上弦之月






 俺は、雨が嫌いだ。


 鼻を突く黴臭さに気分が悪くなる。

 服が濡れれば鬱陶しいし、水浸しの靴で歩くのも御免だ。

 洗濯物も乾かない。食い物だって傷み易くなる。

 良いことなんてひとつも無い。


 故、分からない。


 雨の日、ともすれば嵐の日。

 俺からすれば億劫この上ない、寝ても起きても気分最悪な一日。


 そういう日に限って外出したがる輩の心理が、何ひとつ理解出来ない。






『映画が観たい!』


 夕食後。エーゲが歯を磨いていた最中、不躾に鳴り響いた着信音。

 嫌な予感と共に電話を取ってみれば、案の定だった。


「……藪から棒に、なんなんだ」

『急に映画が観たくなったんだよエーゲ! ビデオ屋さん行こう!』


 ヒナと言いつつ、此奴の前世は猫か何かじゃなかろうか。

 そんな下らないことを考えてしまう脈絡の無さ、気紛れさ。

 毎度の如く付き合わされる側の立場も、少しは鑑みるべきだろう。


 まあ、もし彼女が殊勝な態度など見せたら、エーゲは迷わず神社か病院に放り込む。

 間違い無く病気、或いは憑き物が原因ゆえ。


『あ、映画観るならおやつも買わなきゃ! コンビニ!』

「既に行く前提で話を進めるんじゃねぇ」


 時計を見れば亥の初刻。行けなくはない時間帯。

 けれども、適う限り、今宵は家を出るべきではない。


 何せ、は天気が悪かったのだから。


「お前な……外見たか? こんな日に出掛けるって、馬鹿か?」

『こんな日だからだよぅ!』


 窘めもどこ吹く風、堪え切れぬ喜悦を露わとした語り口。

 どうやら、承知の上での提案らしい。


 ヒナという女は、まさしく以て台風の只中に表を歩きたがる人種である。

 悪天候で気分が高揚する手合い。

 エーゲには甚だ理解し難い奇癖だった。


「よっぽど危ない目を見たいんだな、お前」

『平気平気! ボク、今日のおはステの星座占い、五位だったし!』


 安倍晴明の子孫にして六十代目こと『せーめーちゃん』が担当する占いコーナー。

 その血筋の真偽は兎も角、彼女の占いは良く当たることで有名。

 キャラクターは相当なゆるふわ系だが。


 しかしながら、五位とはまた微妙な順位。

 にも拘らず、何故こうも自信に満ち溢れているのか、エーゲは不思議でならなかった。


『ラッキーカラーは白と黒、ラッキーアイテムは眼鏡と風鈴! んー、ボクの時代だぜ』

「そいつはまた、ピンポイントに来たな……」


 目頭を押さえつつ、自信の根拠を理解するエーゲ。

 混じり気の無い白髪、ほぼ黒一色の装い、縁無し眼鏡、緩い三つ編みに結わえた風鈴。

 成程、標準装備で全てを満たしていれば居丈高にもなろう。


 とは言え、それとこれとは話が別。

 何よりエーゲ本人は、今朝の星座占いで十位だった。


「明日なら付き合ってやるよ」

『えぇー!? ヤーダー! 今日行くのー! 今行くのー!』


 電話口の向こうから響く喚き声と物音。

 どうやら、相当に駄々を捏ねている様子。


『ナウアゴー! ヒアウィゴー!』

「意味分かんねぇ」


 英語力の欠片も窺えない、センス皆無なスピーキング。

 これでよく受験合格、延いては卒業まで持って行けたものだとエーゲは逆に尊敬する。

 ……裏口入学、及び単位を金で買った可能性も否めないが。


『わー! ぎゃー! なー! にゃー!』


 夜中に騒ぎ立てるという、近所迷惑も甚だしい行為。

 長い付き合いから、エーゲは己がイエスと頷くまでこれが続くことを知っている。


 尚、通話を切っても意味は無い。

 かのメリーさんがドン引きするレベルで、何百回だろうとかけ直して来る。

 まさに醤油の染みすら凌駕する、七代祟られかねない稀代のしつこさ。

 やはり彼女、猫か何かの生まれ変わりだろう。


『呪ってやるー! 祟ってやるー! うらめしやー! どんぶらこー!』

「最後のなんだ」


 どうしたものかとエーゲは思案する。

 明日は朝からバイト。一睡も出来ず夜明かしは辛い。

 いっそ付き合った方が、後腐れなく済む。


