第488話 確かな信頼

 ブランの恐怖を感じる告白はともかく。

 アルは慣れたソファに腰を下ろして力を抜きながら思考を巡らせてみた。


 この空間が明晰夢であるかどうかは分からないが、望みのままに変化する場所だというのは確定した。そしてその望みは明確に描けば描くほどに、現実そのもののように見えることも。


「……ブランが望んだものはどうなるのかな?」

『我か? ――うむ、肉を食いたい』


 ブランらしい望みだった。それがなんだか嬉しく感じる。

 ソファの傍のローテーブルの上に、唐突に巨大な肉が現れた。ありがたいことに、きちんと皿の上に載せられている上に、生肉ではなく程よく焼き目がついている。中まで火が入っている保証はない。そもそも食べられるかどうかも定かではないが。


「ちゃんとお肉っぽいね」

『味はどうだろうな』


 ワクワクとした感じで肉に飛びつこうとするブランを、アルは咄嗟に首元を掴んで止めた。


「ブラン、そんな警戒心なく――」

『だが、我は肉を食べたいと望んだのだぞ。それによって生まれた肉が食べられないなんてことがあるか?』


 むっ、とした感じで振り向くブランの言葉に、思わず「確かにそうだね」と納得してしまう。


 単に肉を望むのではなく、『肉を食べること』を望んだのはなかなか賢い。ブランはこんなに抜け目がない性格だっただろうか、と疑問に思ったが、食べ物に関わることならばさほど不思議ではないかもしれない。


「……とりあえず、切ってみよう」


 アルは当然のように使えたアイテムバッグからナイフを取り出す。そして、それを巨大な肉の表面に当ててみると、ほとんど抵抗なく肉を削ぎ落とすことができた。


 肉の欠片は美味しそうだ。削いだことで見えるようになった巨大な肉の内側はほぼレアで、アルは口にするのを少し躊躇ってしまう感じだったが、ブランならばむしろ嬉々として食いつくだろう。


『旨そうだ……』


 ブランが口の端から零れ落ちそうになったよだれを舐め取る。この様子だと、アルが止めようが絶対に食べるだろう。そして、アルはそれを引き止める力も、食べてはならないと納得させる理由も持っていない。


「ブラン、それより他のことも試してみようよ」

『これを食べてからな』

「あっ……」


 いつの間にかブランの姿が消えている、と思ったら、巨大な肉の向こう側にブランの耳が見えた。アルに邪魔されないよう、わざわざ回り込んで食べ始めたらしい。


 アルはもはや諦めるしかなく、ため息をついてソファに座り直した。これでブランがお腹を壊したとしても、別に死ぬことはないだろうから、好きにすればいいだろう、と投げやりな気分だ。


 ブランのことは思考の外れに追いやり、アルは改めてこの空間について考えてみる。

 アルだけでなくブランの願いでも空間に変化が起きることが分かった。では、この空間はなんのために存在しているのか。アルたちは何故突然このような空間に辿り着いてしまったのか。


「うーん、どう考えても、神――アテナリヤを魔力で満たしたことがきっかけなんだよなぁ」


 そうなると、今の状況はアテナリヤによってもたらされたことになる。アテナリヤはこの空間でアルたちに何を望んでいるのか。


 ふと、脳裏にアテナリヤが眠る姿が浮かんだ。結局、アルはアテナリヤが目を開けている姿を見ていない。その前に、この空間に連れてこられてしまったのだから。


「――いや、そもそも、アテナリヤは今起きているのかな?」


 アルはパチリと目を瞬かせた。

 アテナリヤの目覚めを確認していないのだから、寝ている可能性も、起きている可能性もある。まるで、ヒロフミたちに教えられたシュレディンガーの猫のような状況だ。


「アテナリヤが起きているなら、その傍にいた僕たちは今頃どうなってるんだろう」


 攻撃されているのか、それとも守られているのか。

 ここが夢の中の世界だとしたら、現実には体が残されているはずで、その身の安全を考えると少し不安だ。


 とはいえ、たとえ夢の中にいたとしても、現実で危害を加えられたとしたら、すぐに目覚められる気もするが。


「アテナリヤが眠っているとしたら……僕たちみたいに、こんな夢の中にいるのかな?」


 神の眠りとはどのようなものだろう、と改めて考えてみた。神も夢を見るのだろうか。


『何をブツブツと呟いているのだ』

「予想以上にお早いお帰りで」


 膝上に跳び乗ってきたブランに、アルは皮肉を込めて言ってみる。

 だが、ブランは一切こたえた様子を見せず、当然のように『あの程度十分もかからず食えるぞ』と胸を張った。

 全然誇ることではないし、人間だったら一日掛かっても食べ切れない気がする量だったはずだが。


「――ブランの馬鹿げた暴食っぷりは置いといて」


 いつだったかブランに向けられてた呼び名を当てこすってから、アルは考えていたことをブランに話してみた。


『……うぅむ、神の見る夢、か。我はそんなこと考えたこともなかったぞ』

「そもそも神が眠るだなんて、ついさっき知ったことだしね」

『そうだな。だが、アルが言っていたように、アテナリヤに一欠片でも人としての名残があるならば、ありえることだろうな』


 ブランがゆるりと尻尾を揺らす。その結論はアルと同じだった。

 そうとなれば、アルは試してみたいことがある。その結果がどうなるか、予想もつかないが。


「神が見る夢を、僕たちも見ることができるかな?」

『どういうことだ?』

「つまり、神が見ている夢の中に、入ることができると思う? もしくは、神が見ている夢を、ここで再現することとか」


 アルの言葉に、ブランは少し顔を顰めたように見えた。


『……これまでの試行で、望みが現れるのには明確なイメージが必要だと分かっているだろう。神が見る夢をイメージできるのか?』

「できるんだったら、望む必要もないよね」


 ブランの言葉は尤もである、アルも望みが叶わない可能性が高いことは自覚していた。

 だが、ここに迷い込んだ――あるいは導かれた理由は、神であるアテナリヤに関わっているのはほぼ間違いない。それならば、状況に進展をもたらすためにも、積極的に行動する必要があるだろう。


『……まぁ、試したところで、悪い方へ事態が進むわけではないと思うが』

「そう? じゃあ、やってみようかな」


 ブランの確証もない言葉をあっさりと受け入れたアルに、眇められた目が向けられる。


『我は感覚で言ったにすぎないぞ。安全とは限らん』

「でも、ブランは大丈夫だと思ってるんでしょ? それなら僕は試してみる価値があると思う」


 アルはブランを見据えて微笑んだ。

 この空間に来てから、ブランの態度に違和感を覚えることは何度もあった。だが、不思議とアルを危険にさらさないということだけは根拠もなく信じていられるのだ。


『……ふん、好きにすればいい』


 ブランが顔を背ける。その耳と尻尾が落ち着きなく揺れているのを見て、アルは小さく微笑み、頭を撫でてみる。

 アルの信頼に対して照れくささを感じて、それを隠そうとする仕草は、いつものブランと全く変わらなかった。


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