭うとは露とも思わなんだエーゲ。

 小首を傾げた妖狐の言葉に、身振り手振りで応える余裕すら無い。


 しかし、ともあれ、これで幾らか条件はマシとなった。

 夢の中で気を確かに居られるだけでも、安全度は大きく引き上がる。


「……うぷっ……夢渡りの、札を作る。ヒナの名前も書くから、あっち……向いてろ」

「ん、分かったよ」


 くるりと妖狐が背を向けたのを見止めると、エーゲは真っ新な生漉紙を出す。

 鋏を使わず長方形に切り分け、筆ペンで法陣を記して行く。


 夢渡りの際に必要な術式は、そう複雑なものでもない。

 十分前後で札を作り終え、その頃には気分も多少はマシとなっていた。


「よし……もう、いいぞ」


 最後、札の中心へとヒナの名を綴り、懐に仕舞う。

 あとはエーゲが眠りに就けば、彼女の夢まで入り込める。


「眠ってる間、私が手を握っていよう。もしもの時は引っ張り出してあげるよ」

「……で、起きたらテメェに攫われてた、なんてことにはならねぇだろうな」

「ふふふふふふふふふっ」


 淑やかに笑うばかりで、是とも非とも返さない妖狐。

 恐ろしいほど信用置けないが、今は兎に角、時間が無い。

 この際、少々のリスクには目を瞑るべきだろう。


「分かってるとは思うけど、その子が起きる前にカタを付けるんだよ」

「ああ」


 ヒナが目覚めれば当然、夢の世界は出入り口を失う。

 そうすれば、再び彼女が眠るまで、何があろうと扉は現れない。

 さしもの妖狐であっても、その状態でエーゲを無事に助け出すことは不可能だった。


 そして、現実と夢裡との繋がりが絶たれれば、時の流れすらも離れてしまう。

 此方での数分が、彼方では千年に至る場合さえ珍しくない。


 どう足掻いたところで、百年少々が設計限界である人間。

 その上限は肉体だけでなく、精神もまた同じ。

 夥しい経年による心の磨耗は、やがて人を擦り切れさせる。

 実質、それは死と変わらなかった。


「まずは夢の中に居る本人を探すといい。ヤマノケと猿夢も近くに居るだろうし」

「言われずとも、だ」


 ビーズクッションをひとつ借り、枕代わりに横たわるエーゲ。

 安眠用の呪術を唱えると、数秒足らずで睡魔が襲ってきた。


「ねんねんころりよ、おころりよ」

「いや、子守唄とか要らねぇからな……」


 歌声を囁く妖狐の手が髪を、頬を撫ぜる。

 心身は既に鉛のように重たく、振り払う気力も湧かなかった。


 ――ひとつ、ふたつ、みっつ。

 果たしてそこまで数え終えたか、否か。


 最後に薄ぼんやりと、妖狐が優しく微笑む姿を目としながら。

 エーゲの意識は、暗闇の中へと落ちて行った。






「出せコラ」


 頑丈に施錠された宝箱。

 その内側から分厚い蓋を勢い良く蹴り壊し、エーゲが顔を出した。


「ったく、のっけから変なとこに出ちまった」


 壁の中ならぬ箱の中。

 外に降り立ち、コートの埃を払い、辺りを見渡す。


 何とも奇妙な場所だった。

 壁も天井も歪んだ、まともな形をしていない部屋。

 ただ、どこか現実の自分のアパートと雰囲気が似ていると、そう思った。


「……さ、て」


 面白いと言えば面白い、興味深い光景。

 しかしながら、物見遊山に夢を訪れたワケではない。


 何より、長居は無為な危険が増すばかりの愚行。

 早いところ祓いを済ませてしまおうと、エーゲは部屋を出る。


 如何にも建て付けの悪そうな扉は、しかし軋みもせずあっさりと開いた。

 ここら辺は、夢ならではの都合良さだろう。



「わーっしょい! わーっしょい! わーっしょい! わーっしょい!」



「…………」


 表へと出て早々、言葉を失った。


 部屋の先に広がっていたのは、夜半の市街。

 所々に不可思議が混ぜ込まれた、エーゲ達の暮らす街並み。


 その大通りを――手足の生えたソフトクリームが、ケーキの神輿を担いでいた。


