狐日和






 幻想と現実との境が取り払われて二十七年。

 日本という国が新たな摂理を受け入れ、幻世げんせいと年号を改めてより二十三年目。


 古い神話、馴染み深い怪談、出所不明の都市伝説。

 今や、あらゆる怪奇が当たり前のものとなった日常。

 けれども、化生の類を忌避する人種は、やはり一定数存在する。


 そして。その嫌悪や恐怖は、殆どが正しい認識だ。


 無論、恐ろしげな怪物にも優しい心根のものは居る。

 おどろおどろしい化物にも、穏やかな気性のものは居る。


 が。結局のところ、奴等は俺達と異なる価値観で生きるでしかない。

 故にこその怪奇。故にこその化生。

 時には平然と、木の葉でも返すように、人に牙を剥く。

 そこに然したる理由など無い。


 元より、そういう在り方なのだ。

 心根がどうであろうと、気性がどうであろうと、化生の本質は人間の畏れ。


 人は、彼等彼女等とは友人足り得ない。

 あれ等は、どこまで行こうと奇怪な隣人でしかないのだから。






「こんにちわ。デートのお誘いに来たよ」


 晴れたり曇ったりと、変に空模様の移り変わる昼下がり。

 何とも珍しい、日中の来客に応対してみれば、あの妖狐だった。


「……何で俺の家を知ってる?」

「勿論、住所を割ったんだ。易々たるものさ」


 にこやかな態度でそう告げられるや否や、反射的に扉を閉めようと動くエーゲ。

 が、新聞屋か刑事さながらの早業で足を挟まれ、閊えてしまう。


「帰ってくれ」

「まあまあ。狐をそう邪険にするものじゃない」


 次いで妖狐は、電話帳一冊分にも満たない隙間から、するりと中に入り込んだ。

 狐十八番の化かしである変化を応用したすり抜け。

 この程度の芸当、四尾ともなればまさしく朝飯前だろう。


「…………紅茶とコーヒー、どっちがいい?」

「うん、見事な潔さと切り替えの早さだ。君の人生に於ける苦労が透けて見えるよ」

「大きなお世話だ、ほっといてくれ」


 苦虫を噛み潰したかの如き顰め面。

 どこ吹く風の妖狐を四畳半の殺風景な畳部屋へと通し、コーヒーを出す。

 ひと口啜ると、彼女は驚いた風に目を瞬かせた。


「おや美味しい。とてもインスタントとは思えないね」

「ひとつ、ちょっとした工夫を入れただけだ。誰にも教えるつもりは無いが」

「ふふふふっ、秘密の拘りってやつかい? 素敵だよ、そういうの」


 物腰柔らかな語り口。

 穏やかで、けれどもどこか好色を含んだ眼差し。

 獲物に忍び寄り、組み伏せる瞬間を見定めている、狡猾な獣の瞳。


 ふと、既視感を覚えるエーゲ。

 それもその筈。彼の姉を娶った狐もまた、似た色を覗かせたことがあったのだ。


 記憶の底より蘇る、幼少の軽いトラウマ。

 故、妖狐から向けられる視線は殊更落ち着かず、据わりが悪い。


 誤魔化すようにコーヒーを呷る。

 少しだけ、舌を火傷した。


「あの影の薄い子にも、飲ませてあげているのかな?」

「……ヒナはコーラ派だ。泥水呼ばわりして、コーヒーなんぞ飲みゃしねぇ」

「それはそれは、美味しいのに勿体無い」


 着物の袖で口元を隠し、くすくすと笑う妖狐。

 細かな所作ひとつに至るまで、気品を感じさせる瀟洒な振る舞い。


 四尾ともなれば、最低でも齢百五十は下らない筈。

 狐と言えど、相応の教養は備えているのだろう。

 少なくとも先日の席に参列していた他の化狐達とは、纏う空気が明らかに違った。


 そも、あの学生パーティも同然の集まりに、何故彼女のような高位の妖狐が居たのか。

 万緑叢中紅一点。正直なところ、場違いも甚だしい。


「狐の輿入れにはね、二尾以上の妖狐が必ず賓客に招かれる仕来たりなのさ」

「へぇ……」


 複尾特有の強い験力で、運気改善と長久のまじないを施す習わしとのこと。

 そう言えば、姉の祝言の時にも三尾が上座に居たな、とエーゲは思い出す。


「君はこの手の話に興味がありそうだね?」

「……まあ、人並みにな」

「人並み、ねぇ」


 妖狐の意味ありげな目が、部屋の片隅へと向く。

 乱雑に積まれた、延べ数十冊にも亘ろう本の山々。

 殆どが怪奇現象や都市伝説に纏わる資料、或いは呪術関連の教本だった。


「希少本も一冊や二冊じゃない。安アパートのインテリアにしては、結構な贅沢品だ」

「意外だな。狐に人間の物の価値が分かるなんざ」

「狐だからこそ、さ。人を化かすためには、人を深く知らないとね」


 そう言って妖狐が袖の中から引っ張り出したのは、数枚の木の葉と幾つかの小石。

 それは瞬く間に札束や宝石へと変わり、卓袱台の上を転がる。

 円を描くように散らばると、音も無く立ち上った狐火が灰も残さず燃やし尽くす。

 火が消えた後、使い込まれた木製の天板には、焦げ目ひとつ無かった。


 終われば何も残らないのは、狐狸の術に於ける共通点。

 霧に映りし夢の如く、が彼等彼女等の美学なのだと。


「ふふふ……さあ、デートに行こう。流行りの演劇で良い席を取ってあるんだ」

「俺、今からバイトなんだが」


「もしもし店長? 悪いけど四十度の熱が出たから休むわ、あとよろしく」


 いつの間に、と疑問を抱くより先、エーゲのスマホを手にしていた妖狐。

 声帯模写で彼の声色と言葉遣いを真似、首尾良く予定を空ける。


 実に手慣れた詐術の手際。

 ネットやニュースに出回る悪質な狐詐欺の被害も頷ける光景である。


「有給にしておくから御大事にってさ。はいこれ、狐印の偽造診断書」


 迅速過ぎる流れ。いつの間にかスマホも手元へと戻っている。

 これだから、エーゲは狐という輩が苦手だった。


「……陰陽師に電話していいか……?」

「構わないけど、私を祓えるレベルの使い手は、少なくとも東日本には一人も居ないよ」


 半ば自棄、苦し紛れの提案もあっさりと論破される。

 やはりと言うか、星座占いが十位の日に夜歩きなどするものではなかった。






 真綿で首を絞めるような舌先三寸。

 気付けばエーゲは、妖狐とのデートを取り付けさせられていた。


 そもそも、家に上げてしまった時点で相手の思惑通り。

 ツキが悪かったと諦める他に無い。


「じゃあ行こうか。時間は有限だ」

「……どうでもいいけど、アンタそのまま街を歩くつもりか?」


 昼の世界は人の領域と決め付けている人間は少なくない。

 怪奇が迷信の存在であった昭和後期から平成にかけての世を知る年代には、特に多い。


 そして、そうした者達は、陽下にて化生が往来を練り歩く姿を面白く思わない。

 まさか四尾の妖狐に要らぬ手を出す馬鹿など居まいが、悪目立ちは避けられない筈。


「ふふ、まさか。昼間にすっぴんで出歩く狐なんか居ないさ」


 くるりと妖狐が掌を回す。

 白い毛並みに覆われた手が、細くたおやかな人間のそれへと変わる。


 人化の術。

 読んで字の如く、化生が人間の姿を模るために扱う呪術。

 不慣れな場合はボロも出易いけれど、熟達すれば看破は極めて困難。


 指でも鳴らすかのように、妖狐の姿は若い女のものとなっていた。


「お望みのリクエストがあるなら、モデルでもアイドルでも好きに姿を変えられるよ?」

「贔屓は居ねぇ。あいつ等、全員同じ顔にしか見えんし」

「ふふふふっ」


 何が可笑しいのか、口元に手を添えて妖孤は笑う。

 違和感など欠片も無い、人間としか思えない、極々自然な仕草であった。






 夜の帳が落ちた後とは打って変わり、喧騒に塗れた繁華街。

 妖狐を連れ添ったエーゲは、雑踏を縫い、日差しの中を歩く。


