繊月
築五十年ちょい。
間取り、四畳半一室。
キッチン、シャワー付き。ただしトイレは共同。
家賃、月五千円。
安さだけが取り得の、それ以外は辛うじて人間が暮らせるレベルのおんぼろアパート。
比喩であっても城と呼ぶのは憚られる、そんな我が住まい。
重ねて言うなら、部屋は全部で八つあるが、内七つは空き部屋。
時々入居する奴も居るには居るけれど、大抵は一週間足らずで出て行く始末。
つまり現状、住人は俺一人。
そこそこ人口の多い町であると言うのに、大したものだと逆に思う。
…………。
改めて考えると、なんて無残で悲惨な体たらくか。
いっそ潰してマンションか駐車場でも新しく作った方が、余程に建設的だろう。
まあ、そんな有様ゆえ、問題事も多い。
例えば今日など、バイト帰りに湯で顔を洗おうとしたら、冷水しか出なかった。
ここ数日挙動の怪しかったボイラーが、とうとう職務放棄したらしい。
鬱陶しいクレーマーを店長に押し付けられて気分最悪だったところに、この仕打ち。
大家経由でガス屋に電話してみるものの、今夜は来られないなどと抜かす始末。
お陰で俺は、こんな季節に水浴びだ。
明日の朝一にでも、神仏への恨み辛みで埋め尽くした文書を焚き上げるとしよう。
神も仏も呪われて死ね。
古びた灰色のタイルで覆われた、縦長のシャワー室。
大人一人入るのがやっとの狭い空間に響き渡る、雨のような水音。
それを一身に浴びるのは、黒髪の青年。
肌を打つ、骨の芯まで震える寒々しい音色。
髪に絡んだ泡を洗い落とし、錆びた蛇口を締める。
――ふと、携帯の着信が、扉越しにくぐもって聴こえた。
毛足が長いバスタオルで頭を拭きながら、億劫げに外へと出る。
濡れた腕に数珠を巻き付け、キッチン兼洗面台の上で喚くスマホを取った。
「誰だ」
『あ、もしもしー? ボクボク、ヒナちゃんだよー』
恫喝も同然の低語で呟かれた誰何。
返ったのは、夜も遅いと言うのに矢鱈とテンションの高い、朗らかな語り口。
電波が良くないのか、些かノイズ混じりで聴き取り辛い。
そもそも
夜半の電話など、まともに繋がるかどうかも危うい。
雑音が刺さる程度なら、寧ろ好調の部類に入るだろう。
「……何の用だ」
『やーん、エーゲってばこわーい。低い声出さないでよー』
無意味に元気な、冷水で気分最悪の身には些か堪えるノリ。
エーゲと呼ばれた彼はいっそ切ってやろうかと思うも、水際で耐える。
そんな真似をしたところで、後々の面倒が増すばかりだった。
『ふふふっ。あのさ、今からそっち行っていーい?』
「こんな時間にか?」
秒針を鳴らす時計が示す時刻は、零時五分前。
確かに、彼等の住まいは歩いて二分程度の近所。
だが、それでも出掛けるには遅い。
『プリン作ってたらすっごく美味しく出来たんだー。すぐ食べて欲しくって』
「俺が甘いもの食えないの知ってて、よくそんな用件で電話してきたなお前」
『ノンノン! 甘さ控えめの豆乳胡麻プリンだから、だいじょーぶい!』
余程の会心作なのか、どうしても食べさせたいらしい。
得意げな笑顔が、青年の脳裏にありありと浮かぶ。
『この美味しさ、エーゲにもお裾分けしてあげたいのー。ね、ね、いいでしょ?』
まあ彼としても、悪い気はしない。
別段、頑なに突っぱねる理由も無い。
「好きにしろ」
…………。
ただし。
「お前が本当にヒナだったら、の話だがな」
『……え? えぇ? もー、何言ってるのさエーゲ。寝惚けてるの?』
息を呑んだ微かな気配。
それを誤魔化すように捲し立てるが、もう遅い。
「五秒だけ待ってやる。経文を詠み上げられたくなければ、さっさと失せろ」
『…………チッ!』
邪気の欠片も無い、天真爛漫な口舌が表裏一転。
打って変わって耳朶を叩いた、怨嗟と憎悪に塗れた舌打ち。
ブツリと乱暴な音を立て、通話が切れる。
軽く肩を竦め、エーゲがスマホを検めると、今し方の通話履歴すら残っていない。
裏面へと張り付けた護符に至っては、端が焼け焦げていた。
「……舌打ちしてぇのはこっちだ。あー鬱陶しい」
大方、腹を空かせた化生の成り済まし。
もしも来訪に頷いていたら、少なくとも特売の清め塩で祓うのは難しかった筈。
今日日、別段珍しくもない騙し。
が、木っ端にしては中々巧妙な手管。
エーゲが逸早く気付けたのは、右手に巻いた数珠のお陰。
スマホに指先が触れてから、ずっと小刻みに震えて危機を報せてくれていた。
元は正月の福袋、それも貰い物に入っていた処分品。
効果の程は期待していなかったが、中々どうして掘り出し物。
福袋というめでたげな言霊を重ねた分、霊験が増したのだろう。
「さて……札の方はストック、まだあったっけか……」
焦げた護符の文面を筆ペンで塗り潰した後に剥がし、破いて捨てる。
これを不精してそのまま捨てると、呪詛を孕んでしまう。
手早く寝間着に着替えるエーゲ。
小さな箪笥の引き出しを開ければ、剥がしたものと同じ意匠の護符。
もう殆ど残っていない。
「先週、ヒナに随分持ってかれたからな……買うと高いし、また書き溜めとかねぇと」
気怠げな溜息。
しかし、これを作るための手間を考えたなら、多少の辟易は無理からぬこと。
とは言え、護符無しにスマホなど持ち歩けたものではない。
セキュリティを一切かけず、パソコンをネットに繋ぐようなもの。
ぞっとしなかった。
エーゲは残り僅かな作り置きの一枚を取り出し、額に軽く押し当てる。
書き綴る際とは転じて、使う時は手軽なのが護符の大きな利点であった。
「――急急如律令」
注ぎ込まれた起動呪言。
熱の伴わない、現のものかさえも定かでない紫色の炎が、紙面へと立ち上る。
そして刹那の後、瞬くように消え失せる炎。
同時、焦げ目ひとつ無い護符は独りでに彼の手を離れ、スマホへと貼り付く。
西暦二〇二〇年。幻世二十三年の晩秋。
今宵も、また相変わらず、何とも物騒な夜半だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます