第435話 女性の正体
「会ったことはなかったけれど、存じ上げていたわ。お会いできてとても光栄よ」
片足を引き、スカートを軽くつまみ上げて、軽くお辞儀をする。そんな女性の仕草には、貴族のような優雅さが漂っていた。
まさか森の中でそのような挨拶をされるとは思っていなかったので、アルは驚いてしまう。
咄嗟に手を胸に当て頭を下げ返したのは、身にしみるほど教えこまれた貴族的な部分が刺激されたからだった。
『むずむずする……』
肩の上でブランが身を捩った。その顔は軽く顰められている。
魔物には理解するのが難しい振る舞いだったのかもしれない。これまで出会った高貴な身分の女性といえばソフィアくらいだが、彼女は王侯貴族として特殊な振る舞いをするタイプだった。目の前の女性とはまるで違う。
「どこで僕を?」
ブランの体を撫でて落ち着かせながら、女性を見据える。
「記憶で。あなたは先読みの乙女と呼ばれる存在をご存じかしら?」
「っ……ええ。何代かいらっしゃるんですよね?」
もしかしたら先読みの乙女に関わる人物では、と予想していたのだが、その可能性が高くなった。
「そうよ。わたくしは今代の先読みの乙女、ジェシカ・マノクリフと申します。ぜひジェシカと呼んでくださいませ。あなたのことは、先読みの乙女が代々引き継ぐ記憶で知っていたの」
女性——ジェシカがふわりと微笑む。
アルは「今代……」と舌の上で言葉を転がした。
前々から、先読みの乙女の魂が誰かに引き継がれている可能性は考えていた。だから、こうしてジェシカと対面し、ついに来たかという思いを抱く。
「レディ・ジェシカ」
「ただのジェシカよ」
貴族っぽい雰囲気に合わせてつけた敬称は気に入られなかったようである。軽くぷくっと頬を膨らませたジェシカを見て、アルは少し困ってしまった。
ソフィアのように、アルと近いタイプの女性とは話しやすいが、ジェシカのような女性にはあまり馴染みがない。貴族的な女性に対して良いイメージを持っていないから、つい身構えてしまうのだ。
「……では、ジェシカ。僕はアルです。どのような形でご存じだったのかは分かりませんが、敬称なく呼んでいただけましたら幸いです」
「アル、よろしくね。堅苦しい言葉遣いもしなくてもいいのよ?」
「……それは気をつけます」
再度願われたことに苦笑を返し、アルはジェシカをじっと見つめて観察した。
柔らかな物腰で、貴族的な振る舞いから考えても、ジェシカはどこかの高貴な立場の者だと思う。ただグリンデル国で見た覚えはない。
この森は聖域だ。代々の先読みの乙女が訪れる場所だから、ジェシカがここにいることは不思議ではないのだが、アルと同じタイミングで来たことにはなんらかの意味があると感じる。
「——ご出身はどこなのでしょう」
「ラズール国よ。伯爵家の三女。わたくしの家はドラグーン大公国に一番近い領地を治めているのだけれど、アルはご存じかしら?」
「ああ……確か、金属加工で有名な」
記憶を探って、情報を見つけ出した。
マノクリフ伯爵領は、ドラグーン大公国から産出される金属を輸入し加工することを生業としている者が多い場所である。そして、ドラグーン大公国同様、帝国の属国であるため、現在は戦争特需で賑わっているはずだ。戦争には良質な金属が欠かせない。
「ええ。戦争屋なんて称されることもあるわね」
初めてジェシカの顔に苦い色が滲んだ。
自身の出身地に対する評価に、思うところがあるらしい。だがそれは、先読みの乙女のあり方を考えてみれば当然かもしれない。
先読みの乙女はたいてい世界平和を望んでいると思われる。世界の崩壊危機を理解し、それを避けようと努めているはずだ。
だから、生まれ育った領地での産物が戦争に助力しているという現状は、好ましいものではないだろう。たとえそれによって豊かな生活ができているという自覚があったとしても。
アルは返す言葉がなく、迷った末に気になったことだけを指摘することにした。
「ここへはどうやっていらっしゃったんですか?」
ラズール国とは遠く離れた場所にある聖域。ドラグーン大公国近辺に転送陣はなかったはずなので、貴族女性が気軽に来られる場所ではない。
アルの当然の疑問に、ジェシカが表情を緩める。
「魔の森の中に住む精霊様にご助力いただいたの。ドラゴン様にもね」
「リアム様とトラルースさんですね」
「ええ。ソフィア様に遠出の相談をさせていただいたら、リアム様がトラルース様をご紹介してくださったのよ」
アルは軽く目を見張る。ブランが『懐かしい名を聞いたな』と呟いた。
まさかここでソフィアの名を聞くことになるとは、アルたちは思っていなかったのだ。だが、隣国にあたり、関係が深いはずなので、知り合いでもおかしくない。
「ソフィア様が……。お元気そうでしたか?」
アルが知るソフィアは、帝国からの縁談の話が来て大変そうだった。そもそもドラグーン大公国が帝国から独立するかもしれないという状況で慌ただしく、落ち着いて話ができていない。
「そうね。ラズール国がドラグーン大公国の独立支援と帝国との緩衝役を担うことになって、わたくしの父がその大役の代表を務めることになった関係で仲良くなったけれど……大変なお立場から解き放たれて、最近は楽しそうだったわ」
「もう独立が決まったのですか?」
意外な答えに、アルは目を丸くした。
帝国とドラグーン大公国の関係は、しばらく落ち着くことはないと予想していたのだが、いったい何が起きたのか。それはおそらく、ラズール国がドラグーン大公国の味方をしたのが大きな一助となったのだろう。
ジェシカがにこりと微笑む。その表情は、どこかホッと安堵しているようにも見えた。
「まだ本決まりではないわ。でも、じきに発表されるでしょうね。ラズール国を通して、金属が帝国に渡るのを良しとしたことで、ようやくまとまることになったのよ」
「なるほど。……違う意味でも、帝国にとってドラグーン大公国は意味のある国だったと思うのですが」
「ドラゴンを求めるタイプだからこそ、ドラゴンに拒否されればそれを受け入れるしかないということじゃないかしら」
アルが暗に指摘した言葉を、ジェシカがあっさりと言ってのけた。
帝国にとって、ドラゴンを擁する国という意味でドラグーン大公国は重要だったのだ。ドラゴンであるリアムの意志がはっきりと示されたならば、それを無視することは帝国であっても不可能だったということか。
「リアム様が、ねぇ……」
アルはぽつりと呟き、ブランと視線を交わす。ブランは少し不機嫌そうだった。ドラゴン嫌いは生理的なものだから仕方ない。
『あまり人間のあれこれに関われない立場のはずだがな』
「神の理からは外れていないってことかな」
『さて、どうだか。……あやつは、ドラゴンということを抜きにしても、何を考えているのかよく分からん』
ブランが落ち着かない雰囲気で尻尾を揺らす。
その言葉を聞いて、アルも「確かに……」と同意するしかなかった。
リアムとの付き合いはそれほど多くないが、謎めいた言動に振り回されたことはある。
アカツキのことに関してや、アルたちを異次元回廊に導いたことなど、何らかの思惑があるのは間違いないと思うのだが、真意がいまだに読めていない。
今回、ジェシカを聖域に送るための段取りに介入したのも、何か意味があることなのでは、と思う。その答えは分からないが。
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