明かされるモノ

第479話 不確かな怖さ

 無限のように広く。手を伸ばせばすべてに届きそうなほど狭い。

 自分の手さえ見えないほどの闇に、質量を持って押しつぶしてくるような圧迫感を覚える。


「ブラン……」

『いるぞ』


 即座に返ってきた言葉にホッとすると同時に、相手の存在が曖昧に感じられていることは気のせいではないのだと理解した。


 まるで夢の中。

 現実味がなく、ふわふわと意識が浮き上がり、自分から離れていってしまいそうだ。そうなった時、自分――アルという存在はどうなるのだろうか。


 ふと浮かんだ疑問に、氷に触れるような冷たい怖気が走った。

 今自分は生きているのか。思考しているのは本当に自分なのか。何を持って、それを証明できる?


『――呑まれるな』


 呆れたような、窘めるような、それでいてどうしようもなく慈しむような声だった。

 その瞬間、アルは呼吸していることを自覚した。自分は生きていると理解した。


「……うん。ごめん」

がいる空間が優しいわけがない。そんなことは初めから分かりきっていただろう?』


 柔らかい毛の感触を頬に感じる。肩を叩く尻尾のリズムが鼓動と重なった。


「いや、でも、ちょっと予想外だったかな」


 言い訳のように呟きながら、周囲を眺める。少なくともアルは視線を動かしたつもりだったが、周囲には闇が満ち、その動きの正確性さえ失わせた。

 何も見えず、感覚が薄れた世界のなんと不安なことか。


『予想外、か。まぁ、確かに、あのイービルがいる空間よりもよほど、牢獄のようだな。アカツキのダンジョンと比べると、天と地ほどに、自由度が違う』


 皮肉を言うブランに、アルは少し感心した。

 神がいる場は、普通『天』のようだと想像するものだが、実際は『地』のような場所だった。


「そうだね。それでどう進めばいいと思う? 一歩先に崖があっても分からないと思うんだけど」

『一か八かで進んでみるか?』

「そんな行き当たりばったりで大丈夫かな」

『それ以外に手段がない』


 断言されて、アルは暫く閉口した。

 人間よりも優れた感知能力を持つブランが、『把握不能だ』と言うならば、反論する言葉は一切浮かばない。


 それでも、アルは自分の記憶を探り、思考をフル回転させてあらゆる手段を探る手間を惜しまなかった。

 ブラン以上にアルが優れているのは、魔法技術だけ。それでも手段が見つからないならば、ブランが言う通りにするしかないのだと覚悟を決められる。


「……とりあえず、ライトをつけてみよう」

『悪あがきだな』


 鼻で笑うように言われたが聞き流し、自分の魔力を探る。

 どうやらこの空間内にもアルが知る魔力が満ちているから、魔法を発動できないという可能性は低いと思う。


 指先に光を灯す魔法を詠唱し――変化のない視界に嘆息した。


「ダメか……」


 ふと頬を毛が撫でるような感覚があった。ブランが顔を上げたのだ。


『いや。……使う魔力を増やせ』

「目眩ましでもしようって言うの?」


 光は強すぎれば目を焼く。それ故に、光を灯す魔法には使う魔力の量を制限する理論が組み込まれているのだ。ブランはそれを取り除けと言っていて、すなわち安全圏を放棄しろと告げているのに等しい。


 アルは思わず眉を顰めたが、続けて『さっさとしろ』と促され、ため息と共に要求を飲み込んだ。


 光を灯す魔法陣から、魔力量を制限する理論を消し、その上で魔法が発動するよう構造を組み変える。そしてそれを詠唱用の文言へと変換し、声に出した。


 それに掛かった時間は一分にも満たないが、普通の魔法使いだったら数日は掛かりかねない作業である。

 ブランに「急に無茶を言わないでよ」と言ったところで、『アルならばできるのだから、問題なかろう』と返されると分かりきっている。だから、文句を飲み込むしかない。


「――ライト」


 最後の文言を詠唱した途端、淡い光が生まれた。それに指先を照らされて、アルはパチリと目を瞬かせる。


『弱い光だな』

「これでも、攻撃で使えそうなほどの光を生み出すように魔力を込めたんだけど」


 魔力を潤沢に持つアルでなければ、一発で魔力の枯渇に陥りそうなほどの量を使用して生まれたのが、ロウソクほどの光。あまりに効果が小さすぎた。魔法陣の構築をしそこなったのかと疑ってしまう。


