三日月






 女って輩は、根本的に時間にルーズだ。

 取り分け待ち合わせなんかだと、確実に遅れて現れる。


 往来で呟こうものなら、小煩い輩に差別的だなんだと詰られるであろう持論。

 が、少なくとも俺にとっては純然たる事実、経験談なのだから仕方ない。


 何せ、今までの人生に於いて個人的な親交のあった女達。

 その中で一人たりとも、俺を待たせなかった奴は居なかった。


 早くて五分。酷い時は三十分から一時間。

 もしかすると彼女等にとって、男を待たせる方が寧ろ礼儀なのやも知れない。


 ――そして今現在、またもや俺は女に待たされていた。


 深夜に人を電話一本で呼び出し、時間と場所も向こうが指定しておきながら遅刻。

 アレがそういう奴だってことはとうの昔から知ってるが、なんなんだマジで。


 如何せん、甘やかし過ぎた気がしてならない。






 弧を描く三日月が黒天の真上に座した、子の正刻。

 仄かな月光に照らされた四辻。

 エーゲはブロック塀に背を預け、目を閉じ、静かに経を唱えていた。


「南無」


 早口だが滑舌良く、淀み無い読経。

 小学生でも経文を諳んじられる今の世を体現したかの如き姿。

 薄地で織られたコートの裾が、微風にはためく。


「エーゲ、お待たせっ」


 甲高く弾んだ声音が、静寂を打った。


 ハイヒールの鋭利な足音、季節外れな風鈴の音色。

 読経に努めていた唇が、深く静かな溜息を吐き出す。


「七分遅刻だぞ、ヒナ」

「えへへっ、ごめーんね」


 そっとエーゲは双眸を開く。

 尻目を向け遣った先には、ちろと舌を出しながら謝罪するヒナの姿。


 闇夜に際立つ白い髪と白い肌、眼鏡越しに揺れる金色の瞳。

 反して、夜の空気に溶けてしまいそうな、ただ黒い装い。


 癖毛を緩く三つ編みとした髪に結わえた風鈴が、もうひとつ、ちりんと音を鳴らす。

 よく見ると、護符の紙縒で作った紐の結び目が歪んでいた。

 再度溜息を吐いたエーゲは、ちょいちょいと彼女を手招きし、それを直してやる。


「ったく……何で俺がお前の夜食選びに、コンビニまで付き合わにゃならんのだ」


 薬包紙に包んだ塩を撒く。

 刀印を組み、早九字を切る。

 全身へと纏わり付くような生温い気配が、音も無く霧散した。


「相変わらず上手だねぇ」

「九字もロクに切れないお前が下手過ぎるんだよ」


 軽く肩を竦めながら、長財布の中に仕舞った式紙を抜き取るエーゲ。

 呪言を唱え、鴉に変えて空へと放つ。


「あ、いーなぁ。買ったの? 高かったでしょ」

「貰いもんだ。バイト先の店長が新しく鷹を買うってんでな」


 星すら見えない、か細い月だけがぽつりと浮かんだ暗天に溶け込み、旋回する式。

 曰く、何かあれば大声を上げて鳴き、教えてくれるらしい。


「んじゃ、行くか。あんまり此処には居たくねぇ」

「はーい」


 二人の待ち合わせ場所であった四辻。

 有事の際こそ動き易いが、そもそも凶事を呼び寄せる地形。

 九字護身法を筆頭に幾つか保険を重ねているとは言え、長居など御免だった。

 待ち合わせ場所はもう少し考えて選べと、エーゲは切に思う。


「……少し、急ぐぞ。今夜は月が薄いからな」


 ふと、天を仰ぐ。

 三日月の下で、淡く燐光を纏う黒い蝶――告死蝶が、ひらひらと中空を飛んでいた。






 雑多な怪奇が蠢く日本の夜は、諸外国と比べて殊更に闇が深い。


 街灯など、数メートルも延びれば掻き消えてしまう。

 故、夜を往く二人が辛うじてでも辺りを見渡せているのは、月明かりのお陰。


「るんたったー、るんたったー」


 そして、そんな自分の足元さえも覚束無い道中。

 鼻歌と共に、ヒナは高さ二メートル近いブロック塀の上を歩いていた。

 ただでさえバランスの悪い、ハイヒールの靴で。


 普通ならば、落ちて痛い目を見ること請け合い。

 転んだところで、自業自得と笑われて当然の所業。


 が、彼女はよろける気配すら無かった。

 寧ろ楽しげに拍子など踏み、ちりんちりんと風鈴を鳴らしている。


「新しく出た魔除けアプリ入れてみたんだー。割と評判いいらしいよ?」


 片足、それも爪先立ちで綺麗に静止し、エーゲへと向き直るヒナ。

 裏面に護符が貼られたスマホを、黒く塗った爪先がフリップする。