「オウ、ソーリィ」


 上を見ながら歩いていた外人と肩がぶつかり、謝罪を受ける。

 エーゲもまた視線を持ち上げると、空を飛ぶ紙の鳥が。


「……式か。ま、外人さんには珍しいのかもな」


 何処からか、口笛が聞こえた。

 それを合図に、式は持ち主の元へと戻って行く。


「しかし、ここ十年かそこらで外からの客人もすっかり増えたものだね」


 感慨深げに頷く妖狐。

 辺りを見渡せば、ちらほらと目に付く外国人の姿。


 これもまた、幻世という新たな時代の流れ。

 今や世界に誇るオカルト大国と相成った日本。

 マニア、好事家、研究者などの来訪は後を絶たず、年々更なる増加傾向にある。

 観光地というワケでもないこの町さえ、御覧の通りだった。


「物見遊山に来たまま、行方不明になるケースもザラなのにな」


 今の御時世、日本人なら多寡の差はあれ誰もが身を護るための手段を持つ。

 けれども、霊脈の死んだ土地で育った者には、当然だが験力など備わらない。

 護符一枚さえまともに扱えぬ外人観光客達は、化生にとって格好の標的となる。


 にも拘らず、どうしてこうもこの国に足を踏み入れたがるのか。

 オカルトなど珍しくもないエーゲには、分からなかった。


「その上、最近じゃ神話の怪物まで蘇り始めてる始末だ」


 五色不動の結界が立ち消えて以来、日本各地の霊脈は強まり続ける一方。

 必然、古の時代に眠りへと就いた強大且つ危険な存在も、徐々に目覚めつつある。


 最近では、茨城の夜刀神やとのかみ

 あとは岐阜の両面宿儺りょうめんすくなあたりが、ニュースで復活を騒がれていた。


 そのどちらも祓い屋、陰陽師合わせて千人以上が駆り出された大捕物。

 再封印の様子はネットを通じて全世界に報じられ、方々で騒ぎを呼んだ。


「ホント、なんでそんな国に来たがるんだか……」

「火事場見物する野次馬と近い心境じゃないかな。要は怖いもの見たさ、さ」


 微笑む妖狐。

 対し、エーゲは気怠そうに首を掻きながら、ふと路地裏に続く細道へと視線を流す。


 陽光及ばぬ暗がり。

 ゆらゆら揺らめく何かが、今か今かと獲物を待ち構えていた。


「怖いもの見たさ、ねぇ」


 コートの内より長い針を取り出し、護符を巻き付け、簡単な破魔の針を作る。

 友人と夢中になって話す観光客とすれ違い様、背負ったリュックにそれを突き刺す。


 刹那。絡み付いた黒い蛇の霊が、悲鳴を上げて逃げ去った。


 劈きに周りの日本人達は煩そうに顔を顰めたけれど、観光客は気付きもしない。

 もしもあのまま放っていたら、生気を吸われ敢えなく病院送り。

 楽しい旅行は、台無しとなっていたことだろう。


「何にも知らねぇから、んな悠長やってられんだ」


 肩を竦め、両手の指を複雑に組む。

 狐の窓。これを通して視たものの正体を見破るまじない。


「けしやうのものか、ましやうのものか、あらはせあらはせ」


 呪文を唱えると、指の隙間に膜が張ったかの錯覚。

 雑踏を覗き込めば、人混みの中を素知らぬ顔で往く化生達。


 昨今の日本人からすれば、全く以て特別でも何でもない、日常的な光景。

 だが験力を持たず、正しい対処法も知らぬ者にとっては、まさしく魔境。

 迂闊に藪など突こうものなら、毒蛇が出るのは分かり切った話。


「咬まれりゃ痛いじゃ済まねぇってのに」


 呪いのひとつでも食らわなきゃあ、そんなことにも気付けないのかね、と。

 そう呟くエーゲの瞳は、どこか、自嘲と自虐の色を帯びているようであった。






「んんっ……いやいや、評判通りに中々愉快な芝居だったね」


 劇場前で伸びをしながら、喜色の乗った声音で妖狐が言う。


「人間が娯楽に注ぐ熱意は見事だ。こればかりは狐にも真似出来ない」

