第478話 出発の日
アイテムバッグの中身を確かめて、「よし」と呟く。
万が一、長く戻って来られなくなったとしても、大量の飲み水と食べ物があれば、とりあえず生きていけるはず。
『それほど用心するくらいならば、行かなければよかろうに』
「吾も同意見だ」
アルの足元をうろちょろしていたブランが愚痴めいた口調で言うと、クインがすかさず同調した。
二人とも、アルの意思を尊重し、今後の行動を認めてはいるが、アテナリヤを危険視する思いは拭い去れないでいるらしい。
「僕が行きたいんだよ」
どれほど言葉を尽くして安全だと告げようと、二人が心底納得することはないだろう。だから、アルは微笑んで簡潔に答える。
二人は――特にブランは、アルの意思に反したことは絶対にしないと知っていた。
『……ふん。わがままめ』
しかたなさそうにため息をつきながら、ブランはぐいっと体を伸ばす。まるで準備運動をするように。
そして、アイテムバッグを担いだアルの肩に助走なしで跳び乗った。
肩にずしっと感じた重さに笑みをこぼしながら、アルは横目でブランを窺う。丸い目がぱちりと瞬いた。
「付き合ってくれるの?」
『今さら聞くことか? アルが行くところに、我が行かん理由がなかろう』
「ふふ、そうだね」
わざわざ聞かれたことこそが不快だ、と言わんばかりにブランは鼻面にシワを寄せている。
『戻ってきたら、たっぷり旨いものを食うぞ』
「それ、いつものことじゃない?」
『いつもよりいっぱいだ!』
文字通り、山ほどの量を求められるかもしれないと思うと空恐ろしいが、気づかなかったことにしよう。
「吾は――」
「クインはお留守番をお願いします」
言葉を探すように視線を彷徨わせたクインを見つめ、アルは微笑む。
「……なにゆえだ」
「クインはアテナリヤとの約束を途中で破った形になるでしょう? アテナリヤ側が約束を反故にしようとしていた印象はありますが、明確に約束を無にしたのはクインの方です。対面すれば、なんらかの咎を負わされる可能性があります」
アテナリヤが重視する理は、アルたちの常識や認識とズレた部分も多い。そして、理から外れた者に、容赦なく咎を与えることを、アルたちはよく知っているのだ。ブラン然り、ドラゴンであるリアム然り――。
「……そうだな。アルの言う通りだろう」
残念なような、安堵したような、複雑な表情を浮かべるクインを、ブランがじっと見つめながら尻尾を揺らす。
『アルには我がついていれば十分だ。母は惰眠を貪っているがいい』
「……生意気め」
ハハッと笑ったクインが「――だが、確かにそうだな。アルにはブランがついていれば、なんの問題も生じないだろう」と呟いた。ブランは胸を張って『であろう』と答える。
クインの声には、ブランの実力を認め、アルとの固い絆を称賛するような思いが籠もっているように感じられた。
アルは微笑み、頷く。ブランがいてくれれば大丈夫だと思っているのは、アルも同じだ。
「あ、アルさん、宏がこれ持ってけって!」
騒がしい声が近づいてきた。
アカツキの手には大量の紙の束が握られている。
「なんですか、それ」
「俺はよく分かんないですけど、緊急で逃げる際に使える呪符? ってヤツらしいっす!」
よく分からないものを寄越されても困るのだが。
アルはそう思いながらも、呪符の束を受け取った。眺めてから「うん?」と首を傾げる。予想に反して、そこに書かれている文字はアルにも馴染みがあるものだった。
「……あ、これ、ヒロフミさんがくれた指南書に書いてあった理論の」
「一目で分かるアルさんすげぇ。いや、宏も渡せば分かるはずだからって言ってたんですけど」
拍手しながら褒めてくるアカツキに「どうも」と答えながら、すべてに目を通す。
どうやら【物理障壁】【魔力障壁】【身代わり】【転移】の四種類の効果を持った呪符のようだ。指南書通りなら、力を込めれば使える。
だが、本来の呪符はヒロフミたちの力――つまり、アルが使うものとは違う魔粒子を動力にして働くものだ。だから、アルでは使えないはず、なのだが。
「もしかして、この世界の魔力を使って発動できるようにしてありますね?」
「確かに、そう言ってました!」
アカツキが「そうだった、そうだった」と頷くのを見て、アルはわずかに呆れる。一番重要な説明を忘れないでほしい。
「……ヒロフミさんたちはどちらに?」