 錆色の背景を幾何学模様で飾ったアイコン。

 タップし、程無くアプリが起動すると、赤い文字列が螺旋状に足元から渦巻いた。


 経文を用いた電子結界。

 効力自体は九字護身より劣るだろうが、持ちは良さそうだった。


 中々便利そうだな、と胸の内で思うエーゲ。

 そうは言っても、彼は個人的にアプリ頼みをあまり好まないのだが。


「……アプリはバッテリー切れたら終わるからなぁ」

「でも、これならボクにも使えるからね。早九字は難しいもん」


 それに関しては、ヒナが特別に不器用なだけである。

 ああも手軽な魔除けなど、そうそう無いのだから。






「とうちゃーく!」


 歩くこと数分。特に何事も無く、コンビニへと辿り着く。

 暗中にて際立った存在感を放つ、光の結晶とでも形容すべき硝子張りの大きな箱。

 出入り口の自動ドア前に据え付けられた鳥居が、コンビニらしさを感じさせる。


「やぁ、いらっしゃい」


 近所とあって二人とも顔馴染みの店員が店先で床几に腰掛け、煙管を吹かしていた。

 紫色の煙。鼻の奥をツンと刺激する酢酸臭。

 強い正の走光性、要は光に集る性質を持つ告死蝶が嫌う臭い。

 コンビニなどの深夜も営業している店には、不可欠な代物だった。


「どーもー、はっじめましてー!」

「ははは。いやいやお嬢さん、つい先週にも顔を合わせたばかりじゃないか」

「あれ、そーだっけ? まあいーや、ジュースとお菓子ー!」


 店員との遣り取りもそこそこ、目的である夜食の物色に一目散と駆けて行くヒナ。

 菓子のひとつではしゃぎ回るような歳でもないのだが、相変わらず中身は子供同然。

 多少は成長して欲しいものだと、エーゲは溜息のひとつも吐きたくなった。


「ったく……悪いな。ヒナの奴も他意はねぇんだ」

「構わないよ。夜の静寂に、ああいった元気な声はいっそ心強い」


 今日みたいな一人で店番の時は特にね、と。

 そう言葉が続いて、ふとエーゲは小首を傾げた。


 よくよく見れば、確かに店主の姿が無い。

 此処へ来れば九割方は見掛ける、居ない方が珍しい相手の不在。

 些かばかり、据わりの悪さが彼の胸を掻く。


「店長さんはどうしたよ」

「いや、実は昨晩メリーさんから電話を食らってね。撒くために県外まで逃亡中さ」

「あぁ成程。そいつは御愁傷さんだ」


 メリーさん。

 電話を介して人を祟る怪奇の中では、恐らく最も広く知られた存在。

 市販された護符や、魔除けアプリ程度でどうこう出来る相手ではない。

 何せ、専門の祓い屋ですら、直接の対峙は二の足を踏む。


 とは言え無論、有名なだけあって対処法も周知。

 その中でも最も安全かつ効果的な手は、メリーさんが飽きるまで逃げ続けること。

 金と手間はかかるが、一週間も移動を重ねれば大概は標的を移してくれる。


 変に彼女から気に入られない限りは、だが。


「いつまでかかるかなぁ。長いと半年はストーカーされるらしいけど」

「新宿駅に駆け込めば剥がせるって聞くぜ。中で迷って暫く出られなくなるんだと」


 ただし、終電後の新宿駅はまさに魔窟。

 狼から逃げるため虎穴へと飛び込むも同然ゆえ、実行する者は圧倒的に少数だが。


「早目に戻って欲しいよ。新しく入ったバイトの子も、トラブルで辞めちゃったし」

「夜は、な。しょうがねぇさ」


 そう言ってエーゲが道の向こうに視線を投げると、丁度、曲がり角から人影が覗く。

 つばが異様に広い帽子と白いワンピースを着た、長い黒髪の女。


 シルエットこそ人のそれだが、明らかに人間ではなかった。

 暗闇の中でも妙にハッキリと姿が窺える上、頭の位置がブロック塀より遥かに高い。

 下手すれば二メートル半はあるだろう。


 向こうもエーゲに気付いた様子で、にたりと笑いかけられる。

 悪意や害意の類は感じられなかったため、軽く会釈で返しておいた。






 特に入用も無かったため、店員を話し相手に店先で時間を潰すエーゲ。

 暫く話し込んでいると、目に見えて告死蝶が増えてきた。


 燐光纏う黒い蝶の形をした、生物でも化生でもない何か。

 あれ自体は無害だが、あの光は多くの怪奇を呼び集める誘蛾灯だ。


 そろそろ潮時。九字護身も少しずつ効力が薄れ始めている。

 護り無しで夜道を歩くなど、傘も持たず雨に打たれるようなものだった。


