満月
――昨日は、ヒナを病院に連れて行った。
半年に一度の定期検診。
隣町の国道沿いに構えた、馴染みの総合病院。
予約さえ入れれば夜中でも診てくれるから、有事の際は重宝している。
――診断の結果は、いつもと同じ。
至極健康、特に問題無し。
まあヒナは別段、病を患ってるワケじゃない。
そもそも生粋の馬鹿だし、病気とは一切無縁だ。
俺の知る限り、風邪ひとつ引いたことも無い。
故、病院嫌いのヒナを病院まで引き摺って行く本題は別。
身体の診断はあくまでオマケ。ついでに過ぎない。
――
どうにか、悪くはなっていない。
しかし、だからと良くもなっていない。
現状維持という名の横這い。
医者がしてくれることなんて、気休め程度の処方箋くらいのもの。
かれこれ十年以上繰り返し続けた、乾いたルーティンワーク。
例え覚えていなかろうと、ヒナが病院を嫌になるのも無理からぬ話だった。
…………。
あとどれだけ、ヒナに今を強いなければならないのだろう。
限られた時間の中でしか過ごせない。
限られた環境の中にしか居られない。
そして、その限られた中で残した足跡すら、振り返った時には掻き消えてしまう。
そんな在り方を、いつになったら終わらせてやれるのだろう。
皆目、見当すらつかなかった。
――だが、成し遂げなければならない。
何があろうとも、返さなくては。
あいつが失ってしまった、人生の半分を。
無残にも、無慈悲にも、奪い尽くされた全てを。
何もかも、俺の責任なのだから。
「…………間違えた」
書き損じた護符の文面を塗り潰し、縦と横にそれぞれ一度ずつ破って捨てる。
テーブルに筆ペンを置き、固まった首を解す。
「どうも調子が出ねぇ……」
溜息と共に席を立ち、カーテンを開けるエーゲ。
黒天を仰げば、その中心に坐す真円の月が見えた。
街灯も懐中電灯も殆ど用を成さない夜の闇を、唯一和らげることが適う光源。
取り分け、今宵は満月。雲も無い。
普段は塗り潰されて窺えない星々を、数え切れないほど侍らせていた。
「今夜のうちに出来るだけ書き溜めておきたいんだが、な」
怪奇的な存在の殆どは、月の影響を大きく受ける。
とある化生は月が満ちると共に力を抑えられ、かと思えば別の怪物はより凶暴化する。
プラスともマイナスともつかない、実に不可思議なファクター。
故、月は神秘と混沌の象徴と考えられることも多い。
そして、人間の中にも月齢の変動によって験力を上下させる者がたまにいる。
エーゲはまさしくその手合いで、彼の場合は満月がピークとなる。
まあ、彼の
「少し休憩入れるか」
とは言え、験力の励起とやる気の多寡は別問題。
昼間にバイト先でクレーマーの団体を押し付けられたこともあって、些か疲労気味。
気怠い身体を引き摺るように、コーヒーでも淹れようと小さなキッチンに立つ。
スマホが甲高く着信音を響かせたのは、ちょうどコンロに火を点ける間際だった。
「……?」
怪訝な顔で振り返るエーゲ。
こんな時間に電話など、一体誰だと内心ごちる。
いつもならヒナだろうと迷いもせず考えるところだが、今夜は違う。
病院で定期健診を受けた翌日の彼女は、疲れ切って一日中眠り続ける。
縦しんば起きていたとしても、電話などかけられる状態ではない。
だが、ヒナでないなら誰か。
深く考えるまでもなく、どうせ暇な悪霊のイタ電であろうとアタリをつけた。
夜半の着信など、大概ロクなものではないのだ。
エーゲはスマホと一緒に、書いたばかりの護符を数枚掴み取る。
少しだけ身構えながら、通話アイコンをタップした。
「はいもしもし」
『やあ、貴方の可愛い狐さんだよ』
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
悪霊ではなかった。
その百倍はタチの悪い相手だった。
古典的な手段で通話を断ち切り、手中の護符を残らずスマホへと貼り付ける。
早口で真言を繰り返し唱え、部屋の四隅に盛った塩を取り替え、魔除けの香を焚く。
満月を迎えたエーゲの験力は、並の祓い屋をも凌ぐ。
必然、結界の強度も日頃と比べて跳ね上がる。
元々防御に長けた彼。扱う呪術こそ一般的なものだが、常用している分、練度も高い。