 結局のところ、いつもこうだった。

 最後は彼が折れると分かっているから、ヒナも引こうとしない。

 幼い砌は割と大人しい性分であったにも拘らず、とんだ我儘に育ってしまった。

 恐らく、半分以上はエーゲの所為だが。


「分かった分かった……俺の負けだ」

『わーい、勝ったー!』


 了承するや否や、紙を裏返すように反転する態度。

 やはりと言うべきか、癇癪は半ば演技。

 悪女だった。


『じゃあいつもの四辻で集合ね! 十分後に待ち合わせ!』


 適当に返しつつ、通話を切る。

 尚、十分後と謳いながら、実際に来るのは二十分後あたりだろう。


 分かってるならエーゲも少し遅れて行けばいいものを、つい時間通りに動いてしまう。

 彼は己をいい加減な方だと評してるが、案外几帳面なのかも知れない。


 …………。

 しかし、考えるだけでも憂鬱だった。

 よりにもよって、こんな日に外を歩かねばならないなど。


「うっげ、割と近くに居るじゃねぇか……」


 カーテンを開けた窓の向こう。

 数本挟んだ道の先を往く、賑やかな提灯の列。

 街灯よりもずっと小さな灯りの筈だと言うのに、奇妙なほど明るかった。


 琴、或いは三味線の奏でる陽気な旋律。

 音色に乗って届く楽しげな雰囲気は、しかし余計にエーゲの気分を落ち込ませる。


 昨昼、雲も無いのに雨が降った。

 そして天気雨の翌晩には、その土地で、とある祝い事が催される。


 怪火行列。或いは狐日和。

 もっと耳馴染みのある言葉を使うのならば、そう。


 ――狐の嫁入り。






 エーゲが電話を受けてより、きっかり十分。

 当たり前のように、ヒナは姿を現さなかった。


「おんきりきり、おんきりきり……」


 手持ち無沙汰な待ち時間。

 暇潰しも兼ね、四辻に結界を張り巡らせる。


 まあ、結界などと大仰に言っても、その場限りのごく簡単な魔除け。

 小学校で習うような、文字通り子供でも出来るものだが。


「あびらうんけん、そわか……ん?」


 丁度張り終えた頃合、背後から視線と気配。

 一瞬ヒナが来たのかと思うも、彼女はまさしく人間スピーカー。

 三十間離れていようと、存在を気取ることは至極容易い。

 近所迷惑も甚だしい話である。


「あれ、アンタ」


 いつか保護者責任を問われやしまいか。

 そう戦々恐々としつつ、振り返るエーゲ。

 するとそこには、三日月の夜に見た、白いワンピースの女が居た。


 八尺様。

 エーゲはたまたま知らなかったが、都市伝説の中ではかなり有名な部類に入る化生。

 少しネットを探るだけでも次から次に情報が湧いて出る程度には、その知名度は高い。

 恐らく、メリーさんにも劣らないだろう。


 尚、色々物騒な噂の付いて回る化生なれど、実際に悪事を働いた記録は無い。

 恐らくはその名の由来でもある、八尺の背丈という異様な形貌が原因。

 口裂け女などと同様、外的要因の所為で変に悪評を集めてしまった一例。

 実際、眼前の彼女にエーゲを害そうとする意思など、まるで窺えなかった。


 ――しかし、近くで見ると、幻想めいて美しい。

 女怪が見目麗しいのは殆ど定番だが、その中でも頭ひとつ抜けた美貌。

 人間離れした長躯にも拘らず、顔のサイズなどエーゲと殆ど変わらない。


 暫し観察に努めていると、八尺様は小首を傾げ、にたりと彼に笑いかけた。

 美貌に反して些か気味の悪い、見る者の恐怖心を煽る表情。

 これでは悪霊の類と誤解もされよう。


「なーにじろじろ見とんじゃワレぇ。変質者や言うておまわり呼ぶぞゴラぁ」

「ガラ悪っ。しかも意外と声が野太い」


 などと、そんな筈も無い。

 度を越して長躯な八尺様に気を取られ、上ばかり見ていたが、足元にも気配がひとつ。


 お世辞にも整っているとは言えない中年男性の頭を据え付けた柴犬。

 所謂人面犬が、八尺様の足元で行儀良く座っていた。


「ま、今夜はおまわりも家に引っ込んどるやろけどな! がはははは!」

