第422話 ある記録

 そこは、暗い水底のように見えた。

 緩やかな水の流れを全身に感じるのに、息が苦しくなることはない。不思議な感覚だ。


 ふと、上から一筋の光が届く。

 照らされた地面は砂地で、海藻らしきものが生えているのが分かった。


「ここは、海の底……?」


 いったい誰のどのような記録なのだろうか。

 ソーリェンが把握していないようだったのだから、神か、あるいはそれに準じる存在——イービルや先読みの乙女など——だと、アルは思っていたのだが。彼らが海の底にいるなんて話は、聞いたことがない。


 視線を周囲に巡らせる。

 ついでにアイテムバッグから明かりを取り出した。これで多少は見やすくなる。魔道具が使える環境のようで良かった。


 過去の記録だから、このようなアルの行動は、記録主が把握できないはずだ。だから、隠れ忍んで探索する必要はない。


「とりあえず、周囲を巡ってみるか……っ」


 不意に水の流れの変化を感じた。それと同時に新たな気配が二つ現れたのを察知する。

 気配を追って勢いよく振り返ると、見慣れた姿が視界に飛び込んできた。


「——ブランとクイン!?」

『随分と久しぶりな気がするな』

「アルが元気なようでなによりだ。吾らはアルの記録を後追いしていたようだが、一瞬先にどうなっているか分からなかった故、心配していたのだぞ」


 擦り寄ってきたブランの頭を反射的に撫でながら、アルはクインに対して眉尻を下げた。

 クインは怒っているわけではないようだが、少し拗ねた雰囲気だ。それが言葉通りにアルを心配していたからなのだと分かっている。


「すみません。一応、記録を後追いしてもらうことで、安全を知らせたつもりだったんですけど」

「一旦合流してくれた方がありがたかったな」


 些細な恨み言だ。それを聞きながら、アルは確かにそうだと思って頷いた。


 ソーリェンから提案されたのが、二人の記録を変更させることだけだったので、合流することを考えもしなかった。だが、今のような形で説明してから、ソーリェンと話をするのでも良かったはずだ。


 そのことをソーリェンが気づいていなかったとは思えない。アルは試されていたということだろうか。それならば、期待に添えなかったということになる。


 言い訳をしていいなら言わせてもらいたい。

 ソーリェンに提案された時はまだ、この記録の仕組みをよく理解していなかったから、仕方ないと思うのだ。

 ソーリェンと対話できるあの空間から離れて、放棄された塔を経由せずに、再びソーリェンと話せるという保証がなかった。ソーリェンと対話をした今は、たぶん大丈夫だろうという思いがある。