「ま、根本的な価値観の違いだな」


 地球上で述べ百万種以上にも及ぶと言われる膨大な動物達。

 しかし、その中でも人間ほど無駄を好む種は、他に存在しないだろう。


 音楽、芸術、学問、美食。

 先人達が何千年もの長きに亘って積み重ねてきた、様々な『文化』。

 結局のところ、これ等は種を存続する上で何の役にも立たぬ産物でしかない。

 謂わば、不必要な贅肉。


 けれども、ただ生きるためだけに費やされる命に如何程の面白味があろう。

 何より、そんな在り方こそが人という一種族に豊かな多様性を培わせた。


 実に素晴らしい。

 そう嘯く妖狐の口舌には、心よりの礼賛が籠められていた。


「ふふっ。うん、折角のデートだ。この際、人間文化を存分に楽しもう」

「ああ、好きなだけ堪能すると良い。じゃあ、俺はこの辺で」


 別れの挨拶代わりに軽く指を立て、素早く踵を返したエーゲ。

 が、一歩を踏み出すよりも早く、全身が石のように固まり、動けなくなった。


「寂しいことを言わないでおくれ。まだ日も高いし、急ぐような時間じゃないよ」


 影を踏み付け身体の自由を奪う術、影縫い。

 本来、余程に高位の陰陽師でもなければ扱えぬ高等呪術。

 それを容易く繰り出すあたり、やはり四尾の妖狐。

 根本的な験力が、人間を遥かに凌駕している。


「小腹も空いたし、まずは軽く何か食べよう」

「誰でもいいから助けてくれ……」






「……回らない寿司屋とか、初めて来るわ俺」

「まあ、最近じゃあ回転寿司の方が多いくらいだからね」


 暖簾を潜り、物珍しげに店内を見渡すエーゲ。

 逃げられないと分かった以上、無駄な抵抗は却って妖狐を悦ばせるだけと悟った様子。


「さあ、好きなものを頼んで。誘ったのは私なんだ、支払いも私が持つよ」

「色々と複雑な気分だが……まさか、木の葉で払う気じゃねぇだろうな?」

「ふふふふっ。大丈夫、貴方に累が及ぶような真似はしないさ」


 今ひとつ信用ならないが、そもそもエーゲには妖狐の化かしを見破る術が無い。

 先も用いた狐の窓や眉唾などの呪術破りは、格上相手に通用しないのだ。


 昨今、殆どの店舗では犯罪対策に術を禁ずる結界が張られている。

 が、人化の術が揺らぎもせず保たれている現状、効果の程は推して知るべしだろう。


「板前さん、取り敢えず稲荷寿司をお願いするよ」

「回らない寿司屋で真っ先に頼むなよ、稲荷寿司」


 斯く言うエーゲであったが、彼もまともな寿司屋のマナーなどとは縁遠い身。

 暫し悩んだ挙句、注文したのは玉子焼きだった。






「美味しかったねぇ、お寿司」

「アンタ、ほぼ稲荷寿司しか食ってなかったけどな……」


 最後の方など、職人も微妙に顔が引き攣っていた。

 同じ物ばかり立て続けに二十貫以上も注文されたのだ。無理からぬことである。


「あ、そうそう。貴方は知ってたかい? 寿司職人と板前って、実は全然別種なんだよ」

「マジでか。てっきり寿司イコール板前だと……ん?」


 唐突に披露された豆知識。

 感心するエーゲだが、ふと小首を傾げた。


「でもアンタ、店じゃ職人を板前って呼んでなかったか?」

「わざと、そう呼んでいたのさ。特に意味なんて無いけどね」

「あぁ……狐ってそういうとこあるよな……」


 折り曲げた指を口元に添え、くつくつと笑う妖狐。

 理由の欠如した虚言は、狐にとって挨拶も同然。

 エーゲにはおよそ理解し難いが、元より異なる種として生を受けた存在。

 人間の常識に当て嵌めて考える方が、愚かしいというもの。


「さぁ、お腹も膨れたし。次は何処へ行こう」

「……まさか、一日中俺を連れ回すつもりか?」

「ふふふふふっ」


 妖孤は問いに答えず、益々笑みを深めるばかり。

