第425話 暗い海底に沈む
悩ましい顔をしていたアルたちに答えをもたらしたのはクインだった。
「吾の知る限り、記録を見る時間分だけ、外の世界でも時間が流れているはずだ。つまり、ブランの体感が最も正しいだろう。魔道具を使えるのだから、時計自体も誤差はないと思うぞ」
「あ、そっか。クインはこれまでにも記録を見たことがあるんですよね」
時計を見るとそろそろ夕刻。ブランの腹時計はやはり正確だ。
それを確認した後に、『クインはどうしてさっき返答を迷っていたんだ?』と気になった。すぐに教えてくれたら良かったのに。
ちらりと視線を向けると、アルの疑問を読み取ったのか、クインが肩をすくめる。
「吾は、ソーリェンと話す空間がただの記録とは思えなかったからな。そこでの時間の流れは、吾が知るものとは異なる可能性がある。それゆえ、その時間が正しいとは断言しかねた」
「……つまり、ブランの腹時計とこの時計も、参考程度にとどめろ、ということですね?」
アルが念の為に確認すると、クインが頷きながらも苦笑した。
「だが、ソーリェンがアルにとって悪いことをするとは思えぬ。何年も経っているなどということは、心配する必要はなかろう」
「確かに。ソーリェンさんは結構親切な方ですしね」
アル限定で、という話なのかもしれないが、間違ってはないだろう。多少アルを試すような真似をしても、不利益になるようなことはしないだろうという程度には、ソーリェンのことを理解しているつもりだ。
納得したところで、イービルたちの方で動きがあった。
「——あ、見てください。イービルが新たに何か描いてます」
イービルが壁面に向かい、再び石で削り始めていた。石を握る手の反対で、アカツキの額に触れているのがなんとなく気になる。
『うむ。……ここは壁面を削るしか、描く方法がないのだな。そもそもイービルは何故こんなところにいるのだ?』
今更のような疑問を呈したブランに、アルは「確かに、それは不思議だよね」と返す。ある程度答えは見つかっていたが。
「——イービルがアカツキさんを含めた魔族を生み出したのって、一度精霊たちに手傷を負わされて逃げ出した後、っていう話があったはず」
『う、ん? ……ああ、そういえば、そんな話もあったな。神——アテナリヤからイービルを討つよう、精霊たちに指示があったんだったか』
「精霊たちの攻撃はイービルに対して効果が小さく、討つまでには至らなかったと言っていたな」
続けて情報を整理してくれた二人にアルは頷く。
「そう。逃した後は、魔族が生まれた気配を感じるまで、イービルがどこにいたか分からなかったって。……それって、神がここに封じてたとは考えられない?」
『なに?』
ブランが勢いよくアルを振り向く。クインも眇めた目で見つめてきた。
アルは目の前にある鉄格子に触れながら、小さくため息をつく。初めから思っていたが、ここはあまりに牢獄に似ている。アカツキがいたダンジョンよりもよほど。
「わざわざ神は精霊にイービルを討つよう指示した。それは神の力ではイービルを討てない事情があったからだと思う。でも、こうして封じることはできたんじゃないかな」
「その可能性はあるな。神がしたことであるからこそ、精霊たちにも把握できなかったということだろう」
クインが重々しい口調で言いながら頷いた。
続いて、ブランがイービルを通して誰かを睨むようにしながら口を開く。
『加えて言うなら、精霊でも完全にイービルを討つことはできないと判断していたということではないか? できるなら、ここに封じる前に精霊に差し出して討たせれば良かったのだからな』
その推測はアルも同意見だった。
ここはアテナリヤがイービルのために用意した海底の牢獄。イービルが当たり前に生きていられるのは、そうできるように環境が整えられているか、もしくはイービルの能力によるかだろう。
「このような空間に、長い時間、独りでいたというのか……」
クインがポツリと呟いた。アルも周囲を見渡して目を細める。
魔道具の明かりがなければ、ここは暗い闇に包まれる。こんなところに閉じ込められたなら、アルは一週間だって生きていられない気がした。
「……イービルがどの程度人間らしい感覚を持っているかは分かりませんけどね」
壁面に向かって作業中のイービルの顔には表情がない。もともと人間らしい感性がなかったのかもしれないが、少し痛々しい気がしてしまうのは、見た目が人間そのものだからだ。クインたち曰く、人間とは違う存在感だそうだが。
『どうにも、神は好きになれん』
「好きになる必要はないんじゃない? 事実は事実として受け止めれば十分でしょ」
神の行いに何を思うかは、それを知った者の自由だろう。アルはそう思って、自分の感情を片付けた。
今はイービルの姿を見ているから同情的になってしまうが、彼女が魔族たちの悲劇を生み出した原因であることは間違いないのだ。
そして神にとってはイービルが最大の悪である可能性を、アルは知っている。どちらの立場で考えるかで、事実へ抱く感情は様変わりするものだ。
「——それにしても、あの模様……目的の魔法陣に似てない?」
アルたちが話していた間に、イービルの作業は佳境を迎えていたようだ。
壁面に描かれた模様には見覚えがある。いくらか知らない部分があるのは、アルたちに示されていなかったものだろう。
異次元回廊で示された魔法陣をメモした紙をブランたちに見せ尋ねると、二人からも同意が返ってきた。間違いなさそうだ。
『ようやく、目的の記録に辿り着いたわけだな』
「ここまで長かった。様々な情報を得られたとはいえ、少しばかり疲れたな」
ブランとクインがため息まじりに言うのを聞きながら、アルは壁面の模様を紙に書き写していく。
なんとなく魔法陣らしく見えるが、理解が及ばないのは、アカツキを創り出した魔法陣と同じように、アルが知る魔法陣とは形式が異なるからだ。ヒロフミに聞いて解析できるといいのだが。
「何を目的としたものかは分からないけどね」
『確かにそうだな。あれを見ると、アカツキから何らかの情報を引き出して描いているように見えるが』
ブランが鼻先で示したのは、アカツキの額に触れているイービルの手だ。あの仕草に意味がないとはアルも思えない。
額は脳に近い。もしかすると、あれはアカツキから記憶を読み取っているのかもしれない。
「……イービルは、人の記憶を読み取る能力がある?」
「オリジネでさえできたのだ。イービルができても不思議ではなかろう」
「ああ、確かにそうですね。オリジネは一瞬の思いを読み取っていましたけど、触れていればあのように過去の記憶も読み取れたのかも」
クインの指摘を受けて、アルは納得した。そもそもイービルは神に匹敵する能力を持っていても不思議ではないのだから、記憶を読み取るくらい簡単だろう。
そうなると、イービルがアカツキからどんな記憶を読み取っているのかが気になるところだ。
『……魔族の基、か』
アルが辿り着いた答えを言葉にしたのはブランだった。おそらくクインも同じことを考えているだろう。
書き写した紙に視線を落とし、アルは思考に沈む。
この魔法陣らしきものが魔族を生み出す基になる情報だったとして、それがなぜアルたちに示されたのか。
示したのは、アテナリヤ——あるいはアカツキの婚約者リアだと思われる。婚約者の存在をアカツキに思い出させ、アルに何をさせようとしているのか。
「あれが発動されたら、その答えが分かるかな……」
呟きながら、アルは視線をイービルの方に戻した。
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