十日月
夜中によく出歩いていると他人に話したら、多くの場合は奇異な目で見られる。
まあ、当然だろう。
店も殆ど開いてなければ、暗くて足元だってロクに見えやしない。
ワケの分からないのはそこら中に居るし、事によっちゃ昼間と道が違ったりもする。
散々迷った挙句、生きたまま黄泉路に出てしまった、なんて話も少なからず聞く。
レスキュー隊員が助けに行った際は、よく奪衣婆あたりと取っ組み合いになるらしい。
……相手が相手と言えど、老人虐待にならないのか?
脱線した。
兎にも角にもこの幻世の御時世、夜間外出は良い顔をされない。
昭和や平成とは違うのだと、中高年の連中は特に煩い。
しかし、俄かには信じ難いものだ。
二十七年前、東京で五色不動の結界が壊れる以前は、夜が安全だったなんて。
昔は化生なんて居なかったとか、丑の刻参りしても逮捕されなかったとか、マジでか。
生まれた時には既に今みたいな感じだった幻世っ子の俺には、想像もつかんぞ。
盛り塩してる家の方が少数派だった? 浮遊霊入りまくりじゃねぇか。
必須も必須だろ。しないとか、鍵掛けないで家出るのと変わらんだろ。
また脱線した。
それもこれも、危機管理がなっていない昭和や平成の世が悪い。
たった九年で終わったくせして、何が平成だってんだ。
…………。
取り敢えず、俺が何を言いたいのか。
特別な理由でもなければ、無闇に夜更け、表を歩き回ったりするべきではない。
要するに、そういうことだ。
『お蕎麦食べたい』
既に日付も変わった夜八つ。
スマホの着信に寝しなを叩き起こされたエーゲが取った電話口からの第一声である。
「はっ倒すぞ、お前」
『やん、今夜のエーゲってば積極的ぃ』
地の底で這うような低語に堪えた風も無く、けらけらと笑うヒナ。
バイト先にて数多のクレーマーを追い返してきた自尊心が、些か揺らぐ。
『なんか怒ってる?』
「寝そうだったとこを起こされりゃ誰だってこんなもんだろ」
『ボクはさっき起きた!』
完全な昼夜逆転。
毎夜の如く遊び回っているのだ。当然の帰結だった。
「……で、なんだって?」
『あのねー、無性にお蕎麦が食べたいの』
「出前でも取ればいいだろ」
『逆に聞くけど、こんな時間に何処が出前してくれるの?』
「…………」
寝惚け半分とは言え、馬鹿なことを口走ってしまった後悔。
そして、自分よりも遥かに頭の悪い人間に正論を突かれる屈辱。
筆舌に尽くし難い心地というものを、エーゲは今まさに身を以て体感していた。
『ねーねー、美味しいお蕎麦食べさせて?』
「カップ焼きそばでも食ってろ」
『お蕎麦と焼きそばは全く別物だよ! 焼きそばとカップ焼きそばも更に別物だよ!』
いざ出されれば、どれもこれも美味い美味いと平らげるだろうに。
そもそも、道端のつくしを生で貪るレベルの悪食。
プラスチック以外なら何でも食べる女だと、エーゲはよく知っている。
『全く、エーゲは適当なんだから……うん? ちょっと、何よ君は』
「あ?」
『こらー! 土足で上がり込むな、この! 帰れー!』
「なんだなんだ」
急に声が遠く、しかし一層に騒がしくなる。
どうやら、スマホを置いて暴れ回っている様子。
こんな夜中に近所迷惑な話だと、軽く頭痛を催しながら嘆息するエーゲ。
いっそ、もう切ってしまおうかと、まだ重い瞼を擦る。
――不意に、喧騒が静まった。
『――――』
「?」
スマホ越しの、微かな息遣い。
ヒナのそれ、ではない。
「誰だ、お前」
『…………ひひっ』
掠れた、ガラスのように冷たい、怖気を誘う笑い声。