「……流石、夢だな。意味分からん」


 撒き散らされるクリームを避けつつ、通り過ぎて行く珍妙な集団を力無く眇める。

 よくよく見れば、建ち並ぶ家々の三軒にひとつは、菓子で作られたものだった。


 大の甘い物好きなヒナらしい世界。

 が、エーゲからしてみれば、見ているだけで胸焼けしそうな悪夢。

 色々な意味で、長居は禁物であった。


 とは言えど、差し当たってはヒナを探さねばならないのだが、これが容易ではない。

 何せ夢の中では、時にそれを見る本人の姿さえ、現のものとは異なる場合がままある。

 闇雲に練り歩いたところで、徒に時間を注ぎ込むだけの結果に終わるだろう。


 ――ただ、まあ。


「どうせ、一番馬鹿なことやってんのがヒナだろ」


 エーゲの探し人は、他ならぬ天下の破天荒娘。

 騒ぎの渦中を辿って行けば、その何れかに必ず関わっている筈。


 盛大に溜息を吐きつつ、ポケットに手を突っ込む。

 そうして重い足取りで前へと踏み出し――何処いずこより飛んできたパイが、顔に直撃した。


「…………厄日だ」






 今日今宵、夢の世界に踏み入ることの危険性を、エーゲはまざまざと思い知らされた。


 飛来するクリームパイの餌食となること七回。

 チョコレートの水溜り、底なし沼に嵌まること五回。

 多種多様な菓子達が催すスイーツフェスティバルに巻き込まれること三回。

 地下帝国にて、りんご飴皇帝が企む夢幻世界侵略計画を食い止めること二回。


 最早、心身共々砂糖とクリーム塗れ。

 妖狐の飴による恩恵を受けていなければ、とうに正気など失っていよう惨状。


 けれど、度重なる艱難辛苦を乗り越え、漸くエーゲは突き止めた。

 夢の中心、ヒナの居場所を。


『次は~活け造り~活け造り~』

「あ、降ります」


 途中で見付けた猿夢の電車に便乗し、二駅跨ぐ。

 ついでに、人を活け造りにしようとした猿とも小人ともつかぬ何かを祓う。

 所詮は夢でしか存在できない、怪奇としては三下もいいところの雑魚。

 エーゲの機嫌が悪かったこともあり、彼等は徹底的にのされた挙句、追い出された。


「馬鹿が」


 駅から降りた先は、曲がりくねった一本道。

 中心に程近いらしく、今までよりも構造が鮮明で、より一層意味不明だった。


 やたらと長い道程を歩く最中、怪物を見かける。

 足が片方しか無い、白い、細かには形容し難い異形。

 ヤマノケだと、すぐ分かった。


「テン……ソウ……メツ……メツ!」

「やかましい、なんでメツだけ二回言った。大事なことだからかオイ」


 取り敢えず不動明王縛で動きを止め、何本か破魔の針を刺しておく。

 ヤマノケは痛みに弱い。縛法が切れる頃には、取り憑く気力も果てていよう。

 やはり機嫌が悪いからか、いつもより手口が荒っぽかった。






「……ここか」


 そんな道中を経て辿り着いたのは、篝火で囲われた社。

 ただし、前衛芸術と呼ぶのも憚られるオブジェの所為で、神聖さとは程遠かった。


「なんだこれ……コタツの銅像?」


 位置取りから考えて、恐らく狛犬代わりに置かれているのだろう珍妙な物体。

 如何に夢でも、こう脈絡が無いと反応にも困る。


 ともあれ、社の中へと入るエーゲ。

 外で見るより数倍広いそこには、無数のぬいぐるみや小物が転がっていた。


 そして。



「むにゃ……」



 学校の体育館ほどもある空間の中央。

 アンデルセンの童話に出てくる姫が寝ていたような、何十枚も布団を重ねたベッド。


 そこに、ヒナは居た。

 むにゃむにゃと、呑気に寝息など立てていた。


「……馬鹿じゃねぇの。こいつ、夢の中で寝てやがるよ」


 呆れとも、いっそ感心とも取れるエーゲの呟き。

 一夜の間で二種の怪奇に憑かれておきながら、この図太さ。

 どうやら彼女、危機感というものの一切合切が欠如しているらしい。

