第411話 甘い香り
とりあえず探索を継続することにした。
歩くたびに近くの木々に傷をつけ、目印にする。
「この甘い香りの元も探してみたいよね」
アルがふと思い出した事実を何気なく呟くと、ブランの足が止まった。後ろをついていたアルも停止することになったが、いったいどうしたのだろうか。
『……甘い香り?』
「うん。そういえば、ブランがこういう香りに関心を示さないのは珍し——」
言葉が止まる。
この状況が珍しいどころかありえないものであると、気づいたのだ。
甘いもの大好きなブランが、アルでさえ気づいた香りについて、話題に出さないなんてことがあるだろうか。
あの、霧の森の結界の中枢にあってさえ、ひたすらに甘いものの元を見つけ出そうとしていたというのに。
「あ、れ……もしかして、この香りに気づいてるの、僕だけ?」
『……非常に不本意ながら、そうであろうな』
「ブランのそれは、どのような意味で不本意なのだ」
『旨いものを見逃しかねなかったということへの、我の力不足を認めるという意味だ』
堂々と胸を張って言うブランに、アルとクインがそれぞれの思いをのせた視線を向ける。
アルは『ブランらしいなぁ』と諦めを含んだ達観、クインは『この愚息め……』と怒りまじりの呆れである。
「たぶんさ。気にするの、そこじゃないと思うんだよね」
「吾も同意だ。なぜアルだけなのか、が重要であろう」
クインと頷きあう。
ブランは『ああ、確かに。どうしてアルなんだ? もしや我と張り合うほどの甘味感知力を身につけたのか?』と、アルにとっては心外な推測を呟いていた。これは本気で言っているのだろうか。
「……普通に考えて、人間だからってことですよね?」
「吾らとアルの、最も大きな違いはそこだからな」
『人間だけが食える甘味ということか? それはズルいぞ!』
再度思う。ブランはこれを、本気でそうだと考えているのだろうか、と。あまりに食欲に囚われすぎていないだろうか。
『——ちなみに、冗談だ』
さすがにアルの視線の冷たさに気づいたのか、ブランが目を逸しながら言った。
これは、絶対に冗談ではなかったやつだ。アルの経験がそう囁いてくる。
「……お馬鹿なブランはともかくとして」
『馬鹿とはなんだ、馬鹿とは』
「阿呆なブランはともかくとしてだな」
『母まで言うか!?』
アルとクインの二人がかりでこき下ろされ、ブランはすっかり不貞腐れていたが気にしない。
「対人間用の罠と見做すべきですかね?」
「その場合、何のために、という疑問が生じるが」
「そもそもこの場所の全容も分かりませんし、鑑定の謎が未だ不明ですからね……」
さて、困った。この甘い香りを罠と考えて、回避するか掛かってみるか。
『そもそも、一ついいか』
ポツリと呟いたブランに、アルたちは視線を向けた。その声音が真剣そのものだったから、相応の覚悟を持って耳を澄ませる。
『——我はここに来てから、甘い匂いどころか、一切の匂いを感知していないのだが。これは我の嗅覚の不全か?』
アルは思わず息を飲んだ。
クインへと視線を走らせると、こちらも目を丸くして固まっている。
「……そう、だ。ここには、匂いがない。吾は、なぜそれに気づかなかった……?」
大変な衝撃を受けている様子である。
アルは改めて鼻を意識して周囲を探ってみた。
甘い香り。それは砂糖や蜂蜜というより、花のような優しく華やかな甘さを連想させる。
だが、一方で、それ以外の香りはというと、一切存在していなかった。
普通の森ならば、様々な匂いが立ち込めている。
土が湿った匂い。草花が踏まれた青臭さ。獣や魔物の残滓。それら全てが生気として森に満ちているものだ。
「あぁ……だから、ここは生気がないと感じるのか……」
土も草花も木々も、見た目では存在している。ただし、決定的に生気が欠けて、不自然だった。