「二人はどのタイミングでここへ?」

『アルが消えたのを見てすぐだ。おそらく、我らがいた記録の中とアルの時間差はあまりなかったのだろうな』


 ブランたちもアルたちの話を聞いて、記録に関する理解は十分なようだ。状況を解説をする必要がないようでありがたい。


「そっか。それじゃあ、これからここの探索をすることも分かってるんだよね?」

『ああ。早く動こう。おそらく時間に余裕を持って記録の中に放り込んでくれているだろうが、必要な情報を見逃すかもしれないぞ』

「え、どういうこと?」


 ブランの言葉を理解しそこねた。途端に、呆れたような目を向けられる。


『ここは過去の記録の中だろうが、現実同様に時間の流れがあるんだぞ? あの魔法陣に関する情報が、どの時点で出てくるか分からない』

「そうか! 見逃しちゃったら、また最初から見る必要があるってことだね」


 アルが思っていた以上に、ブランは記録というものを理解していたようだ。先程まで別物とはいえ記録の中に取り込まれていたからかもしれない。

 忠告を受けて、慌てて行動を開始する。とはいえ、どこを見ればいいのか全く見当がつかないのだが。そもそも人影すらない。


「あちらに人のような気配があるな」

「どこですか?」


 クインが示した方向に明かりを向ける。

 照らされる範囲はおよそ二メートル。水底だから遠くまで光が通らないのだ。これは近づいて確認するしかないだろう。


 ブランを先頭に、クインに挟まれる形で歩き始めた。

 記録に干渉する危惧はないのだから、遠慮なく会話を続ける。


「——人のような、ということは完全に人とは断言できない感じですか?」

「そうだな。不可思議な気配だ。どこかで感じ取ったことがあるような気もするが……」

『そもそも水の中で生きられる人間がいるのか? 我らは記録から干渉を受けないからこうしていられるだけだろう』


 ブランの言葉は正しい。状況に慣れて、うっかり失念していたが、ここはおそらく海の底なのだ。人間が生きられる環境ではない。

 もしかしたら、魔道具を用いれば、ある程度は可能かもしれないが。


「海の中で生活を可能にする魔道具……考えがいがありそうだけど、必要性が今のところないなぁ。それに魔力消費が激しそう。迷いの魔法以上の魔力量が必要かも……」

『それはこの状況で考えるべきことか?』


 呆れた目でブランがアルを振り返る。思わず口を噤んだ。

 二人と合流できたことで気が緩み、精神的に余裕ができた結果、いつものように魔道具作りへと意識が向かってしまっていたのを自覚する。なんとなく恥ずかしい。


「ふっ、アルが楽しそうなのは良いことだ」

『限度があるがな』


 アルの気の緩みは、二人にも察知されていたようである。クインから微笑ましげな眼差しを感じて、アルは思わず頬をかいて目を逸らした。


「……あ、見て、あれ!」


 視線を向けた先に、大きな岩が見えた。

 地面に接したところから、くり抜かれるように穴が開いている。だが、その穴はいくつかの鉄の棒で牢屋のように封じられていた。


 海の底に突然現れた異様なものに、アルは思わず息を呑みながら歩を進める。

 ブランとクインも、警戒感を強めてゆっくりとそれに近づいていった。


 鉄の棒は腕が通るほどの隙間があるようだ。そこから明かりを中にいれると、人の姿が浮かび上がる。

 その人は黒いワンピースを着ていて、尖った石で壁面の岩に何かを刻んでいた。


「——女の人……?」

『そう見えるが』

「気配は人間とは違う気がする。というか、あれは——」


 クインの言葉を遮るように、風のような音がする。

 水底で風の音。随分な違和感がある、と思った次の瞬間にアルは気づいた。これは風ではなく言葉だ、と。

 オリジネが口にした、女神がこの世界に来る前にいた場所の名前は、目の前の女性が囁いているような言葉と同じように聞こえたのだ。


「どういうことだろう。オリジネ以外にも、あの言葉を使える人がいたということかな。あぁ、そういえば、魔族なら知っているかもって聞いたんだった」


 情報を整理しながら呟くアルの肩が、トンと軽く叩かれる。横目で窺うと、クインが硬い表情で女性の方を凝視している。


「……アテナリヤに似ている」

「え?!」

『ん? ……言われてみれば、そんな気がするような、しないような?』


 人間の見た目に関心を持たず、ほとんど記憶に残さないブランの曖昧な言葉は聞き流して、アルは女性の方を凝視した。

 黒い髪に、繊細だがどこかのっぺりとした顔立ち。

 その風貌はアカツキたち魔族に似ているものを感じる。


「……アテナリヤ本人ではないのですか?」

「おそらく違うだろう。なんというか……存在が異なっている」


 アルでは理解しきれない感覚だが、クインの言葉を疑う必要はないだろう。

 アテナリヤではないというのなら、魔族の誰かだろうか。魔族と関わりのある民族なのは間違いないと思うが。


「……いや、もしかして、イービル?」

「アテナリヤから分離された人格が、似た見た目をとることは考えられるな」

『ほー……ここにヒロフミがいれば、確定できたんだろうが』


 絵に描き写しておくべきかと考えたものの、アルは少し躊躇ってしまう。薬草などの記録するために絵を描くことはあっても、人を描いたことなんてない。非常に残念なことに、上手く描ける気がしなかった。

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