「ふぅっ……」
兎も角、これでひと安心。
肺に溜まった息を残らず吐き出し、知らず浮かんでいた額の汗を拭う。
今度こそコーヒーを淹れようと、振り返った。
「こんばんわ」
一瞬、エーゲは本気で心臓が止まるかと思った。
すぐ後ろ。目と鼻の先に、僅かな気配さえも窺わせず、妖狐が居たのだから。
「…………なんで、いる」
「ふふふっ」
「結界はどうした」
「ふふふふふっ」
二つ三つと重なる問いには答えず、さも可笑しそうに肩を揺らすばかりの妖狐。
よほど、エーゲの反応が面白かったらしい。
「帰れ」
「まあまあ、そう冷たくしないでおくれよ」
するりと音も無く背後に回り込まれ、肩を抱かれる。
振り払おうと動けば、またいつの間にか正面に。
掴みどころが無い、とはまさしくこのことか。
実にやり辛い相手だった。
「何しに来たんだ」
「もちろんデートのお誘いに、さ」
にこやかにそう告げた妖弧。
対し、あからさまな渋面を浮かべるエーゲ。
「ふふふふふっ。気乗りしなさそうだね?」
「ああ」
「正直だね。好き」
冷遇したにも拘らず、好感度が上がった。
「……わーい、ちょーたのしみー」
「嘘吐きな貴方も好き」
どうしろと言うのか。
「ふふっ……まあ、貴方を困らせて楽しむのはこれくらいにして」
「困らせてる自覚があるならやめてくれ」
「ふふふふふふふっ」
やめるつもりは毛頭無いらしい。
そも、本質的に意地悪で悪戯好きな狐相手が、やめろと言って聞く筈も無い。
「今回はね、貴方が喜びそうなところを案内しようと思ってね」
「あぁ?」
「考えたんだ。どうすれば貴方が喜んでくれるだろうって」
高値で売れる鞠を渡しても、反応は今ひとつな相手。
即ち、単純な金よりも欲しい何かがあるのでは、と妖狐は結論した。
着物の袖を探る。
程無く妖狐が取り出したのは、一枚の古めかしい地図。
「スマホのマップには場所が載ってなくてね」
「どこに連れてく気だよ……」
何せ人攫い程度の芸当、平然とやってのける輩。
以前と同様、また気付いた時には鳥居の中を歩かされていた、などぞっとしない。
差し出された地図を検めるエーゲ。
そして、彼は――ゆっくりと、目を見開くのであった。
満ちた月が優しく照らす、いつもより明るい夜道。
張り巡る電線よりも少し高いあたりを、数十の告死蝶が連れ立って飛んでいた。
エーゲが少し気を尖らせると、周囲に幾つもの嫌な気配。
告死蝶に誘われてか、或いは月の魔力を受けてか、いつもより数が多い。
彼自身も験力が高まっている分、ハッキリとそれが感じられた。
「そこのカーブミラー、何か居るね」
「木っ端もいいとこだろ。鏡の中に隠れてる奴なんざ」
精々、まやかしを映す程度が関の山。
とは言え、こんなところに潜まれては要らぬ交通事故の元となりかねない。
エーゲは小さな鏡をポケットから出すと、カーブミラーにそれを向ける。
合わせ鏡に吸い寄せられ、そちらへと移る何か。
間髪容れず、出られぬよう護符を隙間無く巻き付けた。
「それ、どうするんだい? 煮ても焼いても美味しくないと思うけど」
「誰がこんなもん食うか、食あたりするわ。警察に持ってくと金一封貰えるんだよ」
金額は地域によっても異なるけれど、大体一万円前後。
臨時収入としては、中々悪くない。
「変なものを集めるんだね、警察って」
「や、別にコレクションしてるワケじゃねぇだろ」
ひと昔前、鏡に巣食う魔の騙しを受け、目に見えて交通事故の激増した時期があった。
無論、鏡面に経文を綴れば大概は防げるが、全ての鏡に処理を施すのは難しい。
故、国は元凶となる何かそのものを駆除する形で鎮静化を図ったのだ。
捕らえた者への金一封は、その一環である。
「かしこみかしこみ……ん?」
心なしか曇りの抜けたカーブミラーから視線を外すと、不意に奇妙な物音。
重なって響く足音のようなものに、耳を欹てた。
「……あぁ、そっか。満月だもんな」
やがて二人の向かう先から姿を現したのは、なんとも異様な一団。
冷蔵庫、炊飯器、テレビ、電子レンジ、自転車、ソファ等々。
あらゆる粗大ゴミが列を作り、やんややんやとめいめい囃し立て、練り歩いていた。