『我だけではないようだな。これは聖域の普通なのか?』
「……分からぬ。吾はこれまで聖域を訪れた際に、匂いのことを考えたことがなかった」
クインが神妙な表情で呟く。
『それさえも、不自然ではあるな。我も、アルに甘い匂いと言われなければ、匂いがないことすら気づかなかった』
「そればかりか、その状態で危険性がないと判断していたのだ。魔物らしくない」
ブランもクインも、深刻そうな声音だ。悔恨さえ籠っているようである。
アルは「うーん」と声を漏らしながら、鼻に意識を向けた。信頼する二人がこれほどまでに警戒し出してなお、アルはこれに危険性を感じられないでいる。
「……よし。とりあえず、目的地はこの甘い香りの元にしよう」
『思い切りがいいな。我らの危惧を理解した上での判断か?』
じとりと見据えられても、アルの決断は変わらなかった。徒に彷徨うよりも、罠であったとしても変化を求めるべきだと思ったのだ。
「ブランとクインがいるから大丈夫でしょ」
『……今、我らが頼りにならんかもしれんと、話していたつもりだったのだがな』
不本意そうに呟くブランの頭を撫でる。
この二人が頼りにならないなんて、アルは少しも考えられなかった。
「珍しく自信喪失気味? ブランらしくないなぁ」
『我だって、かつてない状況を軽く流せるほど楽観的ではない』
手にぐりぐりと頭が擦り付けられた。強い力で押し返されて、アルの体が揺れる。容赦ない。
「ほら、なんだっけ……どっかの故事で言うでしょ。【虎穴に入らずんば虎子を得ず】って」
『そんなもん知らん。なぜ虎の子を得ようとするのか。食うのか。……確かに虎の肉は旨いものもある』
「なんでもかんでも食おうとするな」
クインが半眼で呟いた。
ブランの調子が戻ってきたようだ。食欲で判断できるところがブランである。
『うむ。上手いこと進んだら、虎の肉を食うことにしよう』
「アイテムバッグの中にあったかなぁ」
「アルもこやつに合わせなくていいのだぞ?」
なんとなく雰囲気が和らぎ、前向きになった気がする。
今日の晩ご飯は虎の肉。覚えておかないと。確かどこかで虎系の魔物を狩っていたはずだ。さすがに甘い匂いの先に虎はいないだろうし。
『それで? 匂いはどこからするのだ?』
「前方だね」
ちょうどいいことに、進行方向である。だからこそ、アルはブランがこの匂いに気づいているものと思い込んでいたのだが。
『では行くか』
口振りは軽くとも、ブランの足取りは極めて慎重だった。クインはブランに前方の警戒を任せ、周囲に気を配っている様子だ。
やはり頼りになる二人である。
時々方向を修正しながら進むこと一時間足らず。
木々に付けた傷に再度出会うなんてことはなく、この森の広さを感じたところで、ようやく匂いの元を目にすることになった。
「……大きな木……だよね?」
天を貫くようにそびえ立つ白い巨木。幹はもはや岩壁かと思うほどの太さで視界を埋める。
これほどの大きさなら、遠くから見えていてもおかしくなかったが、アルたちの目には突然現れたように見えた。
『ふむ。花が咲いているな』
白い枝にちらほらとピンクの花が見える。匂いの元はこれだ、とアルは直感した。
時折、花びらがひらひらと舞い落ちる様が、優雅で美しい。幻想的な光景だ。
「これって、もしかして……」
アルは聖域の成り立ちを思い出して、この巨木に心当たりがあった。
思わずクインに視線を向ける。
アルの言葉にしなかった疑問を受けて、クインが陶然とした眼差しで巨木を眺めながら口を開いた。
「ソーリェン。——聖域の礎であり、核となった精霊の本体だ」
やはりと思いながら、アルは再び巨木——ソーリェンに視線を向ける。
物言わぬ精霊の木の威容に、思わず感嘆の息をついた。
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