「……人面犬って輩は初めて見るが……こっちは噂に違わず、だな」


 品性の欠片も感じられない様相で笑う人面犬。

 八尺様と居並ぶことで対比となり、益々以て醜悪な印象が強調される。

 まさしく美女と野獣。


「ところで、何か用か? 待ち合わせしてる馬鹿が来るまでなら暇だが」

「あぁん!? 言うに事欠いてそれかい! 舐め腐んのも大概にせぇよ青二才がっ!」


 何故、初対面の相手にこうも罵倒されなければならないのか。

 エーゲは不思議で仕方なかった。


「ワシ等はのぉ! 見物に行くついで、ゴキゲンな散歩をしとったんじゃ!」

「おう……見物?」

「それをおのれが結界なんぞで道塞ぎおってからに! ションベン引っ掛けたろか!?」


 漸くエーゲは得心する。

 成程、彼女等の通り道に陣を張ってしまったらしい。


 しかし、だとしてもそれはそれで妙な話。

 エーゲの張った結界は、あくまで簡単な魔除け。木っ端程度にしか効かぬ代物。

 人語を解するレベルの化生に害為すなど、逆立ちしようと不可能。

 障子紙も同然に破ってしまえる筈。


「ったり前じゃボケ! 青二才如きの験力、屁にもならんわ!」

「要領を得ねぇなぁ……なんなんだよマジで」

「御主人がなぁ! 力任せにぬけたら、おんどれが怪我するかも知れんて言うんや!」


 そういうことか、とエーゲの疑問は今度こそ氷解する。

 確かに結界等の呪術は、制御を失えば術者が傷付くケースも多い。

 憎い相手を呪うも跳ね返されて病院送り、なんて話はニュースでも絶えない。


 が、あれは殆ど強力な術に限られた現象。

 民間に広まっている程度の小技では、どう転ぼうと鼻血も出ない。


 しかし、気遣いの心は素直に受け取るべきだろう。

 エーゲはひとつ頭を下げると刀印を組み、結界の内と外とを隔てる境目を裂いた。


「悪かったな。どうぞ、通ってくれ」

「ぺっ! 手間かけさせよってからに!」


 すれ違い様に唾を吐き、置き土産とばかり、後ろ足で砂までかけて行く人面犬。

 その行為は、表情こそ変わらなかったが、エーゲの中に確かな怒りを植え付けた。

 今宵以降、彼は人面犬という化生に対し、本能的な嫌悪感を抱くこととなる。

 然もありなん。


「ほな行こーや御主人。狐の嫁入り見物とか久し振りやわー」


 そんな愛想皆無の人面犬とは裏腹、礼儀正しく会釈しながら結界を抜ける八尺様。

 清楚清廉な女性。エーゲの個人的嗜好に照らしても、実に悪くない。

 いっそ、ヒナに爪の垢でも煎じて飲ませてやりたかった。


 …………。

 しかしながら、八尺様と人面犬の主従というのは、中々に珍しい。

 彼女達の去り際、エーゲは写真を撮らせて貰い、ネットへと上げてみた。


「おーい、エーゲー! おーまーたーせー!」


 八尺様達が路地へと消えて数分。

 瞬く間にリツイートが千を回った頃合い、やっとヒナが現れる。

 ぴったり十五分の遅刻であった。






「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」


 六甲秘呪。

 九字護身法を執り行う際に唱える、九つの呪文。


 重ねて、初手に独股印。

 続き大金剛輪印、外獅子印、内獅子印、外縛印、内縛印、智拳印、日輪印、宝瓶印。

 詠唱と合わせ、呪文それぞれに適応した印を組んで行く。


 切紙九字護身法本来の、正しい流れ。

 とは言え、平時であればエーゲがここまでの手順を逐一踏むことは無い。


 彼は基本的に四縦五横の縦横法、即ち簡易版であるところの早九字を使う。

 謂わば、折り畳み傘のようなもの。

 普通の傘より小さくて軽い分、防げる雨の量こそ落ちるが、扱い易い。


 しかし、今夜は狐の嫁入り。化生の宴。

 参列する狐達に見付かるなど、可能な限り避けたい失態。


 故、念入りな護身を施すべく、九字作法を忠実になぞる。

 そうすることで、簡易版の数倍以上にまで効力は跳ね上がる。

 一般へと出回る民間呪術に限れば、これを上回る護りは数える程度にしか存在しない。