「へぇ、面白い。まるで百鬼夜行だ」
「なに言ってやがる。まさしく百鬼夜行だろ」
不法投棄されたゴミの山が、各々捨てた持ち主の元を目指す。
そう仕込まれた式の作動条件こそ、満月。
僅か一夜のみ、単なるガラクタを九十九神へと変生させる特殊な呪術。
通称を、九十九百鬼夜行。
十五夜の風物詩である。
「しっかし、理解に苦しむな。戻って来るって分かってんのにどうして捨てるんだか」
「そこが人間の面白いところじゃないか」
確と先を見据えている者が居れば、後先考えない者も居る。
不法投棄を無くすため式を組む者も居れば、構わず捨てる者も居る。
同じ人という括りにありながら、個々に於いては相反した思想と行動を繰り広げる。
これもまた人間が持つ多様性の顔であると、妖狐はさも楽しげに言った。
「夜に蔓延る化生達がああも彩り豊かなのだって、半分近くは人の影響だ」
怪奇の中には、人間の認識や思い込みを受けて自らの形を変えるものも少なくない。
それは、餌である『恐怖』を効率良く得るための性質。
即ち彼等の多彩さは、そのまま人が内に抱える怖れの数を示しているのだ。
「角を曲がった先に怪物が居るかも知れない。足元に化け物が潜んでいるかも知れない」
目を持たぬ化生が居るやも知れない。
百の目を持つ異形が居るやも知れない。
子供をとり殺す女怪が居るやも知れない。
問いに答えねば首を落としにかかる悪鬼が居るやも知れない。
なまじっか考える能があるというのも、良し悪しである。
想像が働く分、ありもしない恐怖を頭の中へと作り、克明に描いてしまうのだから。
――そして、虚構と現実の境目が朧となったこの時代には、存在する。
本来、誰かの空想として終わる筈だった怪物の姿を被り、深淵より這い出る何かが。
「果たして恐怖が彼等を生んでいるのか、はたまた彼等が恐怖を生んでいるのか」
誰にも証明できない堂々巡り。
とは言え、この際どちらが正答であるかなど、問題ではない。
「面白い。まさしくそれに尽きると、貴方もそう思わないかな?」
「…………」
悦を含んだ妖狐の結び。
だが。
「思わねぇよ」
対するエーゲは、言葉を噛み千切るように、刺々しく否定を吐き捨てた。
「面白くもなんともねぇ。人の恐怖を食い物にする輩なんぞ、反吐が出る」
怨嗟で濡れた低い声。
単なる感情的な好悪ではない、実感の伴った憎悪だった。
そんな彼の様子に、さしもの妖狐も気が咎めたのか、静かに眉を落とす。
「ごめんよ。貴方にとって、触れられたくないところだったんだね」
「……行こうぜ。もう近くなんだろ」
敢えて謝罪には応じず、いつの間にか止まっていた歩みを促すエーゲ。
きっと、彼なりの気遣いなのだろうと、妖弧はそう思った。
「そこから三歩左足だけで進んで、次に後ろ向きで七歩」
目的の店は、妖狐曰く店主が極度の人見知りとのこと。
故、結界で巧妙に隠されており、特殊な手順を踏まなければ決して辿り着けない。
らしい。
「両手で陰陽魚を描き、四度と八度、拍手を打つ」
「……あぁ? それ、呪術的に何の意味があるんだ?」
「無いよ。まあ、何も結界を破ろうってワケじゃないんだから」
この手順は、謂わば玄関を開けるための鍵。
術理に沿う必要は無く、術者が定めた所作をなぞれば通ることを許される。
とは言え、建物ひとつを外界から隔離するなど、並大抵の話ではない。
完全にエーゲの理解の外。これで本当に入れるのか、正直なところ半信半疑だった。
何せ、旗振り役は性悪な狐。
いいように遊ばれているということも、十分考えられるのだから。
「じゃあ最後に、俺は極度の狐フェチですって声の限り叫んで」
「ふざけんな。真面目に案内する気が無いなら今からでも俺は帰るぞ」
「ふふふっ……残念」
口元を覆う袖の奥でにやにやと笑いながら、小気味良く指を鳴らす妖狐。
人のそれとは形が違う手でどうやって、などと疑問に思うだけ無駄だろう。
不条理こそが、狐という獣であるからして。
「掌を重ねて、半歩だけ進んでごらん」
眉根を寄せつつも、言われた通りに動くエーゲ。
すると、刹那――彼の目の前が、掻き混ぜられた。
空気に色を与えた上での、形容し難い撹拌。
三半規管の弱い者なら、吐き気を催しかねない光景。