 今更、分かり切ったことではあるが。


「起きろ」


 道中で散々な目に遭わされた腹癒せか、積み重なった布団を蹴り付けるエーゲ。

 元々危うい均衡にあったベッドはあっさりとバランスを崩し、軽く雪崩を起こす。


「――むにゃ!?」


 必然、頭から床へと落ちたヒナ。

 空箱でも叩いたような音が、盛大に鳴り渡った。






「なんか頭が痛いよエーゲ」

「寝過ぎだろ。夢の中でも寝るからだ」


 今ひとつ釈然としない様子で、たんこぶの浮いた頭を摩るヒナ。

 対し、素知らぬ顔でコートの裾を払うエーゲ。

 中々の役者振りだった。


「どう考えてもそんなんじゃないよ。物理的だよ、この痛みは」

「気のせいだ」


 珍しく食い下がるヒナに、あくまでしらを切るエーゲ。

 真相を告げれば謝れとうるさいだろうから、答える気は更々ない。


 何せ此度の霊障未遂は、彼女の完全なる自業自得。

 魂を現世へと繋ぎ止める枕は盛大に蹴飛ばす。

 結界も兼ねた家の鍵は思い切り施錠を怠る。

 挙句、魔除けグッズを配置した寝室から転がり出て、廊下で寝こける。

 そんな、聞く者が聞けば卒倒すら起こしかねないトリプルプレー。

 多少痛い思いをするくらいが、今後のいい薬だった。

 寧ろ頭を打った程度、報いとするには軽過ぎる沙汰であろう。


「むむむ……ところでエーゲ、ボクの夢まで何しに来たの? サイドビジネス?」

「用はもう済んだ。つか、覚えたての単語を意味も分からず使ってんじゃねぇ」

「ふーん。まあいいや、せっかく来たんだからお茶でも飲んで行きなよ」

「生憎、砂糖塗れの地獄で何かを口にしたいとは思わん」


 どうぞどうぞと虚空より姿を現したのは、抹茶フロート。

 甘さ控えめなチョイスは辛うじて認めるけれど、季節感は些か以上にズレている。

 温かい肉まんが欲しくなる時期、フロート系は軽く拷問に等しい。


 と言うか、そもそも夢の世界に長居など無用。

 目的であった猿夢とヤマノケの撃退は果たした。ヒナに異常が無いことも確認した。

 なら、一刻も早い脱出が望ましい。


「よって、帰る」

「えー」


 えーじゃない。

 一体誰のために、このような苦労を背負い込む羽目となったのか。


「めー」

「めーでもない」

「もー」

「そう言いたいのは寧ろこっちだ」


 立ち上がったエーゲにヒナは四つん這いで近寄ると、脚にしがみ付いた。


「あーそーんーでーよー」

「ええい鬱陶しい」

「きゃうんっ」


 軽く振り払われ、ころころ床を転がるヒナ。

 やがて仰向けに静止すると、何が面白いのか声を上げて笑う。


「あははははっ! もう一回もう一回!」

「あのな……」


 辟易じみた溜息と共に時計を見る。

 気付けば、随分と手間を食っていた。


 飴の薬効も、程無く薄れ始めるだろう。

 何より、これ以上は現実のヒナが起きてしまいかねない。


 エーゲは頬を掻きながら、もう一度溜息を吐いた。


「……あぁ、そうだ。お前の食いたがってたケーキ、買ってきといたぞ」

「え、ホント!? どこどこ!」

「夢の中にあるワケねぇだろ……起きたら出してやるよ」

「じゃあ起きる! おやすみなさい!」


 起きると言いつつベッドに潜り込むとは、これ如何に。


 まあ、兎にも角にも一件落着。

 あとはエーゲが無事この場を抜け出せば、いつもと同じ朝が訪れる。


「すやすや……」

「もう寝てやがる。夢の中だってのに器用な奴」


 呆れ混じりに口の端を持ち上げると、周りの景色が僅かに歪んだ。

 夢の世界の主が目覚め、出入り口が鎖される最初の前兆。

 少し急ごうと、踵を返す。


 …………。

 そう。その直後のことであった。



 エーゲの足元を、大きな影が泳ぎ去ったのは。



「――――ッ!?」


 僅かな間、彼の思考が完全に凍る。