夜にしては珍しく明瞭だった電波が、激しいノイズで割れる。
『次は、おまえ』
「あぁ?」
気怠く纏わり付いていた睡魔が飛ぶ。
スマホを握るエーゲの手に、力が篭る。
そして。
『なにすんだこんにゃろー!』
『ひっ!?』
花瓶か何かの割れる音。
先程よりも明らかに激しさを増した喧々囂々。
エーゲは最早状況がまるで掴めず、頭に疑問符を浮かべながら収拾を待った。
五分か、或いは十分か。
ただ待つには少々長い時間、騒ぎは収まらなかった。
漸く静かになったかと思えばノイズが薄れ、荒い息遣いが響く。
これは間違い無く、ヒナのものであった。
『ふわわー。あー、全くもう』
「いや、何があったんだよ」
『んー? なんかねー、テレビから髪の長い女の人が出て来てさー』
聞けば、また護符の貼り換えを忘れたらしい。
日頃、エーゲが口酸っぱく言っているにも拘らず、この体たらくだった。
スマホやテレビ、パソコンなどの機器は魔除けを怠ると危険なのだ。
取り分け、妙なものが憑き易いのだから。
『暴れるもんだから顔面集中攻撃の後、スカート茶巾にして追い返したの』
「昭和のスケ番かお前は。ちったあ容赦をかけてやったらどうなんだ」
御愁傷様と手を合わせる以外に無い。
化生と言えども、祟る相手は多少なり選ぶべきだろう。
『ところで、動いたら益々お腹空いちゃった! お蕎麦!』
「食い物関連しつこいよな、お前……」
大体、先のヒナを真似るようだが、こんな時間に何処の蕎麦屋が開いているのか。
今の御時世、コンビニ以外で深夜営業する店など本当に少数派。
危険な上、客も殆ど来ないと来れば、そもそも店を開ける理由が無い。
「……あ、いや。そう言えば一軒だけ開いてたな」
『美味しければ何でもいいよ!』
「既に連れてく前提で話を持ってくんじゃねぇ」
斯く言うエーゲだが、蕎麦蕎麦と連呼される内に自分も蕎麦が食べたくなっていた。
久方振りに足を運ぶのも悪くないかと、思案交じりに立ち上がる。
「仕方ないから付き合ってやるよ。いつもの場所に十五分後な」
『わーい、エーゲありがとー! ねーねー、どんなお店? どんなお店ー?』
子供のように燥ぐヒナ。
こう喜ばれると、満更悪い気はしないのが人情。
故、エーゲも最後はつい甘やかしてしまいがちだった。
これもまた、一種の悪循環と呼べるのやも知れない。
「店てか、屋台だけどな……お前も行ったことあるぞ?」
『そなの? そだっけ?』
相変わらずの、据え置きな記憶力。
エーゲは軽く肩を竦めながら、壁に掛けた真新しいコートを取り、羽織る。
「
暗く、耳鳴りを覚えるほどの静寂に、カチカチと小さな音色が波紋する。
それは、古めかしい懐中時計が奏でる秒針の巡り。
澱み無く進む時の流れを、最も分かり易く形として表したもの。
だが――今宵は少しばかり、様子がおかしかった。
螺子は十分巻かれた状態。
にも拘らず、本来規則的な筈のリズムに、妙なズレが入り込む。
故障、ではない。
どうやら、この一帯に於ける時間の流れ自体が不確かなものとなっている様子。
「近くに黄泉路でも出てんのかね……そして相変わらず、定刻通りに来ねぇ」
早くも待ち合わせから五分の超過を示す時計をポケットに放り、独りごちるエーゲ。
時間がどう進もうと、ヒナの遅刻癖は揺らぎもしない決定事項らしい。
事ここに至っては、最早感心すら抱く勢いであった。
「ま、いいけどな。別に今更だし」
軽く経文を口遊みながら、ブロック塀に凭れ掛かってスマホを弄る。
足元には四枚の護符で敷いた即席の結界。