 いっそ式紙、鴉を嗾けてやろうかとポケットを探るエーゲ。

 すると、そこに仕舞った筈の財布が無いことに気付く。


「お探し物はこれかな?」


 つい一拍を置くまで何も持っていなかった筈の徒手。

 にも拘らず、何時の間にか長財布を弄んでいた妖弧に、エーゲは言葉も出なかった。


「式なんか持ち歩いて、怖い怖い。か弱い狐を虐める気だったのかい?」

「アンタの何をどうすれば、か弱いことになるんだよ……」


 始終ペースを握られたままの体たらく。

 まるで敵う気がしないと、エーゲは深く溜息を吐く。


 そして、そんな彼の手を取る妖弧。

 財布は最初からそうであったかのように、ポケットへと戻っていた。


「難しいことなんか捨てて、今はただ楽しもうよ。ね?」

「…………もう、好きにしてくれ……」


 最早、強引に打ち切って帰る気力も失いつつあった。

 とことん、狐という生き物とは相性が悪いらしい。






「人間の服飾に対する関心は、殆ど執念染みていると思わないかな?」


 壁一面を覆う衣服の列。

 駅前のアパレルショップを訪れて早々、感慨深げに頷きながら妖狐が問う。


「上着ひとつ取っても千差万別。たかが履物ですら、呼び方だけで幾つあるのやら」


 ショートブーツとパンプスを左右の手にそれぞれ取り、見比べる。

 ブーツの方を気に入ったのか、いつとはなし、彼女の靴が同じものへと変わっていた。


「化粧の類に至っては、もう私達の変化に近い代物だ」

「概ね同感だよ。男児三日会わざればなんて言うが、女は三時間もありゃ十分だろ」


 着飾るマネキン、目立つ位置に掛けられた新作、色取り取りの装飾品。

 そのひとつひとつを過ぎる度、次々と移り変わって行く妖狐の装い。


 そして着替える都度、エーゲを振り返っては、雑誌モデルを思わせるポージング。

 さながら、即席のファッションショー。


 だが、そんな無邪気さの一方、眼差しの奥には何かを探るかの如き鈍い光。

 声も無く見定められているようで、落ち着かなかった。


「ふむふむふむ、ふむ。成程成程」


 時折、にやにやと悪戯っぽく頷きつつ、気付けば店内を一巡り。

 立ち止まった妖狐の衣裳は、流行り物を上手く纏めたスタイルに落ち着いていた。


「大体こんな感じかな。貴方の目から見て、これは如何?」

「……悪くはねぇよ」


 やや言葉に詰まった後、当たり障り無く答えるエーゲ。

 すると妖狐は、両手で口元を覆い、さも愉快げに目尻を落とした。


「そうだろうそうだろう。だって貴方の好みに合わせたんだもの」


 喜悦を噛み殺した語り口に、エーゲは先の彼女の視線の意味を理解する。

 衣服の移りに伴う、微細な反応の変化を見ていたのだ、と。


 実際、妖狐の出で立ちはエーゲの嗜好を確と捉えていた。

 油断も隙も無いとは、まさしくこのこと。


「狐の化かしは、ただ騙すだけじゃあないんだよ?」


 例えば妲己。例えば玉藻前。

 歴史上に名を残す大妖狐達は挙って魅惑の手管に長け、果てには傾国とまで称された。


 即ち、謀や詐術など狐にとっては序の口。

 骨の髄まで絡め取る誑かしこそが、本領なのだ。


「ふふふふっ。お陰で、貴方のことがまたひとつ分かった」


 妖しく微笑み、鏡の前へと立つ妖狐。

 華美ではあれども嫌味な派手さの無い彩り、変化で形作った容姿に良く映える意匠。


「あんな黒尽くめの子と一緒に居るから、そっち系は壊滅的かと思ったけど」


 中々どうして、センスは悪くない。


「……ヒナが黒一色なのは……まあ、アンタにゃどうでもいいことか」

「そうだね。今、私の興味が向いているのは貴方だけさ」

「頼むから別の奴に向けてくれ」

「つれない態度も素敵だよ」


 狐の名残など欠片も残さない手で、優しく頬を撫ぜられるエーゲ。