「さっと行って、さっと選んで、さっと帰るぞ。出力上げると疲れるからな」

「ええぇ……はーいはい、分っかりましたよー」


 不満を隠しもしない生返事。

 本当ならば、こういう手合いにはやはり一度、厳しく言い聞かせるべきなのだろう。


 まあ、現状それが出来る唯一の相手であるエーゲは、結局のところヒナに甘い。

 何より別段、彼女に振り回されることを心底では苦と思っていない。

 悪循環だった。


「いいかヒナ。万一、万が一に嫁入り行列と出くわしたら、頼むから何もするなよ」

「りょーかいりょーかい、お任せあれって」


 ここまで人の不安を煽る肯定も、中々珍しい。

 そもそもヒナという女は、ことトラブルを招く方面に関しては一級品。

 本人には一切悪気が無いと来たものだから、尚更タチが悪かった。


「不安だ……」

「ボクを信じなさい! ほら御覧よ、この曇り無き瞳を!」

「益々不安だ……」


 眼鏡越しに覗く金の瞳は、確かに美しく澄み切っている。

 が、これはどちらかと言うと何も考えていないだけ。

 無我の境地を自然体で体現しているのは驚嘆に値するが、要は単なる頭足らず。

 インテリ系な見目とのギャップが、酷く物悲しい。


「あと、でかい声も禁止な。狐は耳が良いし、何より近所迷惑だ」

「おっけー!」

「…………」


 無根拠な自信に満ち溢れた、大声での返答。

 エーゲからしてみれば半ば想定の範囲内だったが、流石は人間スピーカー。

 案の定、期待を全く裏切らない。


 勿論、皮肉である。






 スピーカーを静かにさせる場合、最も効果的な方法とは何か。

 答えは簡単。そもそもの元を抑えてしまえば良い。


「むぐー、むぐむぐー」


 ヒナの口に呪符を貼り、一時的に喋れぬようエーゲの手で封印。

 護符と違って日常生活に必要な代物ではないが、一枚だけ財布に忍ばせていたのだ。

 備えあれば憂いなし。


「むぐ、むぐぐ」

「窮屈? 我慢しろ、お前って奴は三十秒と静かにしてらんねぇんだからな」

「むーむむ、むぐむー」

「何でここまでするかだと? 当たり前だろ、俺は狐と面を合わせたくないんだよ」


 猫、蛇、狸、そして狐。

 これ等は動物の中でも取り分け験力が強く、厄介な生物だ。


 狸はまだいい。

 大抵が暢気な気質の輩なため、滅多なことでは怒らない。

 仕出かす化かしも、大半が他愛無い悪戯。

 力の強さに反し、意外なほど危険は少ない。


 猫や蛇も執念深さこそ底無しだが、多くは単独で行動する。

 また、人とは価値観を大きく異にする分、却って折り合いも付け易い。


 しかしながら、狐は違う。

 狡賢く悪知恵が利き、その上で徒党を組む。

 何より、彼等の社会体系は人のそれと程近い。

 故、時として人間の領域へと巧妙に踏み込んで来る。

 親切な隣人が実は狐だった、狐に騙されて借金を、なんて事例もまま起こり得る。


 憑き物に於いても、厄介な手合いは大抵が狐絡み。

 おとら狐やヤコオ憑きなど、種類の面でも多岐に及ぶ。


「必ずしも狐が悪党とまでは言わねぇけどな……嫁入り行列、アレは駄目だ」


 先の八尺様と人面犬がそうであったように、あの行事は雑多な化生が見物に集まる。

 中には当然、人間に害を及ぼすものも少なからず混じっている。


 加えて、殊更に厄介な点がもうひとつ。

 あの輿入れに参列する狐は、殆どが……


「……まあ、遠目で見る分には華やかで良いんだが」


 溜息を零し、頭を掻くエーゲ。

 狐という生き物に個人的な苦手意識がある所為か、些か過敏になってしまうらしい。


 そんな彼の言い分は、半分正しく、半分誤りである。

 確かに狐は危険な生き物なれど、あくまでそれは一面。

 彼等とて、無闇矢鱈に人を害し貶めるような真似はしない。


 何より、要は出くわさなければいいだけの話。

 エーゲが自分でも言った通り、手早く用を済ませ、帰ってしまえばいいのだから。






 順調だった。

 エーゲとヒナの道行は、滞り無く順調であった。


 レンタルショップ『ちゅたや』。

