第436話 距離をはかりかねる
アルはため息一つで思考を切り替えた。ジェシカを見つめて首を傾げる。
「トラルースさんのところから直接こちらに?」
あの場所から聖域に至る転送陣はないはずだ。だが、精霊が転移魔法を使えることを考えると、不可能ではないだろう。転移魔法の発動に必要な大量の魔力をトラルースが用立てられるかは不明だが。
「いいえ。精霊の森経由ね。マルクト様という方が、ちょうどトラルース様を訪ねて来られていて、帰りに便乗させてもらったの。精霊の森からは、ここに来るための転送陣を使ったわ」
「マルクトさんですか。それは納得です」
また懐かしい名だった。アルにとって、マルクトは同志や師のような精霊である。もちろん魔法学という意味で。
莫大な魔力を保有し、多種多様な魔法を操るマルクトにとって、ジェシカを連れて転移魔法を使うことは簡単だろう。
ただ一つ気になることがある。
マルクトはその才の高さから、精霊の中でも重要な役割を担っていたはずだ。それ故に、普段は精霊の森にさえおらず、自身が築いた空間内で生活しているのだ。
それにもかかわらず、精霊の森の外である魔の森を訪ねるとは、いったい何があったのだろうか。トラルースと仲が良いとはいえ、不自然である。
「——マルクトさんたちは、何か深刻そうな様子でもありましたか?」
慎重に問いかけると、ジェシカがきょとんと瞬きをした。
「いいえ? なぜそのような質問をなさるのか分からないけれど、精霊様方は穏やかで落ち着いた方たちだったわ。精霊様方に何か問題があったようには思えない」
「それなら良かったです」
ホッと息をついてアルが頬を緩ませると、ジェシカは微笑ましそうに目を細めた。
「精霊様方と仲がよろしいのね。あなたに会うと話したら、あの方たちも微笑んでいらっしゃったわ」
「……仲が良いと思ってもらえているなら嬉しいですが」
トラルースたちは親戚ともいえる相手だ。しばらく会ってないが、気にかけてもらっていることがジェシカの言葉から伝わってきて、アルは嬉しくなる。
「ふーむ。ということは、そなたはアルがここにいることを知って、会うために来たのか?」
不意にクインが口を挟んだ。これまで会話を静観していたが、聞かずにはいられなくなったようだ。
アルもジェシカの言葉は気になっていたので、じっと見つめて答えを待つ。
「あなたは、どなた?」
ぱちりと瞬きをしたジェシカが、不思議そうにクインを眺めた。
ジェシカは先読みの乙女としての記憶を引き継いでいると言っていたが、アルと精霊の関係はあまり理解してないようだし、クインについても心当たりがないようだ。
かつてクインは、ブランに課せられた罰をなくしてもらうために、異次元回廊の試練に挑んだ。そこで神と邂逅することになったのだが、その状況に導いたのは当時の先読みの乙女である。
もしジェシカがその記憶を持っていたのなら、クインのことに気づいて当然だと思うのだが。ただ人型だから分からないという可能性はある。
「アルからはクインと名付けられたが、吾は生きた森と呼ばれるところで過ごしていた聖魔狐だ。はるか昔の先読みの乙女と話したことがある」
「まぁ、そうなの。ごめんなさいね。わたくし、あなたのことは知らなかったわ」
ジェシカが目を丸くしてクインを見つめた。その瞳はキラキラと輝きを放っているように見える。珍しい魔物として有名な聖魔狐に会えたことが嬉しいようだ。
だが、ジェシカはしばらくクインを観察した後に、不思議そうに首を傾げた。
「——人のようにしか見えないわ。聖魔狐は狐のような姿なのだと思っていたのだけれど」
「人の姿を装っているだけだ」
クインは肩をすくめた後、一瞬で姿を本来の聖魔狐へと戻した。広々としていた空間が少し狭く感じるほどの巨体だ。
突然それを目にすることになったジェシカが「きゃっ!?」と小さく悲鳴をあげたのは当然だろう。そもそも、森の中で落ち着いて話している貴族女性の姿の方が、アルにとってはずっと違和感があったのだ。
『なんだ。そんなに驚くことか?』
口元を押さえて僅かに後ずさったジェシカに、クインが不思議そうに首を傾げる。