 四半秒を経て氷解した脳は、たった今自分が見た何かの正体を、克明に告げる。


 弾かれたように、エーゲは駆け出した。


「待て……」


 散らばった小物など蹴飛ばし、社を抜け、視線を巡らす。

 行きに通った一本道を、悠々と泳ぐ姿が見えた。


「待ちやがれ……ッ!」


 手持ちの針、残った全てを投げ付ける。

 ダーツが如く飛来した七本の針は、しかし敢え無く地面へと突き立つ。


 歯噛みするも、当然と言えば当然の結果だった。

 何故なら相手は、実体を持たぬ影なのだから。


「クソッ、逃がすかよ!」


 タダでは転ばないと、エーゲは印を結び、針を媒介として結界を作る。

 文車妖妃の店で買い求めた高等呪術の教本に記載されていた術法。

 行く手を塞ぐ不可視の壁に、それ――巨大な魚を象った影が、動きを鈍らせた。


「おんきりきり、おんきりきり」


 次いで真言を唱えつつ、懐からを抜く。

 刃の付いていない、けれども奇妙な圧を纏ったナイフだった。


 逆手に握り、振り上げ、追い縋る。

 急拵えの結界が、音を立てて罅割れる。


 同時。影の魚をナイフの間合いに捉えた。


「くたばりやがれッ……!!」


 怨嗟を吐き散らさんばかりに、吠える。

 振り下ろした切っ先が、影のみの姿で蠢くそれに迫る。


 ――そして。いざ突き抉らんとした、その間際。

 ぷつんと糸が絶たれるように、エーゲの五感は途切れ、意識を夢の中から弾かれた。






「っは、ぁ……!」


 まるで長い時間、水の中にでも沈んでいたかのように。

 溺れ死ぬ間際だったかのように、目覚めたエーゲは息を吐いた。


 新鮮な空気を求めて嘔吐えずき、跳ね上がる勢いで半身を起こす。

 身体は汗だくで、けれど、ひどく冷たかった。


「はーっ……はーっ……」

「……大丈夫かい?」


 幾らか落ち着いた頃を見て、傍に居た妖狐が声をかける。

 憂惧を湛えた響き。エーゲが初めて見る顔。

 どうやら、本気で心配しているらしい。


「っ……お前……起こした、のか?」

「いや、私は何も。貴方こそ、魘されてたけど」


 問いながら、微かに震える手で懐に触れるエーゲ。

 いつもそこに仕舞い込んだ、ナイフの硬い感触。

 使った形跡は、無い。


 恐らく、突き立てる間際に目覚めてしまったのだろう。

 実に、実に口惜しい話であった。


 ――しかし。


「居た」


 探し続けた過去の過ち。

 幾重にも積み上げた後悔、罪過の残滓。


 吐き戻しそうな憎悪に、服の上から胸を掻き毟る。

 叫び出したいくらいの歓喜に、歯が折れそうなほど強く噛み締める。


「あんなところに居やがった」


 探して、探して、探して探して探して探して探して。

 探し続けて、探し抜いた、虚構より出でし化生。


 とうとう、見付けた。


影喰魚かげはみッ……!」


 人の影を餌とする、影だけの怪物。

 数えて十年以上もの過去、エーゲの恐怖を象り、生まれた化け物。


 そして。嘗て。


「ヒナ……やっとだ、やっと……」


 ふらふらと、覚束ない足取りで立ち上がるエーゲ。

 未だ眠りの中にあるヒナの真っ白な髪を、万感と共に撫ぜる。

 何とも心地好さそうな様子で、彼女は笑った。


 ――果たしてどれだけ、この時を待ち焦がれたか。


 影喰魚を探し出し、奪い返すこと。

 それこそがエーゲの悲願であり、何よりの宿願だった。

 彼が生涯を通してでも成し遂げなければならない、義務も同然の償いだった。


 何故ならあれは、エーゲから生まれたものなのだから。

 何故ならあれは、エーゲでなければ決して殺せないのだから。


 何故なら、あれは。


「やっとお前に、……!」


 ヒナの影を食い、まだ幼かった彼女から様々なものを奪った、全ての元凶なのだから。





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