 いっそ従順に振る舞った方が、早々に飽きてくれるのやも知れない。


「…………俺のために着飾ってくれたのは嬉しいよ、あぁ」

「おや、急に素直になって。益々素敵だよ」


 一体どうすればいいのだろうか。

 この分では、何を言っても好感度が上がりかねなかった。


「ふふっ。私の言葉に一喜一憂する貴方……今すぐ攫ってしまいたい」

「真面目に勘弁してくれ」


 日本各地で年間数千件以上にも及ぶ失踪事件。

 俗に神隠しと呼ばれるそれ等の原因は、一割近くが狐の仕業と見做されている。

 その一件として数えられるなど、エーゲは御免だった。


「もう諦めた、デートは最後まで付き合う。だから、家には帰してくれ」

「あ、駄目駄目。懇願なんてされたら、猟欲と言うか、嗜虐心が疼くじゃないか」


 すっと目を細め、静かな佇まいで冷笑する妖狐。

 邪智深い肉食動物相手の対応を誤ったらしい。


 反射的に退くエーゲ。

 右手の数珠が激しく震え、幾つもの亀裂音が立て続けに奔る。


「――なんて、ね。そう身構えないで欲しいな」


 貴方に嫌われたら悲しいから、そうなるようなことはしないよ。


 肩を竦めた妖狐の笑みが、そんな言葉と共に柔らかなものへと戻る。

 けれども、一瞬で使い物とならなくなった数珠。

 今にも砕けそうな有様から鑑みるに、結構な水際だったと考えるべき。


「貴方に冷や汗をかかせてしまった。どうか御詫びの機会を与えてはくれまいか」

「要らねぇ」

「ふ、ふふっ……袖にされるのも中々……けど、謝罪はちゃんと受けて貰うよ」


 何れにせよ、相手は狐。

 人間の基準に於ける尺度や誠意、礼節などは通用しない相手。

 その上、祓い屋が束になっても敵わぬ四尾の妖狐。

 やろうと思えばエーゲ一人程度、攫うも殺すも気の向くまま。


 全く以て、面倒な手合いに憑かれてしまったものである。


「店員さん。あの殿方に合う服を十着ほど包んで貰えるかな。彼氏へのプレゼントでね」

「おい。誰が彼氏だ、誰が」






 彼方と思えば、此方。

 此方と思えば、彼方。


 ビル風に弄ばれる木の葉も同然、連れ回されること早半日。

 黄昏時、漸く足を落ち着かせた妖弧と共に、エーゲはアーケード街を歩いていた。


「あぁ、楽しかった」

「馬鹿みたいに疲れた……」


 異口より奏でられる対照的な感慨。

 この半日間に於けるエーゲの苦労を振り返れば、順当な意見だろう。

 そもそも、人と化生の意見が揃うなど、往々にして稀である。


 ――日が沈むに連れ、足元が暗がりへと落ちて行く。 

 等間隔に建つ鳥居の何本目かを抜けた頃合、妖弧は指先へと狐火を灯した。


「御覧よ」


 ふと、短く呟き、静かに燃え盛る指で辺りを示す妖弧。


 つい先頃、ほんの一時間ばかり前まで、多くの人々が往来していた筈の商店街。

 けれども今や人気は殆ど失せ、立ち並ぶショップも次々とシャッターが降り始める。


 瞬く間、蛍火のように頼り無い街灯だけが残る。

 薄闇から溶け出した、燐光纏う告死蝶。

 消えた群衆と入れ替わり、人ではない何かが、ぽつぽつと姿を現す。


 まさしく逢魔ヶ時。

 昼と夜の境。世を形作る理が反転する瞬間であった。


「私も、そろそろ化けの皮を剥ごうかな」


 言うが早いか、妖弧はその場より跡形無く掻き消える。

 次いで、エーゲの左肩に軽く手が添えられた。


 一秒さえも跨がぬ寸前まで、彼の右側に陣取っていた筈の妖弧。

 人から狐へと戻るだけに留まらず、立ち位置まで移すあたり、洒落を利かせたのか。

 或いは単にエーゲの意表を突いて驚かせたかっただけ、とも取れる。


「貴方が望むなら、今暫く人を装っても構わないけど」

「どっちだっていい」

「そうかい? じゃあ間を取ろう」


