第487話 望みを映す
――じゃあ、ここを夢の中だと仮定してみよう。
そう宣言したアルに、ブランは呆れた表情で『思い切りがいいな』と感想をこぼした。だが、アルの思考を止めるつもりはないようで、耳を傾けてくれる。
「僕たちは今、夢の中だと自覚しながら自分の意志で思考し行動していることになる」
『夢とはそういうものではないのか?』
「うーん? もっと不自由な感じだと思うけど」
『そうなのか』
首を傾げるブランはいまいち理解していない様子だ。ブランの見る夢がどんなものか分からないが、アルが見るものとは違うのかもしれない。
「まぁ、そういう『ここは夢だ』と自覚できる夢を、俗に明晰夢って呼ぶらしいから、さほど不思議なことではないのかも」
『人間はそんなものにまで名をつけるのか』
呆れたような、感心したような不思議な表情を浮かべるブランに、アルは苦笑する。どうしたって人間と魔物の感覚には差が生じるものだ。明確に種族が違うのだから。
「そうだね。――明晰夢では思考がそのまま現実になることがあるんだって」
『ほぉー、それは何故だ?』
「夢は所詮その人の思考の内側にあるものだから、ってことじゃないかな。全く想像できないことは基本的に起きない」
『なんというか……夢がないな』
ブランはつまらなそうにそう評してから、『夢に夢がない、とはおかしな表現だが』と皮肉そうに言い笑った。
アルも同調するように微笑みながら「そうだね」と頷く。
「そういう夢を前提にして、試してみたいことがある」
『……説明されずとも、もう分かったぞ』
ブランがニヤリと笑った。楽しくなってきたらしい。
アルは軽く肩をすくめ、最初から今までずっと変わらない白い世界を見渡す。
「僕、青空を見たいな」
ポツリと呟く。
白い光に満ちている場所に佇むのは、なんとも居心地が悪いのだ。少しでも状況に変化が生じればありがたい、という思いが滲んだ言葉だった。
だが、アルのささやかな願いを大きく上回って、目が痛いほどの青が一瞬で広がった。
「っ……これ、青空?」
思わずブランから手を離して、目元を手で覆い隠してしまう。
ブランはアルの足元に着地したようで、抗議するように尻尾をアルの脚に打ち付けてきた。
『突然落とすな!』
「ごめん、驚いちゃってさ。離れ離れにならなくて良かったよ」
この空間では何が起きるか分からない。少しでも離れた途端、互いの姿が見えなくなる可能性だってあったのだ。
叩かれることでブランの存在を感じられたことに、アルはホッと安堵の息を吐いた。
『ふんっ、自分で願っておいて、驚くとは軟弱な』
「僕が望んだ青空は、こんなものじゃなかったんだよ」
アルは手をどかす代わりに目を細めて、青色を眺める。
なんという鮮やかな原色か。まるで青の塗料をキャンバスに投げつけたようである。
白全体を消すわけではなく、空に相当しそうな場所が青く染め上げられているのを眺め、この結果の理由を考える。
「――これ、僕の想像力が貧困だっていうわけじゃないよね?」
『アルが想像する空がこれだったということか? それならば、我はアルの目を医者に診せるよう告げておくが』
「これが空じゃないことは分かってるよ。大丈夫、こんな風には見えてないから」
本気ではないだろう言葉に軽く返しながら、アルは首を傾げる。
何故青空を望んで、このような空とは似つかない光景が生まれたのか。
『アルの想像力はともかく、望めばこの空間が変化することが分かったな。明晰夢とやらの可能性が高まったか』
「そうだねぇ。単に、ここが望みのままに変化する空間である可能性はあるけど。ほら、アカツキさんのダンジョンの親戚みたいな」
『そんな親戚は存在してほしくないものだな』
なんとも真っ当で否定できない感想をこぼすブランに笑ってしまいながら、アルは目を細める。
望みのままに変化する空間、という言葉から、神の存在が思い浮かんだのだ。
試練を突破した者の願いを神が聞き入れ叶えるというのは、この空間とあまりに似通っている。
ここが夢のようなものだと考えず現実だと思ったなら、人は眠りの中で理想を手に入れられるかもしれない。それは決して本人が状態ではなかったとしても、偽りに気づかなければ幸福でいられる。