常に待つ側の半生。何かと物騒な四辻での屯も慣れたもの、堂に入ったものだった。
ネットのニュースサイトを覗いてみれば、世間は相変わらずの平常運転。
どこぞの国で行われた、目的がよく分からない首相同士の会談。
ナントカ言う芸能人のどうでもいいスキャンダル。
違法な呪術を用いた覗き、式紙による悪質なストーカー行為。
怪奇絡みの事故や失踪事件、等々。
「東北で大規模な霊脈の活性化ねぇ……また神でも蘇るってか?」
茨城で夜刀神が大暴れしてから、未だ二ヶ月と経っていない。
だと言うのに、もう次なる脅威が萌芽を匂わせているとは、何とも物騒な話である。
「荒ぶる神だの悪神だの、要らんもんばっか出て来やがって」
怖いもの見たさの観光客は年々増加の一途だが、旅行先で被害に遭うケースも同様。
中でも筆頭は、やはり霊地。
取り分け、青森の恐山。富山の立山。秋田の川原毛地獄。
昭和や平成の世でさえも、日本三大霊地として広く知られていたスポット。
今や半ば異界。地獄の鬼が平然と闊歩する、特急の危険地帯。
余りにも危険過ぎて、本職の陰陽師やイタコでさえ迂闊には立ち入れないと聞く。
東京五色不動。
江戸時代から三百年もの間、あらゆる怪奇を虚構へと封じた一大結界。
その消失により、休眠状態で力を溜め込んだ各地の霊脈が、臨界を迎えつつあるのだ。
現状のまま進めば、十年後二十年後、日本は完全な魔境と化すだろう。
或いは、もっと急激に変化は起こりうるやも知れない。
観光客が暢気な顔で往来を歩けるのも、果たしていつまでのことか。
「桑原桑原……あー、おっかねぇ」
世にも恐ろしい想像に、身震いしながら二の腕を擦るエーゲ。
一般市民としては、どうかそんな日が来ないことを願うばかりであった。
「ららららら~♪ ボークは可愛いヒーナーちゃん♪」
夜半の薄気味悪い静けさを裂くように響いた大声。
実に頭の悪い自己賛美の歌と共に、曲がり角からバク転で登場するヒナ。
ちりんちりんと、涼しげに風鈴が鳴った。
至極どうでもいいけれど、十五分近く遅刻した人間の態度ではない。
いつものことだが。
「やっほーエーゲ! ボクだよ!」
「見りゃ分かる。つか、お前は百メートル先に居てもすぐ分かる」
「んー? それはアレかな? 可愛いボクが発してるオーラ的な?」
単に喧しいからである。
少しは自重して欲しいが、呪符も使わず彼女が静かになるなど、まず有り得ぬこと。
エーゲも既に、半ば以上諦めていた。
「三つ編み歪んでるぞ」
「おおう、まじでか。直して直して」
満面の笑顔で告げられた要求。
小さく溜息を吐き、ヒナの髪に結われた風鈴を外し、三つ編みを解くエーゲ。
「自分じゃすっごくやり難いんだよねー」
「だろうな。じっとしてろ」
真っ白な癖毛を手櫛で整え、緩く編む。
毛先近くを真言の刺繍入りシュシュで括り、風鈴を結ぶ。
実に馴染んだ、習熟を感じさせる手際だった。
ついでに、黒いマニキュアで塗られた爪。
その上から小筆で、指それぞれに異なる金字を施す。
何と書かれているのかは、達筆過ぎてヒナには分からなかった。
「ネイルアート? きれー」
「ただの魔除けだ」
黒と金の取り合わせが御気に召したのか、月明かりに十指を翳すヒナ。
対するエーゲは筆ペンを仕舞うと、気怠げな調子でポケットに両手を突っ込んだ。
「ほら、行くぞ。四辻でモタモタすんな」
「あ、待って待ってー」
背を丸めて歩き始めたエーゲ。
その後ろを、ヒナが仔犬さながらに追いかける。
片や眉根を寄せた顰め面、片やにこにこと楽しそうな笑顔。
傍から見れば、実に仲睦まじい取り合わせの彼等。