実際、乗り物酔いが酷いエーゲは、僅か数秒の間に眩暈を覚えていた。
耐え兼ね、思わず妖狐の肩に掴まる。
「大丈夫? 支えてあげようか?」
「ッ……要らねぇよ」
不覚を取ったとばかり、弾かれたように離れるエーゲ。
そして、視線を正面へと戻した彼は、目を丸くした。
「なっ」
何も無かった、細い小道が続いていただけであった筈のそこ。
虚空より混ざり込んだのか、或いは今まで此方が認識できていなかったのか。
兎にも角にも道は行き止まり、代わってそこには建物があった。
時代を感じさせる構えの、しかし手入れは行き届いた木造家屋。
磨りガラス張りの引き戸には、小さく『営業中』と記された木札。
気付けずにいたことが不思議なくらいの、独特な雰囲気を纏った店だった。
エーゲは暫し言葉も忘れ、その佇まいに魅入られる。
「結界も開けたことだし、入ろうか」
「……ん。あぁ」
上の空で頷くエーゲ。
そんな彼の様子を喜ばしいものと受け取ったのか、妖狐は嬉しげに微笑みつつ、促す。
「中もきっと、気に入ると思うよ」
少々ガタつく引き戸の音が、静かな店内に響く。
呪術によって空間を弄っているのだろう。見た目よりもずっと広い。
隠形の結界といい、人間ではまず実現不可能なレベルの術。
店主が相当に高位の化生であることは、明らかだった。
まあ、四尾の妖狐の古い知己という時点で、その辺は予め察せたものだが。
「文車ー。おーい、文車ー」
軽く店の奥へと呼びかける妖狐。
返事はない。彼女の声が、澄んだ空気に響くばかりであった。
「留守……なワケないか。多分まだ寝てるんだね、全く」
「……出直すか?」
「いいって、そんな気を遣わなくても」
営業中の看板を掲げておきながら、寝ている方が悪い。
肩を竦めてそう続けた後、妖狐はカウンター近くの椅子に腰掛けた。
「アイツが起きるまで好きに見てて大丈夫だよ。どうぞどうぞ」
「だが」
「平気さ。それに、貴方だって早く見て回りたいだろう?」
「…………」
幾らかの逡巡を経た末、エーゲはゆっくりと頷いた。
次いで店の中を、棚に並ぶ商品の列を、ぐるりと一望する。
――まさしく、宝の山だった。
様々な怪奇の性質や対処法が事細かに記された資料本。
一般人では手に取ることも難しい、強力な呪術の操り方が記された教本。
「すっげぇ……これ、冊数が少な過ぎてオークションにも出回ってねぇ超レア物だぞ……」
化生が営む古本屋。
人の世には中々出回らない希少本が揃う異形の店。
今エーゲが言った類の品など、似たような物が同じ棚だけで何冊も刺さっていた。
「こいつも、そっちも……ずっと探してたのが、纏めて置いてあるじゃねぇか……!」
常にどこか冷めた、翳りのある仏頂面。
それが今や興奮と共に笑みすら浮かばせ、どの一冊を取ろうかと指先を迷わせている。
年若い青年らしい、相応な振る舞い。
ヒナあたりが見れば、眼鏡の不調か彼の熱を疑うだろう光景。
「……ふふふふふっ」
ともあれ、これだけでも連れて来た甲斐があったというもの。
喜んでくれるだろうと期待はしたけれど、些か想像以上。
まさしく嬉しい誤算だ、と。
胸の内で呟きながら、妖狐は口元を覆った袖の向こうで、殊更上機嫌に笑うのだった。
「参った。流石に欲しいもんが多過ぎる」
店の敷居を跨いでより四半刻。
粗方、目ぼしいところは押さえたらしいエーゲは、ひと息入れるべく椅子に掛けた。
「だったら、全部買ってしまえば?」
「馬鹿言うな、一冊あたり十ウン万してもおかしくねぇんだぞ。そうそう手が出せるか」
「なら、私がプレゼントしよう」
「要らねぇ。なんだその真っ黒なクレジットカードは、さっさと仕舞いやがれ」
正味の話、こんな穴場を教えて貰ったということだけでも後が恐いほど大きな借り。
そこに重ねて気前の良い贈り物など、寒気がした。
例え無償の善意を謳おうと、相手が相手である限り、常に裏を勘繰って然るべき。
狐を信用し過ぎれば、必ず足元を掬われる。
数々の故事、延いては御伽噺の結末に於いても証明され尽くした、一種の真理だった。
尚、以前の鞠は押し付けられた品ゆえ、エーゲの中では諸々にカウントされていない。