 幻世元年以降、コンビニ以外ではすっかりと少なくなった夜間営業店。

 小さな店ではあるが、二人は何かと重宝していた。


 滞在時間は十分足らず。

 往々、長っ尻なヒナには珍しい。

 借りたい物に最初から目星を付けていたのか。

 或いは――結界の出力を上げたことで、普段より消耗の激しいエーゲを気遣ったのか。


 尚、どうでも良い話だが、ヒナが借りた作品のタイトルは『キョンシーVSハブⅣ』。

 逆立ちしても地雷臭しか感じられない、駄作以前の時間泥棒。

 後日、これを観せられる羽目となったエーゲは、憔悴と共にこう供述する。


 馬鹿じゃねぇの、と。


 閑話休題。

 兎にも角にも、予ての通り、二人は手早く店を後にした。


 順調だった。

 ここまでに於いては、全く以て順調だった。


 問題が起きたのは、その後。

 ヒナが、ジュースを飲みたいとゴネ始めたのだ。


 ごく当たり前の話として、口に呪符を貼られたままでは何も飲めない。

 もう家まで数分とかからないのだから我慢しろと説くも、聞く耳持たず。

 終いには、ブレイクダンスで駄々を捏ねる始末。


 ここまで来ると、最早エーゲの手には負えなかった。

 彼の手に負えないということは、即ち誰の手にも負えないということである。


 泣く子と地頭と馬鹿には勝てない。

 結局、不安と懸念は絶えねどヒナの封印を解いたエーゲ。

 頼むから何も喋るなと十七回に亘って念を押し、自販機で買ったコーラを手渡した。


 余程に喉が渇いていたのか、間髪容れず、それを一気に呷るヒナ。

 強炭酸を物ともせず飲み乾して行く、一種仰天すら覚える光景。


 瞬く間、空となった缶。

 それを背後のゴミ箱へと放り込み、黒い雫が散った眼鏡を拭く。

 そして。


「――――ふっはぁぁぁぁ! コーラ超うまーいっ!」


 強制的な沈黙の反動。

 元より三十秒と口を閉じていられない気質も合わさって、常の六割増しでの凱歌咆哮。

 人間スピーカーすら通り越して、殆ど音響兵器に等しかった。


 返す刀でエーゲが呪符を再び貼り直すも、既に後の祭り。

 自身もコーヒーを傾けていた所為で、致命的に遅れた対応。

 血の気が引く音を、耳の奥で彼は確かに聴いた。


 刹那の油断、緩みが生んだアクシデント。

 しかしながら、此処まではまだ取り返しがつけられた。


 或いは二人のどちらかが朝の星座占いで上位だったなら、避けられたやも知れぬ事態。

 偶然によって招き寄せられた不運と、出会いさえしなければ。



「やぁ。全く、良い月夜だね」



 恐らくエーゲ達と同様、飲み物でも買いに来たのだろう。

 それは、和装に身を包んだ出で立ちの、四本の尾を生やした妖狐だった。






 日取りの前日、式場と定めた町に天気雨を降らす。

 夜半、百と八匹の狐達で行列を組み、町をぐるりとひと回り。

 月が天頂へと昇る頃合、山の中腹か湖の畔で宴を開き、夜通し飲み明かす。


 これが、狐の嫁入りが催される際の大まかな運び。

 エーゲとヒナの住む町は山裾に位置するため、場所に関しては前者となる。


「招かれちまった……」


 春に非ず咲き狂う桜の坩堝。

 飲めや食らえや歌えや踊れや、今宵は目出度き無礼講。


「あぁぁ……」


 そんな大騒ぎの只中、消沈し果てた様子で溜息を吐くエーゲ。

 さながら、坂道を転げ落ちる小石のような心地であった。


「あっはっはっはー! もー、エーゲってば暗いぞー!」


 一方、此方は打って変わって上機嫌に笑うヒナ。

 真っ白な肌を仄かに上気させ、大盃を満たす清酒をぐいと傾ける。

 相当強い酒にも拘らず、彼女は勢い良く飲み乾してしまう。

 周りの狐達が、その飲みっぷりに快哉を上げた。


「ひゅー! ヒナちゃんイッキー!」

「んじゃま、次は俺ちゃん行っちゃいまーす!」


 波紋するイッキコール。

 そして、そうやって他が盛り上がる都度、エーゲは寧ろ冷めて行く。


 そもそもエーゲは酒が飲めない。

