第426話 映し出される

 イービルの手が止まる。

 壁面には完成形と思しき模様が描かれていた。


 それをすべて書き写し終えて、アルはイービルの動向に目を凝らす。

 この模様が何を意味するのか。魔法陣同様の効果を持つとして、どのような現象が起きるのか。


『……うむ?』


 固唾を呑んで見つめていたアルたちの前で、アカツキがふらりと体勢を崩した。地面に倒れ込む姿を見て、アルは思わず手を出しそうになる。


「あっ——……すみません」


 クインの腕に止められた。それですぐに、これが過去の記録であり、干渉しようとしたところで意味がないことを思い出す。


 そんなことも忘れるほどアカツキを心配した自分に呆れる気分で苦笑しながら、クインに謝ると、軽く肩をすくめられた。


「気にするな。だが、あまり干渉しようとすると、記録が乱れるか、追い出される可能性があるのでな。気をつけた方が良かろう」

「え、そんなことが……?」

「ああ。記録の保全に邪魔だと判断されるのかもしれぬ」


 今更の注意事項に、アルは思わず渋い表情をしてしまった。

 ソーリェンは、記録に干渉したところで過去を変えられるわけではないとしか言っていなかった。

 まさか、干渉しすぎたら記録を追えなくなるなんて。そのように重要なことは早めに教えてほしいものだ。


『それでなくとも、アカツキは傷一つ受けぬ体質なのだから、心配する必要がないだろう』


 ブランが視線を逸らさないまま、呆れたように言う。

 倒れたアカツキは地面で横になり、イービルはじっと壁面の模様の仕上がりを確認するように見つめていた。


「そうだとしても、心配するのが人間だし、友人というものだと思うよ? ブランだって基本的に怪我なんてしないけど、僕は心配するし」

『っ……そういうものか』


 ブランが落ち着かなそうに尻尾を揺らす。どうやら照れているらしい。

 だが、ふと何かを思い出したかのように、視線をアルへちらりと向けた。


『——いつだったか、我で毒見をしたことがなかったか?』

「え、あったかな?」


 なんとなく記憶にあるような気がしたが、しらっととぼける。ブランのジトッとした眼差しが刺さるように感じられた。実は根に持っていたようだ。


「そんなことより」

『全然、そんなことという程度のことではないぞ!』

「うるさい、ブラン」


 クインが何かを言おうとしたのを遮るブランに、冷たい視線が注がれた。クインにとってはどうでもいい話題だったのだろう。実の息子に関わることなのに、時々冷めている親である。


「あ、イービルに動きがあったみたい」


 クインが言わんとしていたことを察して、アルはぽつりと呟いた。

 憤懣やる方ない様子のブランだったが、さすがに文句を続けることなく状況の変化を注視する。


『発動させるつもりのようだな』

「うん。やっぱり、イービルが描くものは詠唱とセットみたいだね」


 壁面に手を翳し、歌うように何かを囁いている姿に目を細める。どれほど集中して聞こうとも、その声は風の音のようにしか聞こえない。


 もし、この魔法陣と思しきものをアルが発動させなければならなくなったら、この詠唱が一番の問題になるだろう。上手く解析して、アルが使える形式に直せるならいいが——それはヒロフミがどの程度理解可能かによる。


「これはまた光が放たれるパターンか?」

「その可能性はありますね。目をやられないよう気をつけておきましょう」


 記録内での出来事で怪我を負うことはないと分かっているが、一瞬の痛みが生じたのは事実だ。少し警戒してしまうのは仕方ない。


『ほう……それほどの光があったのか』

「うん、結構強いよ。まぁ、同じ効果のものとは思えないから、光は放たれないかもしれないけ、ど——」


 ブランと話している最中に、イービルの声が止まったのが分かった。

 壁面の模様が浮き上がるように光を放つ。それは目を射るほどの強さではなく、雨上がりの空にかかる虹のように、美しいグラデーションで輝いた。


 ふわっと風が吹き付けてくる。

 海の中のはずなのに風? ——と思った矢先に、水がアルたちを押しつぶそうとするように荒れ狂った。


「うわっ!?」

『アル、掴まれ!』


 服の裾を噛まれて、流されそうになるのを止められた。ブランの首元に抱きつき、ぐっと奥歯を噛み締めて、流れが止むのを待つ。四方八方から押し寄せる波は、まるで嵐の中に放り込まれたような激しさだ。


