第397話 ブランの優しさ
半ば追い出されるようにして魔の森に戻り一夜明けた。
今日からの予定は既に昨夜確認済みだ。それでもまだ納得できない気分が残っていたアルは、早速準備をしようとしているブランを背後からひょいと抱き上げた。
『ぬわっ。急に何をする』
ぷらーんと手足を垂らして振り返るブランには、気負いした様子が一切ない。
「……やっぱり、ブランが傷つくのは嫌だなぁ」
『何度言うのか。すぐ治るようなもん、傷とも言えん』
「でも、血が出るんだよ?」
『それが目的だろう』
ブランにはアルの繊細な心が理解できないらしい。
淡々と返されて、アルはむくれた。
聖域の中でも特別な場所へと行くための転送陣を使うには、塔の結界を通り抜けなければならない。そのためには竜血が必要だ。
竜化魔物――ドラゴンを食べたブランの血は、竜血として使える。つまり、ブランの血を集めて、結界を突破するのが最も手っ取り早い方法なのだ。
それは頭で理解していても、心が納得できるわけではない。
かといって、ドラグーン大公国に戻ってドラゴンの血を求めるのも、どこかにいる他のドラゴンと敵対するのも、あまり現実的ではないことも理解していた。
アルにそれなりに優しいリアムだって、「血をください」と頼んで「はい、どうぞ」と渡してくれるはずがないのだ。その他のドラゴンはさらに難しい。
『ブランを大切に思ってくれるのは、吾も嬉しいぞ』
クインが目を細め、尻尾を揺らす。愛しげに言われて、アルは一瞬口を噤んだ。
わがままをそのままに肯定されるのも、なんだか居心地が悪い。
「……相棒なんだから、当然です」
『ふふ、そうだな。だが、ブランもまた、アルを大切に思うからこそ、迷いなく血を使えと言うのだろう。アルの望みを叶えてやりたいと思うブランの気持ちも、分かってやってほしい』
柔らかな声で諭すように言われ、どうやって退けられるだろうか。
アルは黙ったままブランを地面に下ろした。
「……別の方法で、聖域に行ってもいいんだけど」
『だが、あの塔からでしか、行けない場所があるんだぞ? アルはそこがどんなところか、知りたいと思わないのか』
ブランはアルの心を正確に読み取って、なんでもないような口調で言い笑う。
『――知りたいのだろう。アルは知ることを望まずにいられるわけがない。それを叶えるのに必要なものが、我の血程度のものなれば、我がそれを渡すのになんの躊躇いもない』
当然と言いたげな声音に、アルはそれ以上拒む言葉は紡げなかった。
「……ブランが怪我しているところ、見たことないなぁ」
『我は強いからな。傷もすぐに癒える』
「魔物を倒すのは、いくらでもできるんだけどなぁ」
『我をそのへんの有象無象と一緒にするな』
ブランの隣に腰掛けて、ころりと上体を倒す。寝そべって眺めたブランは、小さいのに大きく見えた。
ぼんやりと眺めていたら、白い闇が訪れる。ブランの尻尾がアルの顔に覆いかぶさっていた。
『――見たくないのならば、目を逸らしておけばいい。見る必要はない』
「でも、僕のためにブランが傷つくなら、それもちゃんと見ていないと」
優しい気遣いに、アルは小さな声で言い返す。自分のことながら、迷子の子どものような心細そうな声だった。
尻尾を退けようと手を伸ばしたら、それより先にふわりと動く。青く澄んだ空が見えた。
『……ふん、必要のない責任はいらん。それは自由であるために負わねばならんものではないのだ』
「どういう意味――」
空からブランへと視線を移す。
その視界に、赤い液体で満たされた瓶が映った。
「――は……?」
『ほれ、これで足りるだろう』
「え、いつの間に?」
『さっきの間に』
「……嘘、そんな動き、なかったでしょ」
視界が覆われた一瞬で、ブランが傷を負うような気配は感じなかった。
