第430話 身近な不思議
不意に『アル』といたわるような声音で名を呼ばれる。
『心を悩ますばかりではなく、楽しいことを考えてみたらどうだ? そうだな……過去に存在していた料理のレシピとか』
「え。なんですか、それ」
ソーリェンの言葉とは到底思えないような発言だった。目を丸くしていると、密かに笑うような気配がする。
『大義はあろうと、アルは自由に生きる権利もある。好きなことに時間を費やしても構うまい。私が保有する記録には、多くの天才と言われる料理人たちのレシピもあるぞ』
「……正直、すっごく気になりますね」
話の雰囲気が随分と変わったが、心が緩んでいく気がした。思い詰めていたって、良い方向に進むとは限らないのだから、息抜きは必要だろう。
にこりと笑ってソーリェンの話に乗ると、満足げな雰囲気が感じられた。
『それならば、普通の聖域というものも体験してみるといい。私が介在するばかりでは、真の聖域を味わったとは言えないからな』
「あぁ……そういえば——」
そう言われて思い出したが、この空間でソーリェンと話して情報を得るのは、特別なことなはずだ。
普通は白い森の中にある建物の中で記録を見ることができるのだと、クインが話していた気がする。アルもそれを体験してみたいとは思っていたのだ。
「ここから、普通の聖域の場所に行けるんですか?」
放棄された塔やその他の転移塔を経由するのなら少し面倒だ、というアルの思いを察したのか、ソーリェンがすぐさま『もちろん』と返事をしてくれた。
『聖域に行きたいと思えばすぐだな。ただし、ここを再び訪れようと思うなら、放棄されし塔を経由して来なくてはならない』
「一方通行ということですね」
聖域は記録の中に存在しているわけではないのだから、先ほどと違っても当然だ。アルは頷いてから暫く考える。
ここで果たすべき目的は無事達成できた。ソーリェンと話さなければならないことは今のところないし、もしできたとしても再び来ることは可能なのだから難しく考える必要はないだろう。
「——では、そろそろお暇することにします。食い意地の張った相棒が、ご飯をねだる頃合いでもありますし」
盛大にお腹を鳴らしているブランを想像し、アルはふっと微笑んだ。
今晩は虎の肉を使った料理を作らなくてはならない。何を作ろうか、と考えるとアルも楽しみになってくる。
『そうか。では共に行くといい。聖域の中は、簡単に傷は付かないが、無闇矢鱈と暴れるのではないぞ。追い出すからな』
「そんなことができるんですか?」
ソーリェンが聖域内のことに干渉できるというのは意外だ。ここで話していると、普通に生きている相手に思えるが、ソーリェンは聖域の礎になった存在なのだから。自由意志で力を行使できるとは思えなかった。
『聖域を守る行動の一環として、ある程度の防衛機構がある』
「……なるほど。では十分に気をつけます」
霧の森を管理するシモリの言葉を思い出した。シモリは森を守るために、だいぶ物騒な防衛機構を持っていたはずだ。似たようなことをソーリェンもできるのかもしれない。
「——ちなみに、それがどういうものかは教えてもらえますか?」
『それは特秘事項だ。開示は不可能。知りたいからと、体験しようなどとゆめゆめ思うでないぞ』
軽い口調だが、間違いなく脅し文句だ。
アルは神妙な心持ちで頷いた。ここで好奇心を発揮するほど愚かではない。
「分かりました。それでは、いつかまた」
どう挨拶するべきか迷った末に、随分とそっけない感じになってしまったが、ソーリェンは気にした様子もなく優しい声音で『ああ、また』と返してくれた。
『——生きている限り、いつでも再会の機会はある。何か知りたいことがあれば、遠慮なく来るといい』
「ありがとうございます」
微笑みながら、頭の中で『聖域に行きたい』と考える。途端に視界が一転した。
瞬きの後に目の前に広がっていたのは、見覚えのある白い森。だが、どこか違う雰囲気がするのは、ここが記録の中ではなく現実だからだろう。
「ブランたちはいつ来るかな——」
アルがそう呟いた矢先、ふっと気配が現れるのを感じた。
「ブラン、クイン、早かったね」