通りすがりの八尺様が、そんな二人を微笑ましげに眺めていた。
「りんぴょーとーしゃー」
「物の見事に印契がひとつも合ってねぇな」
夜道の手慰みにであろう、九字の印を組むヒナ。
が、適当もいいところのそれに、苦虫を潰した顔でエーゲが口を出す。
「独股印はこう、大金剛輪印はこうだ」
「こう?」
「違う、こう」
「んむー。こんな感じ?」
「どんどんかけ離れてるぞ、お前」
手遊びのカエルと独股印の見分けも付かないのかと、些か悲しくなる。
「ボクの指じゃ難しいのです」
「お前の細長い手は、寧ろこの上無く印を組み易い筈だが」
「あー言えばこー言う人だよね、エーゲって。昔から」
「…………」
咄嗟、どの口が、と熨斗を付けて返そうとするも、
言うだけ無駄に終わる。なら、初めから言わない方がマシだった。
代わりに、何故出来ないのかを指摘する。
「根本的に不器用なんだよな。字が汚ねぇのも、その所為かね」
「せめて悪筆と格調高く言って頂戴よ」
格調高くも何も、どちらにせよ不名誉な評価には違いない。
やもすれば、平仮名を覚えたばかりの小学生といい勝負なのだから。
「アクヒツってカッコいい響きじゃん? タクハツみたいで」
「托鉢の意味分かってんのか?」
「んーん、知らなーい」
インド宗教に於ける修行の一環で、門付けや辻立ちなどにより喜捨を乞う行為である。
乞食行や頭陀行とも称され、名実共々格好良いイメージとは縁遠い。
尚、僧が訪ねて来た場合、托鉢に応じるのが吉とされる。
返礼として御仏の加護を得られるため、暫く運気が上がるのだ。
具体的には宝くじで五等が当たったりする程度の、至極ささやかなものだが。
「馬鹿なんだよなぁ、ホント……」
「おっと。あんまりボクをバカにしてると、みっともなく泣き喚くぜ?」
「マジで馬鹿なんだよなぁ……」
軽く頭痛。こめかみを押さえるエーゲ。
一方、ヒナは何が楽しいのか声を上げて笑い、ブロック塀に軽々と跳び乗る。
知能が控え目な分、運動神経は大したものであった。
「まあ確かに、自分でも呆れるくらい手先は不器用だって思うよ」
「指と指の間に十円玉挟めねぇレベルだからな」
「足の指でなら、コインロールも簡単に出来るんだけど」
「両極端過ぎるだろ。いっそ足で書き物してみりゃどうなんだ」
「そう言えばエーゲ、今日はお洒落さんだね」
「あぁ?」
ふと告げられたヒナの言葉に、エーゲが振り返る。
薄地のコートの裾が、殆ど音も立てず、滑らかに翻った。
「しかも高そうな感じ。いつも安物をテキトーに着てるのに」
「実際、何だっていいからな。悪目立ちしなけりゃ」
改めて、まじまじとエーゲを見詰めるヒナ。
日頃であれば、上下合わせて五千円を超えることの無いエーゲ。
けれども、今は明らかなブランド品での統一。
暫しの観察の後、ヒナは勢い良くエーゲを指差した。
「全部で八万九千七百円!」
「…………俺はお前が馬鹿なのか天才なのか、たまに分からなくなる」
僅か一円たりとも違わぬドンピシャリ。
凄まじい精度の鑑定眼だった。
「びんぼーなエーゲがそんな服を持ってたなんて、ボクおどろきー」
「倹約に努めてるだけだ。特別、金欠なワケじゃねぇよ」
「じゃあそれ、自分で買ったの?」
勿論、違う。
先日のデートで妖狐から贈られた、もとい押し付けられた代物である。
とは言え、どう説明したものか。
狐に憑き纏われている、などと素直に明かそうものなら今後に差し障る。
不注意を嗜める度、自分は狐憑きのくせにと返されては、説得力の欠片も無い。