慌ててブランを確認するが、腕に血がついているだけで傷はない。一瞬で治ったようだ。アルの予想以上にブランの自己治癒力は高かった。
『うむ。思っていたより集めやすかったな。痛みはなかったか』
『一瞬すぎて分からん』
クインがいつの間にかブランの傍にいた。その爪の一部が赤く染まっている。
「……つまり、クインが傷をつけて血をとったの?」
『そうだ。我も何度も傷をつけるのは嫌だからな。母に頼むのが確実だ』
うんうん、と頷くブランにクインが目を細め、肩をすくめる。
『必要最小限の傷にしたこと、もっと褒めてもいいと思うが』
『褒めているだろう。素早く正確に、素晴らしい手際だったぞ。アルもそう思うだろう?』
ブランとクインの会話は軽い。傷つけるということをさほど気にしていないように見える。
「……もしかして、慣れているの?」
俄に湧いた疑惑を、アルはぽつりと口にした。そして、ブランとクインを見比べて、首を傾げる。
『うむ。戦闘訓練は子育ての一環だ』
『昔はこれよりももっとひどい傷を頻繁に負っていたな……』
『吾の攻撃を上手く避けられぬのが悪いのだ』
『子どもに容赦ない。……だが、子を守るためなのだと理解している』
なるほど、とアルは頷く。
魔物の子育ては、人間とは全く異なっていたようだ。非常にバイオレンスな過去が窺い知れて、苦笑するしかない。
常に生死をかけた弱肉強食の世界で生きる魔物が、多少の傷程度で思い煩うわけがなかった。そもそもアルとブランの価値観は違うのだ。
「……心配して、損した気分」
それでも人間であるアルが傷つけるのは嫌だと感じるのはどうしようもないし、心配するのも当然。
ブランを抱き寄せて胸に乗せ、ごろりごろりと地面を寝転がる。ふわふわで温かな体温が心地良い。
『……アルが我を大切にしようとするのは嫌ではないぞ』
珍しく柔らかな口調で呟くブランを、ぎゅっと抱きしめた。ペロリと顎先を舐められて、くすぐったくて笑ってしまう。
「うん。ブランが傷つくのはこれっきりでいいや。でも、僕のために、これをくれてありがとう」
瓶の重さを手のひらで感じる。
ブランが『どういたしまして』と珍しくお行儀のいい返事をするので、クスクスと笑ってしまった。アルの感傷的な気分に付き合ってくれているらしい。
すぐ傍でクインも寝そべった。大きな尻尾で包まれて、ぽかぽかと温かい。このまま寝たくなってしまいたいくらい心地良い。
『塔に行くのは昼飯を食ってからにするか』
「そうだね。塔で何があるか分からないし、万全な状態で行きたいから。ブランは携帯食料で満足しないでしょ?」
『当然だな! ……そうだ、その血の対価に、旨い昼飯を要求する!』
キラリと輝いた目がアルを映した。今更の交換条件に笑うしかない。
これがブランなりの気遣いであることは、誰に言われずとも分かっていた。本当に美味しいご飯が食べたいだけなら、血を用意する前に真っ先に要求していただろう。
「……そうだね。とびっきりのごちそうを用意しなくちゃ」
『ごちそう!』
アルの言葉で、気遣いを忘れて本気で喜ぶ姿を見て、抑えきれない笑みがこぼれた。気分が上向く。
ブランが気にしていないことに、いつまでもこだわっていたって仕方ない。アルはありがたく受け取って、ブランに美味しいご飯を用意すればいいのだ。
「……よし。じゃあ、これに亜型魔粒子を籠めて準備を整えたら、新たな場所へ向かうための英気を養う宴にしようか」
『宴! 楽しい響きだな』
『ふ、いつもと変わらぬ気がするが』
ブンブンと尻尾を振って喜びを表すブランに、アルは再び微笑んだ。
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