それはなんだか恐ろしい考えに思えて、アルは意識して思考の外に追い出した。
「……青空はちょっと失敗したし、もうちょっと具体的にイメージしてみようかな」
気を取り直して試行を続ける。
先程は大したイメージもなく青空という言葉だけで願ったが、より明確に望めばどうなるだろうか。
ふと脳裏に浮かぶのは、ドラグーン大公国近くの魔の森にある自分たちの家。随分と長く離れている気がして、少し恋しくなった。
「家でゆっくりしたいな……」
家の傍には畑がある。今の季節は何が実っているだろう。確か野菜を植えておいたはずだが、雑草に埋もれてひどい状態になっているかもしれない。
家の中は魔道具によって快適に保たれているだろう。そこはアルたちの帰りを静かに待っている。
『ほぉ……先ほどとは全く違うな』
ブランの声が耳に届き、アルはいつの間にか伏せていた目を開けた。
途端に飛び込んできたのは、あまりにも見覚えがありすぎる光景だった。まるで、先ほどまでの場所から転移して来たかのように、現実としか思えない。
「僕たちの、家だ」
『そうだな。――土の感触まで再現されている。大したものだ』
感心した声を聞き、アルは足元に踏みしめられた地面が広がっていることを自覚した。途端にさまざまな音や匂いが押し寄せるように感じられて、目を大きく見開く。
ここは、本当に現実ではないのだろうか。
疑問が不安とともに押し寄せて、アルは自分の腕をつねってみた。
明晰夢の条件として、痛覚が働かないという話を聞いたことがあったが、ここはどうやら違うようだ。確かな痛みを感じて、アルは途方に暮れてしまう。
現実と夢の違いを証明できない。
「ブラン、ここは、なに?」
『アルが望んだ、想像の光景だろう』
当たり前のように返答があり、アルは目を瞬かせた。
ブランは足踏みをしたかと思うと、雑草に飛びかかって爪で裂いてみたり、地面に穴を掘ってみたりと、自由気ままに動いているように見える。
「現実ではない、ってこと?」
改めて質問を明確にすると、ブランがアルを見上げて呆れた表情を浮かべた。
『どう見たってそうだろう。……だが、アルにとってはそうではないのだろうな。アルが望んだ世界は、アルの記憶に基づいている。我が感じるような違和は、極めて感じにくいのかもしれん』
ブランの返答に、アルは目を瞬かせながら周囲へと視線を移した。
違和、と言われてもアルには全く分からない。だが、ブランが言わんとしていることは分かった。
ここはアルが記憶している世界だが、記憶というものは本来曖昧になるものだ。また、視点が違えば世界の見え方も変わる。
ここはブランが記憶しているものとは違いがあるということだろう。
「そっか……現実じゃないなら良かった」
アルはなぜだかひどく安堵して歩き始めた。とりあえず家の中も確かめてみようと思ったのだ。
ブランがアルの足元を歩き、開いた玄関扉からするりと先行していく。
『ほぅ。アル、ここを見てみろ』
「なに?」
居間へと進むブランを追うと、不意にソファの下を鼻先で示された。
覗き込んでみたが、気になるものはなにもない。しいて言うなら、埃一つなく清潔に保たれていることを喜んだくらいだ。現実ではないとしても、綺麗である方が良いに決まっている。
『そこには本来、我の気に入りの果物が貯蔵されているはずなのだが』
「……待って?」
『なにもないだろう?』
「それ以前に、なんでこんなところに果物を隠してるの。というか、本当にあるの? 今頃腐ってない?」
『ドライフルーツができているかもしれんな』
ブランは悪びれなく言うが、実際に果物があったとして、今頃そこにあるのはカビに覆われた物体か、ドロドロに溶けたものだろう。
アルが用意した魔道具は、家具などを消去しない。つまり意志を持って置かれた物には作用しないのだ。それはブランの意志によるものであっても、である。
「……家に帰るのがすごく怖くなってきたよ」
声を絞り出して言う。
アルは現実そのもののように感じられる空間よりも、現実で目にするだろう物体の方が恐ろしくてたまらなかった。
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