 一滴も舐めてすらいない今でさえ、漂う酒気に当てられてしまいそうなほど。

 下戸にとって宴席など、ただ煩わしいだけだった。


 何より、彼は知っている。

 この狐の嫁入りという祝いの裏に隠された、もうひとつの顔を。

 故にこそ、とても楽しめたものではなかった。


「ね、ね、いいじゃんおねーさん。連絡先教えてよ、今度遊ぼうって」


 手持ち無沙汰、視線を流せば、集団の中でも異様に目立つ長躯の女。

 同じく宴会に参加していたらしい八尺様が、見るからに軽い感じの狐に絡まれていた。


「なんなら今からでも抜け出してさぁ、二人で飲み直そーよ」


 気安く肩に腕を回しながらの、邪な思惑に満ちた誘い。

 対する八尺様は気乗りしないのか、ふるふると首を振るばかり。

 まあ、当然である。


「カタいこと言わないでって。コンパしようよ、狐だけにコンパ!」


 袖にした態度にもめげず、食い下がる若狐。

 一対一ではコンパとは言わないだろうと、何とはなしエーゲは思う。


 やがてしつこい余り、とうとう人面犬に噛み付かれた。

 喧騒に掻き消される悲鳴。まさしく以て因果応報。


 次いで他所を向くエーゲ。

 今し方と似たような光景が、そこかしこで見受けられた。


 其方では狐同士、彼方では嫁入り見物に訪れた化生と。

 酒の席の気安さも手伝い、誰も彼も積極的に好みの異性へと向かっている。


 当然と言えば当然の見渡し。

 延いてはこれこそ、エーゲの憂鬱の原因だった。


 そう。狐の嫁入りに於いて、殊更に厄介な点。

 それは、参列する狐の殆どがだということ。


 祝いの裏に隠された、もうひとつの顔。

 先んじて幸せを掴んだ同胞に続くべく、自身の相手を探す出逢いの場。


 即ち――婚活パーティである。


「狐だけに活ってか……」


 ぼそりと零したエーゲの冗句。

 口に出したことを後悔するくらい、下らなかった。






 草木も眠る丑三つ時。

 されど狐の宴は一層に盛り上がり、まさに酣といった頃合。


「いなりずし、ちょーうまい」

「ホント気楽な奴だよ、お前って……」


 傍らに空の重箱を山と積み上げ、延べ百個目となる稲荷寿司を頬張るヒナ。

 相変わらずの健啖振り。エーゲなど、見ているだけで胸焼けを起こしそうだった。


「なぁ。もういい加減帰ろうぜ」

「えぇー、もうちょっとー」


 かれこれ何度目かとなる引き上げの誘い。

 しかしながら、この宴席がお気に召したらしいヒナの返事は色好くない。

 お陰でエーゲも、帰り際を見失いつつあった。


「つっても、マジにそろそろ引き上げねぇと……」


 億劫げに呟きつつ、それとなく周囲を窺い見る。

 ちらほらと目に付くのは、やはり即席カップル達。


 まあ、あんなもの所詮は酒の力を借りたカップリング。

 無論のこと、殆どは長続きなどしないだろう。


 さりとて、幾つものカップルが成立している現状、当然独り身の絶対数は目減りする。

 出遅れた焦り、嫌が応にも思い知らされる格差。

 故、今時分ナンパに励む狐達の情炎は、静かなれど強い。

 ヒナへと言い寄る狐をエーゲが追い払った数も、既に片手では足りなかった。


「お前、頼むからこれ以上余計な真似してくれるなよ」

「もむ?」


 中身は兎も角、ヒナの容姿は結構な上物である。

 儚げな白磁の肌、艶やかな白髪、折れてしまいそうな細い肢体。

 取り分け、月の魔力を象徴する金色の瞳は、陰の存在たる化生達に受けが良い。

 悪しきものを人より多く招くため、一般には不吉とされているが。


「んくっ……余計な真似って? きらきら星歌いながらお雑煮頭に乗せてフラダンス?」

「そりゃただの奇行だ。取り敢えず目立たず大人しくしてくれりゃ、それで良い」

「はーい」


 両手に稲荷寿司を三つずつ握り、気も漫ろに返すヒナ。

 欠片も信用が置けない。


 ――と。

 ちり、と後ろ首に、小さな違和感。

 視線を感じ、振り返るエーゲ。


 誘われた先には、一匹の狐。

 エーゲとヒナをこの宴に招き入れた、四つ尾の妖狐。