「つか、値札が無いんだが」
「そりゃ、時価だからね」
両手で持った湯呑みを傾け、茶を啜る妖狐。
狐の口は犬や狼と同様、横へと大きく裂けた構造にも拘らず、器用に飲むものである。
「時価と言うか、文車――ここの店主は気分屋だ。客次第で値段を変えるのさ」
「……気に入らねぇ奴には吹っ掛けたり、とかか?」
「うん、そんな感じ。商売人として見るには、嫌な相手だろうね」
だとすれば品揃えが素晴らしい分、余計にタチが悪い。
真にそれ等を欲する者であれば、相場の倍でも買うだろう。
何せ、この期を逃せば今後再び巡り会えるとも知れない逸品ばかり。
結局は、提示された額で買わざるを得ないのだ。
「そいつぁ顔色を窺わねぇとな……」
嘆息混じりに呟くエーゲ。
とは言え、もしも最初の一瞥だけで印象を決め付けられれば、窺うも何もなかった。
――エーゲは、自分があまり人好きのする見目ではないことを知っている。
六尺近い上背、三白眼の目立つ酷薄そうな容貌。
なまじ造形が整っている分、初見の相手へと与える威圧感は殊更に強烈。
加え、化生の跋扈する夜道を平然と歩き回るなど、肝も相当太い。
バイト先でクレーマー対策に重宝されるという話も頷けよう。
とは言え、やはり日常生活に於いては不利益を被る方が多い。
その辺、天真爛漫なヒナの横に立てば、彼女が緩衝材となってくれる場合もある。
しかしながら、今宵の連れ合いは妖狐。その役目は色々な意味でとても期待できない。
『困った時は笑顔だよエーゲ! 人間、笑ってればどうにかなるもんなのです!』
まだ見ぬ店主への応対に頭を悩ませていると、どこからかヒナの声が届いた気がした。
笑顔で解決。
成程、そういうのもあるのかと、早速エーゲは実行に移す。
「…………あぁ。なんて、冷たい笑顔……今、ちょっと、本気できゅんってキたぁ……」
瞳を熱に溶かし、陶然と己が胎を撫でさする妖狐。
そんな彼女の反応を見るに、きっと何もしない方がまだマシだと思い直した。
「はぁっ、好きぃ……ふふふふふっ。不安がる気持ちは分かるけど、貴方なら大丈夫さ」
「急に元に戻るな。なんなんだアンタ」
「ふふふふふふふふっ」
一瞬、本性らしきものを覗かせた妖狐だが、間を置かず居住まいを直す。
逆にエーゲの方が調子を狂わされる始末だった。
しかし、大丈夫とは如何なる根拠があっての言葉だろうか。
訝しげなエーゲに、妖狐は意味深長な微笑を向けた。
「だって文車は――」
紡がれる台詞が、半ばで止まる。
店の奥より響いた床板の軋む音に、遮られたのだ。
「おや。ようやくお目覚めのようだね」
ぎ、ぎぃ、と小さくもよく通る音色が、三つ四つと重なって行く。
数を経るに連れ、徐々に近付いてくる音。
足音、なのだろう。
やがて。暗闇の中から、一人の女怪が姿を見せた。
「……なんだ。誰かと思えば」
幾らか眠気を残した滑舌。
全身に巻子本を絡めて服の代わりとした、化生特有の奇妙な装い。
「何用? まだ眠い。なに?」
明らかに棘を帯びた、お世辞にも上機嫌とは呼べぬ態度。
どうやら幸先は悪そうだと、舌打ちしたい気分で今朝の星座占いを思い返すエーゲ。
その一方、妖狐は辛辣な物言いなど意にも介さぬ様子で、軽く諸手を振った。
「久し振りだね、文車。今夜は客を連れて来たよ」
「気軽に店の存在を吹聴しないで」
文車と呼ばれた女怪の眦が、鋭く尖る。
いっそ明白な拒絶。
これでは値を吊り上げられるどころか、そもそも売って貰えるかどうかさえ怪しい。
宝の山を目前にして、道が塞がれてしまったような落胆。
興奮も一入であった分、流石に堪えた。
しかし。
「まあまあ、ここは私の顔を立てておくれ。彼をがっかりさせたくないんだ」
「そっちの都合なんて知ったことじゃ――――――――
おもむろに、文車が目を瞬かせる。
次いで、そこに誰か居る、程度しか気に留めていなかったエーゲを、初めて直視する。
「――――」
五秒。
十秒。
十五秒。
突如、ぴくりとも動かなくなった文車。
そんな間にも刻々と時は進み、気付けば瞬く間に三十秒近くが流れ去る。
そして。
「お、おおっ、おおおおおおおっ」
一拍。
「男ぉぉぉぉぉぉぉぉッッ!?」
ガラスがたわむほどの大声。