振り返ると、尻尾を揺らすブランと周囲を眺めるクインの姿がある。無事同じところにやって来られたようだ。
『うむ。アルが聖域へと出て行ったのを見届けて、すぐに追ったからな』
「吾はこの移動に慣れている、というのもある」
答える二人に頷きながら、アルは腰に手を当て首を傾げた。
夕陽がブランの白い毛を赤く染めているのを見て、聖域には時間の流れがきちんとあるのだと察する。つまり、もうすぐ夜になるのだろうと考えれば、この後の行動は決まったも同然だった。
「そっか。それじゃあ、ここで野営をするってことでいい? ブラン、お腹空いたでしょ」
『当然だな! 虎の肉!』
ブランも忘れていなかったらしい。すかさず主張されて、アルは吹き出すように笑ってしまう。
ブランらしくて微笑ましい。
「……まったく。だが、ここで危険にあう心配はない。ゆっくりと休むといいぞ。いろいろと考えることがあって疲れただろう?」
「そうですね。ご飯を食べたら、早めに休みましょう」
気遣ってくれるクインに感謝しながら、アルは作業を開始した。今は早くご飯を作るべきだ。よだれを垂らしそうな勢いでお腹を空かせている存在がいるから。
「聖域内で記録を読めるところは吾が案内できる。料理のレシピだったか? 随分と珍妙なものを所望しているようだが、まぁ、明日は好きに探ってみるといい。気分転換は大切だ」
苦笑されたが、アルは気にしない。知りたいのは料理のレシピだけじゃなくて、様々な魔法技術もだ、という主張はしなくても二人にバレているだろう。
どれだけ時間を費やしても、文句を言いつつ付き合ってくれるのだろうと思って、アルはつい頬が緩んだ。
◇◇◇
本日の夕食のメインメニューは
緑黄虎をいつ狩ったかは正確には覚えてない。おそらくブランにねだられて肉確保に勤しんだ時に狩ったものだろう。
『ほほう、良い匂いだな!』
クンクンと料理の匂いを嗅いだブランが、ご満悦な雰囲気で頷く。一応アルが席に着くのを待ってくれているらしい。
「そうだね。お肉を鑑定したら、久しぶりにレシピをおすすめされて作ってみたんだ。鑑定眼って、意思があるみたいに不思議な情報くれるよね」
『相変わらず、普通の鑑定とは違う感じがするな』
「確かに、吾もそんな話は聞いたことがない」
首を傾げるブランとクインを見て、アルは鑑定眼についてもソーリェンに聞いてみれば良かったと少し後悔した。
話していた時は思い出さなかったのだから仕方ないが。それに、ソーリェンに尋ねてみたとしても、答えが得られる可能性は低い。鑑定眼が示す情報なんて、さすがにソーリェンが記録する範疇から外れているだろう。
「ま、いっか。今のところ、たまに使えなくて不便だなって思うだけだし」
『それが一番迷惑なのではないか?』
「でも、鑑定眼のせいって言うより、その場の環境の問題だからねぇ」
アルは肩をすくめながらフォークを手に取った。それを合図と捉えたのか、ブランが大きく口を開けて肉に食いつく。
ブラン用のお肉は少し大きめにカットしたから、その歯ごたえも楽しんでほしい。
『うっまーい! 少し辛みのあるミソが肉の臭み消しにもなっているようだな』
「そうだね。癖のあるお肉だったみたいだから」
アルも野菜と一緒に肉を一口。ピリッとした辛みとミソのコク。そして肉の旨み。野菜が良い塩梅で辛みを中和してくれていて食べやすい。これは絶対にコメが合う料理だ。
鑑定眼に勧められてコメを用意していて良かった、と思いながら口に放り込む。コメのほのかな甘みを感じて美味しい。
「——回鍋肉っぽいかな」
『なんか、そういう名は聞いたことがある気がするな?』
「ドラグーン大公国の料理だよ。厳密に言うと、魔族から伝わった料理かもしれないけど——」
そう言っている途中で、アルはふと気づいた。
鑑定眼でおすすめされる料理の多くは、魔族に関連したものではなかっただろうか、と。
最初はコメを使った料理。その後はミソスープなど。
鑑定眼が魔族の知識まで網羅しているのが、なんとなく不思議に感じられて、アルは暫し首を傾げて考え込んだ。
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