無難な言い訳を思案するエーゲ。
するとヒナは、そんな彼の姿に何を邪推したのか、ハッとなった。
「――まさか! 女に貢がせたの!?」
「いやいやいや……いや?」
突飛、飛躍も過ぎる言い掛かり。
馬鹿馬鹿しい誤解と否定するエーゲだが、不意に思う。
状況だけ見れば、強ち間違ってもいないのでは、と。
「やっぱり! あぁ神様仏様、エーゲが不良になっちゃったー!」
アスファルトに崩れ落ち、夜空の月へと祈り始めたヒナ。
次いでエーゲは釈明を挟む暇すら無く、彼女に胸倉を掴まれた。
「詐欺師! スケコマシ! 伊達男! ボクはキミをそんな子に育てた覚えはないぞ!」
「落ち着け落ち着け。しかもお前、伊達男は褒め言葉だ」
「吐け! どこの金持ち女を騙したんだ! 一緒に謝ってあげるから白状しなさい!」
「ちょ、おま、やめ――」
その細腕からは想像もつかぬ力で、全身を揺すられる。
エーゲはまともに喋ることも適わないどころか、半ば目を回し始めていた。
結局、ヒナをどうにか宥めるまで、随分と時間を費やす羽目となる。
厄日とまでは行かないにしろ、酷い目に遭わされてしまった。
「うぇ……何でこんな目に……あー。そう言や今朝の正座占い、八位だったっけか……」
些細な食い違い、対人関係から来るトラブルに注意。
全く以て、良く当たる占いであった。
トラックの脇見運転で事故死した少女の地縛霊がすすり泣く路地。
そっと飴を差し出してから角を曲がると、その先にエーゲ達の目当てが見えた。
リヤカーを改造した屋台。
暗闇に茫と灯る赤い提灯には、掠れた字で『狸ゝ庵』と記された屋号。
使い込まれた暖簾を潜れば、何とも言えぬ芳しい出汁の香り。
エーゲとヒナがそれぞれ床几に腰掛けると、お玉片手に店主が振り返った。
「らっしゃい……おや、お二人さん。こりゃ御無沙汰で」
「わー、ホントに狸だー」
禿げ上がった頭に鉢巻を捩った、壮年の小男。
けれども、その目元には大きな黒い斑紋が浮かんでいた。
化けに不慣れな狸が人を模ると出来てしまうそれ。
間近としたヒナが、物珍しげにまじまじ見遣る。
「オッス、ボクはヒナちゃん! 初めまして狸さん、仲良くしてね!」
「えぇはいはい、かれこれ何度目の
実のところ、既に片手の指では利かぬ程度は、この店の暖簾を潜っている筈のヒナ。
以前に此処を訪れた際のことなど、案の定、これっぽっちも覚えていなかった。
「ふふん、中々の店構え。だけど蕎麦通で有名なボクを唸らせられるかな?」
「お前、いつから蕎麦通になったんだよ……」
キメ顔で嘯くヒナ。
エーゲの記憶が確かなら、先週頃はラーメンマスターの称号を自称していた。
「へぇ、こちとら創業百二十年。化けの腕はまだまだでも、蕎麦にゃ一家言ありますぜ」
「わーすごーい!」
「老舗なもんで。落語の刻そばってあるでしょう? あれ、元ネタはウチですからね」
「マジで!? 益々すごーい!」
「アンタも便乗して下らねぇ嘘言ってんじゃねぇよ……」
あの話は、一七二六年の笑話本が大本。
創業百二十年では、どう考えても計算が合わない。
大体、その創業云々も怪しいものだった。
百二十年前となると、五色不動の結界が存分に効力を発揮していた時期。
虚構に追い遣られていた筈の化け狸が、どうやって店など始められようか。
そもそも、刻そばは蕎麦屋が客に勘定を誤魔化されたことに端を発する滑稽話。
縦しんば今の語りが本当だったとして、狸が人に騙されるなど不名誉もいいところ。
正味、欠片も自慢にならなかった。
「へへへ。まあまあ、取り敢えずお冷をどうぞ。で、御注文は如何なさいやす?」