直後、文車は凄まじい勢いで以て、手近な本棚の後ろへと隠れてしまうのだった。
封すら解かれず仕舞い込まれた恋文が長い歳月を経て魂を得、人の姿を象った妖怪。
先頃にエーゲ達が見た百鬼夜行。
それを織り成していた紛い物とは根本より異なる、正真正銘の九十九神。
その起源は古く、最初の目撃例は実に江戸時代後期にまで遡る。
五色不動が築かれてより数十年。
霊脈の強制的な休眠を受け、異能者が絶えつつあった当時の日本。
そんな時代に在りながら、強い霊感を持って生まれた浮世絵師、鳥山石燕。
彼が実際に遭遇した怪奇達を描き起こした画集のひとつ、百器徒然袋。
現代に於いては資料本として注目を集めるその書の一項に、文車妖妃も記されている。
――そして、九十九神は重ねた暦と共に更なる力を得る怪奇。
三百年近い下地を持つ文車妖妃の験力は、そこらの木っ端など歯牙にもかけない。
空間すら捻じ曲げるような結界が張れたとしても、不思議はなかった。
何せ熟練の祓い屋ですら、戦えと言われれば顔を青くする大物。
しかし、そんな強大さに反し、性質は非好戦的かつ極度の厭世家。
書と静寂を愛し、世俗と交わる行為を避け、打ち捨てられた屋敷などに住み着く女怪。
元より人前に姿を晒すこと自体、極めて珍しい。
もしも目とする機会があったならば、それは結構な奇運と呼べるだろう。
「お、おおっ、おちゃ茶、ですっ」
緊張で強張り、小刻みに震えた手が、どうにか湯呑みをテーブルへと置く。
直後、そそくさと離れ、また本棚に隠れた文車を、エーゲは困惑と共に視線で追った。
「……俺、なんかしたか?」
「ふふふふふっ。いいや、なぁんにも」
彼女と旧知である妖狐に問うも、愉快げな含み笑いで返されるばかり。
要領を得ず、どうしたものかと取り敢えず茶を啜るエーゲ。
独特な風味の薬茶。悪くはなかった。
「中々、美味いな」
「お、お粗末様でぇ……ひひっ」
尻すぼみな言葉遣い、耳に残る引き笑い。
ふと目が合う度、焦ったように逸らされる。
にも拘らず、気付けば再びこちらを見ている。
警戒されている、と断ずるにも何か違う、奇妙な態度。
今までエーゲの周りには居なかった手合い。
言動の真意が読めず、深まる一方の当惑。
首を傾げていると、いつの間にか後ろに立っていた妖狐が、彼に耳打ちした。
「どうやら、気に入られたみたいだね」
「あぁ? 寝ぼけてんのか? そのほっそい狐目しっかり開いて、あれ見てみろよ」
「ぴぃっ!?」
思わずエーゲが文車を指差すと、驚いたのか勢い良く引っ込む彼女。
さながら犬を見た野兎。斯様な有様で気に入られたなど、皮肉としか受け取れない。
「どう見たって、良い方には思われてねぇぞ」
「ふふふふっ。もしそうなら、あのものぐさが薬茶なんて出したりしないよ」
言われてみれば、確かにそうやも知れなかった。
薬茶は、普通の煎茶よりも淹れるまで幾らか手間が要る。
全く歓迎していない相手へと出すには、些か贅沢が過ぎる代物。
「けど、だからってなぁ……茶を出した一瞬以外、近寄っても来ないんだが」
「仕方ない仕方ない。何せ文車妖妃だもの」
「……?」
妖狐の言葉に、再三首を傾げるエーゲ。
それも無理からぬこと。文車妖妃は遭遇の報告自体、殆ど上がっていない化生。
人類最初の目撃者である鳥山石燕を含めてすら、両手の指で事足りようほど。
故、詳細な部分には未だ不明な点が多く、研究者達の間でも意見が分かれている。
まあ、怪奇とは多かれ少なかれ、大抵が似たようなものなのだが。
そもそも、不条理と理不尽が形を持ったに等しい存在こそ化生。
全てをつまびらかにしようなどと考える方が、愚かである。
「ふふふっ。文車妖妃が古い恋文の九十九神だってことは、貴方も知ってるかな?」
「ま、一応な。逆に言えば、それくらいしか知らねぇが」
十分、と妖狐は頷く。
「渡されることさえなかった文。理由は様々だろうけど、大事なのはそこじゃない」
重要な点は、手紙にしたためるほどの思慕が、想い人の手に届かなかったという事実。
如何なる無念であったろうか。
喉が裂けるまで咽び泣き、胸が抉れるまで掻きむしったであろう。