 ぞんざいな返答も何のその、寧ろ嬉々と揚げ足を掬う。

 再び掻き消え、此度はエーゲの正面に立った妖弧は、言葉通りの姿となっていた。


 形は人、耳は狐。

 後ろ腰より生やされ、好き勝手うねる四本の白尾。

 ひらひらと舞う告死蝶が一羽、その一本に止まった。


「ふふふふふっ……往こうか?」


 長く鋭い爪の生え揃った手が差し出される。

 当然受け取らず、ポケットに両手を突っ込んだまま、歩を進める。


 日暮れ間際のアーケード街は、昼間と打って変わって物寂しい。

 エーゲは手持ち無沙汰に早九字を切り、経文を口遊む。

 対する妖狐は堪えた様子も無く、どころか一緒になって唱え始める始末だった。


「なーむなむ、それなーむなむ」

「……効かないのは分かり切ってるが、少しは鬱陶しそうな素振りも見せろよ妖怪」

「ふふふっ、御免御免。けどほら、私ってキリスト教徒だし」

「きりすときょうと」


 余程に意外であったのか、舌足らずに鸚鵡返すエーゲ。

 目を瞬かせる彼の反応が可笑しく、妖狐は口元を覆ってくすくすと笑う。


「冗談、ほんの冗談さ。だけどハロウィンやクリスマスは好きだよ、綺麗だからね」

「ハロウィンはキリスト教の祭りじゃねぇよ」


 諸説あるが、通俗にはケルトのサウィン祭が起源と考えられている。

 故、どちらかと言えばキリスト教に於いてはタブー扱いされる側のイベント。

 教派によって対応はまちまちだが、少なくとも奨励する教会など聞いたことが無い。


「つっても、そっち方面はあんま詳しくないけどな」


 日本の霊脈より力を受けた化生達に、諸外国で伝わる魔除けは殆ど無意味。

 当然と言えば当然だろう。汲んでいる流れが根本的に違うのだから。

 ならばこそ、エーゲも其方まで手を広げる必要は薄いと、深く通じてはいなかった。


「十字架を怖れる天狗だの河童だの、笑い話にもならん」

「え、割と居るよ?」


 きょとんと告げられた台詞。

 驚愕を露わにエーゲが妖狐を見遣ると――彼女は、ちろりと舌を覗かせた。


「くふっ。なんてね、ウソウソ。居るワケ無いじゃないか、そんなの」


 少し考えれば、馬鹿馬鹿しいと一蹴するであろう虚言。

 けれど、さも真しやかに言うものだから、思わず信じかけてしまった。


「…………そういうとこだぞ、狐……」

「あぁ、謝るから怒らないでおくれ。ほら、鞠をあげよう」


 エーゲの機嫌を取ろうと妖狐が差し出したのは、綺麗な模様の小さな手鞠。

 何処に持っていた、などとは考えるだけ無駄だろう。


 と言うか、別に欲しくもなかった。

 幼子じゃあるまいし。


「てんてん手鞠、てん手鞠……見ての通り、よく弾むよ?」

「弾まなきゃ鞠とは呼べねぇだろ。つーか要らん」

「ふふふ。そんな冷たいこと言わないで、ね?」

 

 何故か執拗に押し付けられ、結局は受け取らされた。


 まあ、四尾の妖狐の持ち物ともなれば、恐らくは相応の価値ある品。

 見たところ、そこらの陰陽師よりも強い験力が篭っていた。


「……はぁ」


 軽く溜息を吐きながら、手の中で鞠を転がすエーゲ。

 そうして、ヒナがこんなの好きそうだな、と。なんとはなしに思った。






「てかアンタ、一体俺を何処に連れてく気だ? 家に帰せよ」

「あ、バレてた? 残念残念、あと半分だったのに」


 このアーケード街には十七本しか無い筈の鳥居。

 にも拘らず、既に五十近くそれを潜っていたエーゲ達。


 九十九鳥居の迷い路。

 落とし込んだ者を決して帰れぬ場所へと連れ去る、狐狸お得意の化かし。


 本当に、油断も隙もあったものではなかった。





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