「……ふ……酷い目にあったな」


 数秒か数分か。判断もできないほどの時間、水に翻弄された後。ようやく水の流れが穏やかになってきて、クインがぽつりと呟く。

 アルは無言で同意しながら、乱れた髪を撫でつけ、イービルの方へ視線を向けた。


「え……」


 見えた光景に思わず目を見開き、ぽかんと口を開ける。


 イービルの前、壁があったはずのそこに、見たことのない景色が広がっていた。

 灰色の建物、色鮮やかな看板、道を行き交う人々の多くはのっぺりとした顔立ち。


『異次元回廊内の影共が彷徨いている街に似ているな』

「あ、確かに。だけど、歩いているのはちゃんと人っぽく見えるよ」


 黒い影ではなく、きちんと人間らしい姿。よく見ると、それぞれに個性があって、作り物のようには感じられない。


「これは、もしや、アカツキの異世界での記憶なのではないか?」

「そうですね。その可能性は高そうです。もしくは、この瞬間に異世界と繋がっていて、覗き見ている感じでしょうか」


 クインの意見に頷きながら、さらに思考を進める。

 アカツキの記憶、あるいはアカツキを介して異世界に干渉することを可能にするのが、イービルが描いたあの模様であるということは十分考えられる。

 ただし、その場合、アテナリヤでも難しいことがイービルはできたということになるが。


『イービルは随分と集中して眺めているな』


 ブランが不思議そうに言う。

 確かにイービルは、窓を覗くように目の前の光景をじっと見つめ続けていた。その顔に表情がないから、何を思っているかは全く分からない。

 だが、その集中ぶりは、なんらかの目的を持ってしている行動なのだと示しているように思えた。


「異世界の光景を観察して、何をしようとしてるんだろう?」


 アルは首を傾げながら、イービルと異世界の光景を眺め続ける。

 暫く静かな時間が流れたが、不意にクインが「ん?」と声を上げた。


「——移動してないか?」

「え……あ、本当だ」


 指摘されて気づいた。異世界の光景の視点が、少しずつ動いている。まるで人が歩いているように、僅かに上下しながら、時折周囲の方へ移ろいでいくのだ。


『これはアカツキの視点から眺めた異世界の光景なのではないか?』

「記憶を忠実に再現してる? ……っ、もしかしたら、異世界にいるアカツキさんが見ている景色?」


 ふと気づいた可能性に、アルは大きく目を見張った。

 ここにいるアカツキはこの世界で魔素により体が作られ、記憶などの人格が植えつけられたものと考えられる。その人格の基になった存在は、異世界にいるのだ。


 もし、人格が共通という接点により、異世界で生きている者の視界を映し出せるとしたら、今アルたちが見ているもののように見えるのではないだろうか。


「……なるほど。その可能性は否定できない。アカツキがこの世界に来る以前の記憶なのか、リアルタイムで見ている光景なのかは、本人しか分かりようがないだろうが」

「そうですね。本人に聞いたところで、分かるかどうかも不確かですけど」


 記憶障害を持っているアカツキに期待するだけ無駄というもの。だが、この技術がサクラやヒロフミにも使えるなら、判明する可能性は高い。

 そのためには、イービルが使った魔法陣らしきものを使えるようにならないといけないわけだから、問題は山積している。


 だが、なんとなく光明が見えた気がして、アルはじっと目の前の光景を眺め続けた。

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