それくらいの、怨念に近しい激情が伴わなければ、物に命など宿ろう筈もない。
…………。
と。要するに、妖狐は何が言いたいのか。
結論は、至ってシンプルであった。
「そんなめんどくさい出自の生娘が、殿方に免疫なんてあるワケないだろう?」
「……あー」
神妙な様子で、ポンと膝を叩くエーゲ。
どうやら、得心が行ったらしい。
「でも興味は一人前にあるから、ああして遠目に眺めてるのさ。いやはや、助平だねぇ」
「せめて奥ゆかしいって言ってやったらどうなんだ」
「助平は事実だよ、ああ見えて。例えば――」
「――マジか……人は見た目によらねぇんだな、やっぱ……人じゃねぇけど」
「(な、なに話してるんだろ……)」
本棚の陰から耳を欹て、小声で交わされる二人の会話を拾えまいかと努める文車。
が、今ひとつ聞き取れない。
とは言え、その方が幾らか幸せやも知れなかった。
散々に悪評を吹き込まれている、当の本人としては。
「本を売って欲しい」
ふと気が付けば、午前零時をとうに回った深更。
たっぷりと時間をかけ、どうにか同じ席へと着ける程度には慣れたらしい文車。
表情の硬さも少しは抜けてきた頃合いを見て、エーゲは本題を持ち出した。
「取り敢えず、これとこれ」
テーブルに並べた古書二冊。
文車の眼差しが、じっとそれ等を眇める。
本当ならば、あと二十冊は欲しい物があった。
しかしながら、この二冊だけでも軽く十万円は下らないだろう希少本。
今現在のエーゲの手持ちでは、これ以上はとても手が出せなかった。
「幾らだ?」
「え、えっ……」
目を泳がせ、思案する文車。
暫しの後、彼女はおずおずとエーゲを見、小首を傾げつつ微笑む。
だいぶ、引き攣っていたが。
――そして。
「せ……千円?」
間を置き、提示された価格。
あまりな破格。逆の意味での法外に、エーゲは一瞬耳を疑った。
「…………はぁ?」
「あ、ごめ……高かった? じゃ、じゃあ、五百円でいい……」
安過ぎて驚いていたところ、何を誤解したのか文車は更に値を下げた。
いよいよ、開いた口が塞がらないエーゲ。
そんな彼を余所に、堪え切れなくなった妖狐が、押し殺した笑声を零す。
「ふふ、ふふふっ……文車ぁ、お前いつからそんな気前が良くなったんだい?」
「る、るっさい……!」
曲がりなりにも古本屋を営む彼女が、取り扱う商品の価値を知らぬ筈もない。
にも拘らず、タダ同然な捨て値での提供。
どうやら、よほどにエーゲを気に入った様子であった。
まあ、当然と言えば当然の帰結。
今宵――満月の彼は、謂わば上質な酒で満たされた器。
持って生まれた清廉な『気』も合わさり、女怪の類には普段より一層魅力的に映る道理。
男慣れしていない文車ならば、その影響は殊更に強いだろう。
「……この二冊を相場で買うくらいの金なら持ってるぞ」
「よきかなよきかな。女からの贔屓は色男の特権、素直に譲って貰えばいいじゃないか」
「つったって、五百円は流石にねぇだろ……」
如何に化生相手であろうと、好意につけ込むのは気が咎める。
何より、斯様な形で借りを作っては、後々に尾を引きかねなかった。
「幾らか経ってから、今夜のことを持ち出されても困る。常套手段だろ」
「ふふふふふっ。貴方は私達との付き合い方をしっかり心得てるねぇ、手強い手強い」
だけど文車妖妃に限っては大丈夫だ、と妖狐は謳う。
「確かに、コイツが本の値を落とすのは下心ありきだよ」
「無いわよ! 平気な顔で適当なこと言うな!」
悪し様な口振りに、歯を剥いて反論する文車。
が、こればかりはエーゲも、妖狐の言が正しいだろうと疑わなかった。
一切の見返りも無く化生が人間に益を齎すなど、およそ有り得ない。
住み着いた家に幸福を寄せる座敷童子でさえ、戸棚の菓子を掠め取るくらいはする。
「でも、このヘタレの下心なんて可愛いもの。要するに、また店まで来て欲しいのさ」
品物を安く譲れば、足繁く通ってくれるかも知れない。
そんな期待を寄せての、破格値サービス。
エーゲが確かめるように文車を振り返ると、彼女は首まで赤くして俯いてしまう。
どうやら図星の様子。
「そもそも文車にとっては、お金なんて大した意味も無いしね」
「あぁ? じゃあ、なんで店なんか……」