そろそろ出発の時間だ。きっと見送りに来てくれるものと思っていたのだが、わざわざアカツキに呪符を持たせるとは、なにか不都合が生じてしまったのだろうか。
「う〜ん……今、門のところに?」
「え、もう行ってるんですか?」
何故先んじて行く必要があるのか、と問うと、アカツキがこめかみを指先で掻く。
「アルさんに全部任せることになるのを、後ろめたく思ってる感じなんですよ。だから、桜と一緒に、門の前で内部を探れないか実験中?」
アルはぽかんと口を開けた。
「……それは、いつから?」
「昨夜から」
アカツキが即座に答える。
つまり、ヒロフミとサクラは、昨日話した後、アルが眠った後にこっそりと実験を始めたということだ。
「――俺たちも一緒に行けるなら良かったんですけど。どうも、行けないらしいですし」
ヒロフミたちは異次元回廊の代理管理者である。異次元回廊をクリアしたわけではない。だから、アテナリヤの元へ向かう門を知っていても、そこを通る許可は持っていないのだ。
「気にしなくていいんですけどね」
「アルさんならそう言ってくれるって分かってても、そうもいかないのが人間ってもんですよ。あ、俺たち人間じゃなかった。いや、でも、意識は人間のはずだし……?」
変なところで悩み始めるアカツキに、アルは肩をすくめる。
「心遣いはありがたく受け取っておきます」
呪符を取り出しやすいポケットにしまって、アルは歩き始める。
ヒロフミたちが知識の塔にいないのなら、ここに留まっている必要はない。そろそろ門に向かおうと思ったのだ。
『我が共に行くと分かっているのに、心配性が多すぎるな』
「そうだね。でも、別に、僕らのことを甘く見てるわけじゃないよ」
アルは苦笑しながら、不満そうなブランの頭を撫でて宥めた。ヒロフミやサクラが心から心配して行動していることは、ブランも分かっているはずだ。
『……ふん』
◇◆◇
二つの門が並ぶ。
一つは、外の世界に繋がる門。もう一つが、今日の目的である、アテナリヤの元へ続く門だ。
その前に立ったアルは、不思議な感じがした。これまでは、どうしてもこの先に進もうとは思わなかったのに、今日は招かれているような気がしたのだ。
「……アル」
「ヒロフミさん、何か分かりました?」
「いや……悪い。どこかに転移することしか、分からなかった」
悔しそうに口元を歪めたヒロフミが、ため息をつきながら立ち上がる。その横で、サクラもガックリと肩を落としてアルたちを振り返った。
「もう行くのね」
「はい。行くべきだと思うので」
固い意志を示すアルを、ヒロフミとサクラが少し不思議そうに眺める。
「よく分かんねぇけど、アルがそう言うなら、そうなんだろうな」
「一つだけ、約束して」
サクラに見据えられ、アルは首を傾げて先を促した。
「――何よりも、アルさんの身を優先することを。何も成果を得られなかったとしても、誰も責めない。アルさんが帰って来られるなら、それだけでいいの」
真剣に願う言葉に、アルは逡巡した後に頷く。
どうせなら成果を得たい、という気持ちをどこまで抑えられるか分からないが、サクラの願いを無視するつもりはなかった。元々、アル自身とブランが生きて帰ってきさえすればどうにかなるだろう、と思っていたし。
「分かりました。必ず」
ホッと頬を緩めるサクラに微笑んだ後、ヒロフミと握手を交わす。
「帰りを待ってる」
「なるべく早く戻ります」
次はアカツキと。
「新しいもの創りながら待ってますからね! 楽しみにしててください」
「……ほどほどにしてくださいね?」
温泉施設と同じくらいすごいものを創りそうだ。アルは苦笑して、肩をすくめた。
「アルの無事を祈る。ブランも」
「はい、ありがとうございます」
クインに頭を撫でられる。こういうことをアルにするのは、クインしかいない。だから、すこしくすぐったい。
アルと同じように撫でられたブランは、照れくささを隠すように『やめろ!』と喚いていた。
「――では、いってきます」
ブランの重みを肩に感じながら、門へと進む。
見送ってくれる人たちの温かさを感じれば、ここに戻ってこられないとは少しも思わなかった。
アルの意思を感じ取ったように、ゆっくりと開かれる扉の先は闇。
一歩踏み出すと、とぷっと身が沈むような心地がした。
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