「俺はかけ蕎麦で。ネギ多めな」
「ボクはー。うんとー、ボクはねー」
ぬるい水を呷るエーゲの傍ら、真剣に悩み始めるヒナ。
能天気が服を着てるも同然な彼女だが、食べ物関連となると御覧の通り。
その関心を、少しは別の方面にも向けて欲しい。
「よし決めた! おじさん、きつねうどん頂戴!」
「待てやコラ」
逡巡に暮れた挙句の、斜め上な結論。
ヒナらしいと言えばらしいけれど、流石に物申したかった。
「お前、あんだけ蕎麦食いたいって騒いでたろうがよ」
「ボクは過去を振り返らない主義なの。未来が見えなくなるから」
「良い感じの台詞で誤魔化すな。横取りされた大福ひとつで五年は根に持つタイプだろ」
第一。
「すいやせんが、お嬢さん。ウチ、うどんはやってないんですわ」
「えーなんで!? お蕎麦屋さんなのに!」
「蕎麦屋だからだろ」
「うどんも蕎麦もラーメンもパスタも似たようなもんじゃん! 全部煮たもんじゃん!」
「上手いこと言ったつもりか。その持論でまあ、よくも図々しく蕎麦通を語れたな」
癇癪を起こし、喚き立てるヒナ。
しかし、泣こうが騒ごうが無い物は無い。
「しくしく、しくさんじゅーご。うどんが無いなら何を食べればいいんだよー」
「四かける九は三十六だ、小学校からやり直せ。蕎麦食えよ」
「今ね、お蕎麦の気分じゃないの」
「お前なぁ……」
深夜にエーゲを叩き起こしてまで食べたいと叫んだ、あの情熱は何だったのか。
女心と秋の空。お姫様の気紛れにも困ったものである。
しょげるヒナを見兼ねたのか、煙管で紫色の煙を吹かして考え込む店主。
程無く、ポンと手を叩いた。
「あぁ、カツ丼で良ければありますぜ」
「えーなんで!? お蕎麦屋さんなのに!」
「蕎麦屋だからだろ」
出汁の決め手である
故、大抵の蕎麦屋はカツ丼や天丼、カレーライスなども提供している。
尤も、此処はスペースの限られる屋台なため、カツ丼だけのようだが。
「じゃあそれ! カツ丼食べたい! ちょー食べたい!」
「へいっ」
「ホント、お前ってぐだぐだだよなぁ……」
今夜だけで何度目とも知れぬ溜息の後、二杯目の冷やを呷るエーゲ。
やはりと言うか、冷やと呼ぶにはどうにも温かった。
「カツ丼うめぇ」
「どうでもいいが、夜中によくそんな重いもん食えるな」
細身な割に健啖家のヒナ。
逆に、男性としては少食な部類であるエーゲ。
実のところ、味の好み自体あまり合わない。
肩を並べて食事へと赴くには、不向きな二人だった。
「でも湯気が! 湯気で眼鏡が曇る!」
「外せばいいだろ、眼鏡」
「そしたら何も見えないし!」
憤慨するヒナだが、そも覆い被さるように食べるのが悪い。
とは言え、自他共に認めるレベルで不器用な彼女の箸捌きはお察し。
水気を含んで滑る米など、当然まともに掴めない。
要は丼に顔を近付けなければ、ロクに食べられないのだ。
「ふーふー、んまい。ふーふー、湯気がー!」
「忙しい奴だな。食事時くらい静かに出来ないのか、あぁ出来なかったな」
「ふーふー、勝手に自己完結しないでよ、ふーふー」
「食うか喋るかどっちかにしろ」
エーゲの言葉に一瞬逡巡し、小さな口にカツ丼をかき込み始めたヒナ。
どうやら、食べる方を選んだらしい。
暫し周囲に夜の静けさが立ち戻る。
肩を竦めるエーゲ。そんな彼を見ながら、ふと店主が首を捻った。
「ふぅむ? 兄さん、もしかして狐に憑かれてやしませんかい?」
「……分かるのか?」
「そりゃま、狸なもんで。そんくらいは分かりまさぁ」