「ふふふっ。妖怪に辻褄を求めるのかい?」
そう返されてしまうと、ぐうの音も出なかった。
兎にも角にも、文車はエーゲから大金を受け取る気など無いらしい。
正直、出費を大幅に抑えられるのは有難い話。
逡巡を重ねた末、エーゲは小さく吐息し、文車に頭を下げた。
「ありがとう。この借りは忘れない」
「っ……い、今、なんでもするって……?」
「言ってねぇよ」
ひゅっと息を呑んだ文車から、咄嗟に三歩ほど距離を置くエーゲ。
怪奇的な存在を信用し過ぎるのは、やはり危険である。
元より、やろうと思えば人間など力尽くで如何様にもできる高位の化生。
今からでも機嫌を損ねぬよう、エーゲはどう返礼すべきか思案する。
「…………ん。こいつを売ってくれ」
「え……?」
程無く彼は、テーブルに並べた本の片方だけを取って、静かにそう告げた。
「読み終わったら、また次を買いに来る」
文車が目を見開く。
いつの間にかその横に居た妖狐は、興味深そうにおとがいを撫でた。
「来る度、一冊ずつ買って行く。構わないか?」
こくこくと、繰り返し頷く文車。
エーゲは財布から五百円玉を取り出すと、それを彼女に握らせる。
お互いに、冷たい手だった。
「よし、商談成立。じゃあ、今夜はここらでお暇させて頂きますかね」
踵を返しながら、後目に妖狐を見遣るエーゲ。
すると彼女は、名残惜しげに薄く笑んだ。
「私は少し、文車と話してから帰るよ。お休み」
「そうか。じゃあな」
雑っぽく手を振り、店の出入り口であるガラス戸を開く。
外に出て幾らか歩き、おもむろに後ろを見返る。
店はもう、影も形も見当たらなかった。
「…………」
エーゲが店を去ってより暫し。
文車は手の中の五百円玉を、ぽうっと見つめていた。
冷たい硬貨の感触が、思い出させてくれる。
時間にしてみれば一秒か二秒ほどではあったけれど、確かに触れた彼の手を。
むず痒いような、気恥ずかしいような、落ち着かない心地。
しかし、間違っても悪いものではなかった。
「素敵な殿方だろう?」
「うん……って、アンタまだ居たの!?」
「ずっと居たさ。どれだけ眼中に無かったんだ」
呆れ混じりに肩を竦める妖狐。
面倒な奴にとんだ醜態を晒してしまったと、文車は歯噛みする。
今後、事ある毎に蒸し返されてはからかわれかねない。
「あ、だけど先にツバを付けたのは私だよ。ぺろぺろ」
「……何それ。アタシのために彼氏候補を寄越してくれたんじゃなかったワケ?」
「厚かましいにも程度があるとは思わないのかな?」
確かにお互い、長い付き合いではある。
けれども、そこまでしてやる義理などなかろう。
欲しいものは己が力で手に入れる。
法も秩序も無い化生にとって、それは至極当然の話だった。
「じゃあ、なんでわざわざ彼を店まで連れて来たのよ」
「無論、お前に見せびらかすためだ。私のだぞ、いいだろう。はっはっは」
「もしかして、尻尾引き千切られたいの……?」
剣呑に細まる文車の双眸。
とは言え、如何に高位の九十九神であろうと、四尾の妖狐相手は荷が重い。
忌々しげな舌打ちを落とし、湯呑みに残った薬茶を残らず呷る。
「……まあ、本気で彼をモノにするのは、相当骨が折れそうだけどね」
「?」
文車が空となった湯呑みを置くと同時、妖狐の口より零れた呟き。
古い馴染みの珍しい弱音に、目を瞬かせる。
「彼は、括られてる」
「括られ……? 何かに憑かれてるってこと? そんな感じ、全然しなかったけど」
差し向かいで話したエーゲの姿を思い出す文車。
呪詛の類を受けた者には、特有の匂いが残る。
しかし、彼からそのようなものは感じられなかった。
「憑き物と大掴みに言っても、実態は様々だ。彼の場合は、彼だけを見ても分からない」
「アンタの説明は、昔から要領を得ないわね」
「ふふふっ、煙に巻くのが狐さ。ともあれ、彼が取り憑かれていることは間違いないよ」
それも、と前置き、妖狐は一拍の間を空ける。
次いで紡がれた台詞は、ほんの少し、哀れみの色を含んでいた。
「ある意味、私よりもずっと厄介な相手に、ね」
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