アルにとっては可愛いと思える仕草だが、魔物に慣れていない人間なら恐怖を覚えてもしかたないだろう。
「……驚くわ。わたくし、このように大きな魔物を見たのは初めてよ」
少し臆した雰囲気だったが、ジェシカは興味津々な様子でクインを観察し始める。その姿に、ソフィアと仲良くなれた理由が垣間見えた気がした。
ジェシカはソフィアより随分と貴族的な性格であるように感じていたが、根っこの部分で似た者同士なのかもしれない。
『そうか。それで、吾の問いへの返事はないのか?』
「あぁ、そうだったわね。えぇっと、わたくしがアルに会いに来たのかと問われたのよね? 答えはイエス、よ。ずっと会いたいと思っていて、あなたがここに来るビジョンが見えたから、会いに来たの」
ソフィアがにこりと微笑みアルを見つめる。その目に浮かぶ親愛の情に、アルはなんとも言えない思いを抱いた。
アルにとって先読みの乙女は、遠いような近いような、複雑な感情を覚える存在である。これほどまでに親しげにされても、どう対応するべきか答えが見つからない。
「……ビジョン、ですか?」
結局、曖昧な態度で質問を返した。
ジェシカはそんなアルの様子を気にすることはなく、「そうよ」と頷く。
「先読みの乙女の能力の一つ。未来が動く絵のように見えるの」
「未来が分かるというのは、あなた方が先読みと称される所以ですね……」
動く絵とは映像のようなものだろう。
以前だったら理解が難しかっただろうが、この聖域での記録を見ることに慣れた今では、ジェシカの言葉も軽く受け入れられる。
ここで過去を見られたように、先読みの乙女は未来を知ることができるのだ。
「そうよ。引き継がれる記憶は正直穴だらけなのだけれど……それは現在の人格を保持するために仕方ないことなのよね。あ、この言い方、理解できるかしら?」
「先読みの乙女が本来別人格の魂で、あなたはジェシカであり、同時に先読みの乙女でもあるということですよね」
改めて確認すると、ジェシカの微笑みが深くなる。嬉しそうに微笑まれたところを見るに、先読みの乙女のこうした事情が知られていることは問題ないようだ。
「ええ。今の意識としては、わたくし本来のものが強いかしら。自分でもよく分からない時も多いのだけれど……」
「不思議ですね」
「物心ついた時にはこうだから、もう慣れているわ」
アルはその返事を軽く聞き流しそうになって、ハタと気づいた。
ジェシカがそう言うということは、先読みの乙女は生まれながらにその魂を抱いているというわけではないようだ。
「……色々と、気になる話が聞けそうです」
「あら、わたくしに興味を持ってくれたのかしら? 先読みの乙女に、という方が正確かもしれないわね」
ふふ、と笑うジェシカは気を悪くした様子はなく、むしろ楽しそうだった。
わざわざアルに会いに来たということは、何か用事があるのだろう。それを一向に言い出さないから意図が読めないが、アルにとって悪いことにはならない気がする。
「そうですね。ぜひ教えていただきたいことがあります。——というわけで、一緒にお食事でもいかがですか?」
いつまでもジェシカを立たせたままでいるのはどうにも落ち着かない。そう感じていたアルは、ちょうど昼ご飯を用意しようと思っていたことを思い出して誘ってみた。
これも、初対面の貴族女性への礼儀を考えると、あまり褒められたことではないだろうが、森の中で従者さえ連れていないのだから、細かい注意なんてされないという確信があった。
『飯!』
ジェシカより先に反応したのは、アルが予想していた通りブランだった。
これまで面倒臭そうに会話を聞き流していたのが嘘のように、尻尾をぶんぶんと振って、目を輝かせている。
アルはそれを注意すべきか少し迷った。
「まぁ、可愛らしい。——素敵なお誘いをありがとう。ぜひご一緒させていただきたいわ」
ブランを見て、ジェシカが微笑ましげにしている。アルはソフィアもブランを可愛がっていたのを思い出した。
ブランは場の雰囲気を和らげるのに一役買うこともあるのだと再認識して、今回は食い意地の張った態度を見逃すことにした。
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