狐狸は共々、長寿を経て妖獣へと至る。
様々な術、取り分け化かしに長けたもの同士、古来より対で扱われることも多い。
故、お互いの気配と言うか残り香と言うか、そうした諸々が感じ取れるのだろう。
「変に気に入られてな。このままじゃあ、狐の嫁に行った姉貴と同じ道を辿りそうだ」
「狐を寄せ易い血筋なんでしょうな。確かに、奴等の好みそうな気をお持ちだ」
「まじでか……」
思えばエーゲの周りには、昔から野狐の類が寄って来ることも多かった。
今でも万年筆やら細い筒の中やら、気付けば勝手に管狐が棲み着いていたりする。
いっそ飯綱使いでも目指そうかと思ったのも、一度や二度ではない。
事実、噂を聞き付けたその筋の家から養子縁組を持ちかけられる機会さえあった。
山に篭って修行などしていられないので、断ったが。
「アンタ、どうにか出来ねぇか? 礼は弾むぜ」
「いやぁ無理ですわ。兄さんに憑いてる狐、こりゃ相当なタマだ」
「四尾の白狐」
「御愁傷さんで。蕎麦代はあっしの奢りにしときやす」
深々と頭を下げる店主。
あっさり見捨てられてしまった。
「諦めんなよ。狸なら狐と化かし合いしろよ」
「狸もピンキリなもんで。あっしみてぇな木っ端、とてもとても」
曰く、四尾に対抗するなら金長辺りでも連れて来なければ話にならないらしい。
四国三大狸の一角。その中では最も歴史浅い若手だが、神にも等しく祀られた大妖。
「ま、今の金長様は七代目。初代様と比べちまうと、ちぃと見劣りしやすが」
例えそうであっても、そこらの怪奇や都市伝説の化生などとは一線を画す存在。
逆に言えば、エーゲに目を付けたあの四尾も、それと近い格であることを意味する。
悩みの種は増す一方だった。
「自力でどうにか出来る気がしねぇ。やっぱり祓い屋を雇うしか」
「四尾を祓える術師、ですかい。平安なら兎も角、現代にゃあまず居ねぇでしょうな」
いっそ恐山まで出向いて、イタコに安倍晴明でも口寄せして貰おうか。
そんな思惟を傾けるエーゲであったが、生憎、彼の御仁は現在ストライキ中と思い出す。
何せ安倍晴明。古今東西に於いて並ぶ者のない、名実共々日本最強の陰陽師。
この国が幻世を迎えて以来、事ある毎に呼び出されては扱き使われた、時代の被害者。
成程、ストのひとつも起こしたくなるだろう。
最後の方は、泣きながら休暇を訴えていたとのこと。
如何に死人と言えど、馬車馬同然に使っていい理由にはならない。
「どっちにしろ晴明は指名料バカ高いし、何年も予約待ちだし、無理か……」
「難儀ですなぁ人間は」
暢気に店主が呟き、ほうっと紫色の煙輪を吐き出す。
所詮は他人事なら気楽なもんだと、エーゲは忌々しげに舌打ちした。
――丁度その頃合、ヒナがカツ丼を食べ終える。
「美味しかったー! あ、エーゲ! お蕎麦ひと口頂戴!」
「あ? お前、ついさっき蕎麦の気分じゃねぇって……」
「今はひと口食べたい気分なの! あーん!」
気分屋ここに極まれり。
しかしながら、エーゲとてヒナとは十年来の付き合い。
今更、彼女の態度に気分を害するでも無く、言われるまま蕎麦を啜らせた。
「んまい」
「そいつは良かったな」
「もっと食べる! おじさん、天ぷら蕎麦!」
「ブラックホールか何かか、お前……」
勢い良く身を乗り出し、注文するヒナ。
そんな彼女の痩躯を、まじまじと見遣るエーゲ。
果たして、こんな身体の何処に食べた物が収まるのか。
いつも不思議でならなかった。
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