 エーゲは硝子越しの店内を窺い見る。

 雑誌を読みながらクスクス笑うヒナの姿があった。


 ――無言で、中まで踏み入る。


「オイ、なんで立ち読みなんぞしてやがる。買うもん決めたなら帰るぞ」

「えぇー、もうちょっとー」


 足元に置かれた籠の中は、菓子やら飲み物やらで半ば溢れていた。

 とてもひと晩で食べ切れる量ではないが、ヒナは外見不相応な健啖家。

 夜が明ける頃には、この悉くが貪り尽くされていることだろう。


「外見ろ、告死蝶。まごまごしてたら面倒なことになるだろうが」

「ちぇー」


 渋々と頷き、雑誌を棚に戻すヒナを尻目、籠を持ち上げるエーゲ。

 ペットボトルのコーラが二本も放り込まれてる所為か、ずっしりと重い。

 帰り道、彼がこれを持たされることは確実であった。


 煙管片手の店員に会計して貰い、店を出る二人。

 先のワンピースの女が、駐車場で茫と空を仰いでいた。

 エーゲに気付いてひらひらと手を振って来たから、応じる形で返す。

 瞬きの後、彼女は霧か霞のように消えて行った。


「マシュマロアイス買ったんだー。エーゲも一緒に食べよ!」

「あんなクソ甘いもん食えっかよ……」


 右手に巻いた数珠から、小さく震えが伝わる。

 そよ風に紛れて、微かな話し声や笑い声が二人の耳を撫ぜた。






「昨日、鏡に変なの映ってさー。思わず写真撮ったんだけど、写ってなくてさー」

「当たり前だ。鏡にしか映らねぇもんが、どうして写真に写るんだよ」

「で、ムカついて叩き割ったら、びっくりしたみたいで逃げちゃった」

「ホント無茶苦茶するな、お前……勿体無いことしやがる」

「いいもん別に。どうせ鏡なんか使わないし」

「だからってもうちょい穏便に済ませられただろ……」


 虚像としてしか存在出来ない何かなど、三下も三下。

 鏡の隅に経文でも綴っておけば、勝手に居なくなるだろう。


 とは言え、ヒナは相当な悪筆。

 彼女の書いた経文など、余計にタチの悪い何かを呼びかねないが。


「かしこみかしこみ……おい、そこ曲がるぞ」

「ほえ?」


 差し掛かった四辻。待ち合わせの時とは別の十字路。

 真っ直ぐ行った方が近いけれど、敢えてその手前で左に逸れるエーゲ。


「なーに、送り狼さん? やん、ボク食べられちゃうっ」

「本質的に馬鹿だよな、お前……」


 夜歩きが趣味にも拘わらず、注意力と警戒心の足りない暢気者。

 先々週など、エーゲが少し目を離した隙、涙目で逃げるテケテケを追い回していた。

 普通、追い回される側だと思うのだが、一体何をしたのか。


 ――兎も角、彼の判断は正解。

 今の道を直進するのは、避けるべきだった。


 そっと数珠に視線を落とすと、幾つかの珠に罅。

 祓い屋が使うような代物とは比べるまでもない、安物の市販品。

 が、それでも護符や経文で退けられる木っ端を相手に、こうはならない。


 見えたのだ。道の向こう、闇の奥に薄らと。

 鬼火に身を包み、腐った血を滴らせた、首だけの犬。

 告死蝶を侍らせた、凝り固まった悪意の化身が。


 これだから、四辻は危険。

 取り分け、今し方の道は街灯が無く、結界も敷かれていない。

 注意して当然と言えば当然だが、気付けて僥倖。

 あんな化け物、居眠り運転のトラックも同然。

 ぶつかれば良くて入院、悪ければ死だった。


「一応通報しとくか……」


 あの特徴的な姿、十中八九、犬神。領域に踏み込んだものを無差別に襲う化生。

 避けて通れば害は無いが、家の近くをうろつかれては迷惑もいいところ。


「てか、誰だよあんなの作った奴」


 犬神とは式。

 それも紙を媒体とする簡易な式紙とは一線を画す、の一種。

 誰かが意図しなければ決して形を成し得ない、人造の怪物。


 重ねて、凶暴過ぎて製作者にも制御不可能な厄介モノ。

 勿論のこと違法。材料の所持だけで薬物乱用より重い罪にかけられる。


「あ、見て見てエーゲ! シークレット出た!」

「食玩くらい帰ってから開けろよ……」


 警察に電話しようとスマホを引っ張り出すエーゲの傍ら、珍妙な人形片手に喜ぶヒナ。

 正味、外見だけは賢そうだと言うのに、肝心の中身は残念極まる女であった。





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