『この空間では、魔力で引き起こされる現象が小さくなるようだな』

「えー……それ、僕にとって不利すぎる」

『我もだ』


 不満そうな声で返された。

 ブランは優れた身体能力を持っているが、魔力に頼った攻撃の方が多い。もしここで敵が現れたなら、まともに戦えない可能性があるのだ。苛立つのも当然だ。


「敵も弱体化されると期待していいかな?」

『いつから楽観主義になったのだ? アカツキに影響されたか』

「むしろブランじゃないかな?」

『我は常に事実しか言わんぞ! 楽観的だったことなんぞない!』

「そうかなー?」


 軽口を交わしていると、精神が落ち着きを取り戻した気がする。


『我は強く美しき聖魔狐だぞ』

「それが事実?」

『事実以外になかろう』


 心底『どこに疑問が浮かぶか?』というように不思議そうに言われ、苦笑する。ここまで自信家だと、腹が立つより頼もしく感じるものだ。


「今の状況でもそれを誇れるってことだね?」

『いや、まぁ……何事も、例外があるな』


 意地悪を言えば、ブランの声が気まずそうに揺れた。少し申し訳なくなる。今の状況が、ブランの対応範囲を超えていることは、言われずとも分かっていた。


「そうだよね。さすがに神の領域では無力になって当然だからね」

『無力とまでは言っていないぞ!?』

「強がらなくていいから。僕も、ここで戦闘になったら厳しいなって思ってるし」


 アルが肩をすくめて言うと、ブランは『むぅ……』と唸って口を閉ざした。途端に静けさが満ち、どうしようもなく自己の不安定さを突きつけられる気がする。


 そんな負の感情を振り払うため、アルは沈黙を消し去るように言葉を続けた。そこに意味なんて必要なくて、ただ自分という存在を証明するために。


「――それにしても、こんな小さな光があっても、周囲が全然見えないね」

『アルの指は見えるぞ。爪が伸びてる』

「切ってくれば良かったなぁ」


 小さな光が照らす範囲は、手のひらほどの狭さだ。ないよりはあった方がマシ、という弱々しい光。


 不意にブランが腕を伝い歩く感触がある。手のひらだけが見えていた場所に、鼻と光を映す瞳が浮かび上がった。


『我が見えたか?』

「うん。白い毛なのに、あんまり光を拡散させないね」

『……我の毛は反射材ではない』


 ムスッと鼻面にシワを寄せたのが見えて、アルはホッとして笑った。こうしてブランの表情が見えただけで、大きな安心感を覚える。それほどにこの空間は不安感で満ちているのだ。


「でも、この光がちゃんと物を照らし出せることが分かったよ」

『もともと手は見えるようになっていただろう?』

「そういう幻覚の可能性があったからね」


 アルの返答に、ブランが納得したように頷いた。

 その様子を見ながら、ゆっくりとしゃがみこむ。光を地面があると思しき場所に近づけても、そこに何かが存在しているようには見えなかった。


「――ここ、歩けるのかな?」

『足で地面を感じるか?』

「正直、立っているのか、浮いているかも分からないよ」


 ブランが考え込むように目を伏せた。


『我がこうして移動しているということは、そういう概念は存在している空間だということだ』

「移動の概念……」


 よく分からない言葉だ。アルはブランをまじまじと見つめた。だが、いつもならアルの視線を瞬時に察するブランが、それに気づいた様子を見せない。


『神がいる空間だ。我らが暮らす世界同様の原理原則に従って存在しているとは限らぬだろう。この空間では物質さえも意味を持たない可能性があった』

「あー……もしかして、ずっと感じている不安感って、それのせいかな? あまりに根本から僕が知る世界と違いすぎる」


 足下が崩れ落ちたような恐ろしさがずっとアルに付き纏っている。存在の不確かさは、アル自身ではなく空間から感じているものなのかもしれない。


『そうだな。だが、移動はできると分かった。足を進めてみろ』

「ブランが先に行くというのはどうかな?」


 クインならば進んでしそうだ、と思いながら提案してみると、ブランが伏せていた目を上げた。


『構わんが、アルと離れることになるぞ。それがより大きな危険を生む可能性がある』

「……ブランの方が冷静だったね」


 アルは自分の思考がまだ乱されていたことを自覚した。普段ならばブランに指摘されずとも気づいていたはずだったのだ。

 一つ大きく深呼吸して、ゆっくりと足を上げる。この足を下ろした先に、踏みしめられるものがあることを祈りながら。

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