 告死蝶を指先に止まらせ、遠目に二人をじっと見遣っていた。


「みゅ?」


 やがて、ヒナもそれに気付く。

 そして。


「あはっ♪」


 流し目と共に、ウインクを飛ばした。


「…………何、やってんだお前」

「え? いや、あんな熱心にボクのこと見てたから、気があるのかと思って」

「何やってんだお前」


 心底理解出来ないとばかり、エーゲが繰り返す。


 しかしながら、思い返せば昔からこういう女であった。

 愛嬌を振り撒き、無闇と気を持たせ、何人の男に黒星を与えたか。

 本人にまるで悪意が皆無な分、殊更に始末が悪い。

 当然の如く女受けは最低で、同性の友達など一人も居なかった。


「余計な真似するなって、俺言ったよな?」

「そだっけ? 忘れちゃった」


 顔色を青褪めさせ、言い募るエーゲ。

 一方、妖狐は二人へと歩み寄り、愛想良く微笑み掛けた。


「こんばんわ。楽しんでくれてるかな?」


 尾が増えるほど強く、身分の高くなる狐社会。

 その中に於いて、四尾は相当なランクに位置する。


 いざ暴威を振るおうものなら、祓い屋が束になっても止められない化生。

 相対するだけでも、肌を通して験力が伝わって来る。


 よりによって、こんな相手にちょっかいを出してしまったヒナ。

 当の本人は平然と構える傍ら、エーゲの顔色は益々血の気を失くして行く。


「(不味い。このままじゃ、ヒナの奴も姉貴と同じ道を辿ることに)」


 過去、歳の離れた姉が狐に嫁いだ時のことを思い出す。

 相手の狐は決して悪いタチの者ではなかったが、強面で大柄だった。


 幼いエーゲはその狐を大層怖がり、顔を合わせる度に隠れていた。

 彼が狐に対し苦手意識を持っているのは、その辺りの事情が多くを占める。


 とは言え。


「(……いや、まあ、それはそれで別にいいのか?)」


 正直、この先ヒナにまともな縁談があると思えるほど、エーゲは楽観的ではない。

 ならばいっそ狐にでも貰われた方が、彼女の人生も安泰ではなかろうか。


 しかしながら、異種族婚は時に国際結婚より問題が多いと聞く。

 基本的に何も考えていないヒナに、狐の中で暮らしていけるだけの器量があるのか。


 無理だ。エーゲは胸中にて断言した。


「ヒナ。取り敢えず謝れ」

「え、なんで? ボク何も悪いことしてないよ?」


 どうやら彼女の中では、徒に気のある振る舞いをすることは悪事に入らないらしい。


「ふふん。さあ狐さん、存分にボクを口説いてみるがいいよ!」

「何様だお前」


 稲荷寿司を握り締めたまま踏ん反り返り、上位者の目線で語るヒナ。

 そんな姿にエーゲは、色々考え込んでいた自分が馬鹿らしくなる。


「いや、君みたいに影の薄い子を口説こうなんて気は欠片も」

「なにおー!? ボクのキャラが薄いだとう!? なんたる侮辱だ!」

「安心しろ。キャラは寧ろ濃い方だぞ」


 案の定、妖狐の眼鏡には適わなかった様子。

 そもそも、見た目以外ほぼポンコツな彼女を娶るなど、狐にしても奇特が過ぎる話。

 向こうとて、選ぶ権利くらいはある。


「だけど」


 取り越し苦労、無意味な懸念。

 どっと疲れたのか、エーゲは気だるそうに眉間を揉みほぐす。


 ――その手を、狐と人の中間を位置取った妖狐の掌が、そっと包んだ。


「貴方には、興味があるよ」

「は?」


 果たしてそれは、ヒナとエーゲのどちらが零したものだったのか。


「中々の験力、加えて快い気を御持ちだ」


 うっとりと囁かれる呟き。

 次いで、エーゲは自らの勘違いに気付く。


「私の琴線に触れる殿方など、いつ以来だろうね。初めてかも知れない」


 装いが男のものであったため、雄だと思い込んでいた。

 けれども、雄にしては線が細く、声も高い。


 つまり。この妖狐の目当ては、最初からヒナではなく。


「どうだろう。貴方とは、是非に懇ろな仲となりたいのだけれど」





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