第374話 結界の外
早速森の中心部へと進もうとするアルのズボンの裾が、クイッと引っ張られた。見下ろすと、ブランが上目遣いでアルを見つめながらズボンに噛みついている。
「……なに?」
「クークー」
甘えるような声で何かを主張されるも、アルはその言葉を理解できない。
それをいいことに、ブランを無視して行動を再開しようとしたが、クインがそれを止めた。
「まずは昼飯だと言っているぞ。中心部へ向かったら暫く外に出られぬから、改めて装備を整えるのもいいのではないか?」
「……そうですね。特に、食料は補給しておくべきでしょう」
クインが言うことは尤もだった。
アイテムバッグが霧の森内で使えないと分かった以上、内部を探索するためには今以上に用意を整えておくべきだ。最低でも一週間は過ごせるくらい。
「――ブランって、節制する場合、どれくらいの食料で活動できるんだろう?」
ちょうどいいことに、今いるのは結界の端だ。この場所の外がどこかは把握できていないが、このまま結界を突っ切ったところで昼食と探索準備を済ませてしまえばいい。
そう考えて、歩きながら結界を通り抜ける。答えが返ってきたのは、霧が晴れて視界が開けたときだった。
『節制はしたくないが、いつも通りの飯が食えんのは仕方ないな……。人間二人分の量があれば最低限の活動はできよう』
「あ、久しぶりにブランの声を聞いた気がす、る……!?」
言葉尻が跳ね上がった。思いがけない光景が目の前に広がっていて、驚いてしまったからだ。
慌てて足を止める。ブランもビクッと体を震わせた。
「……おや。まさか、結界の外に崖があろうとは思わなかったな」
クインがのほほんと呟きながら、数歩先の断崖絶壁から下を覗き込む。その際に蹴った石が崖から落ちていくが、地面との衝撃音が一切聞こえない。
「もしかして、ここ、結構高いんですか?」
「そのようだ。この縁のあたりの地面は脆いようだから、アルは近づかないほうが良かろう」
「分かりました。高さはどれくらいですか? 下には何が?」
アルは数歩下がって、結界の傍に立つ。結界から五メートルの範囲は地面がしっかりしていて危険はなさそうだ。
「高さ、か。……下には森が広がっているようだが、木々がコメ粒くらいに見えるな」
「結構高いですね。坂を上った記憶はないんですけど」
「そうだな――森の先に海が広がっている。どうやら魔の森の反対側にいるようだな。ここは大陸の端なのだろう。下の森はこの崖を下りるか、海から来るかしか入れないようだ」
「やっぱり、これは海か……」
アルは鼻を擽る潮風に目を細め、前方に広がる水平線を眺めた。
まさか霧の森内を歩いて大陸の端までやってくるとは思わなかった。メイズ国の街の近くに海があったようには思えないので、距離感が狂っている気がする。
「――どういうことだろう。霧の森内の空間が歪んでいる?」
『その可能性がないとはいえんな。よく分からん結界に囲まれていることだし』
「そっかぁ。とりあえず、この結界沿いに歩いても、メイズ国や魔の森に戻るのは時間がかかるってことでいいのかな」
アルは結界の傍の地面を視線で辿った。草もない地面が延々と続いている。森の姿は一切なかった。
思わずブランと顔を見合わせる。
『……確かめてみるか?』
少し嫌そうな感じで提案された。
アルはブランの頭を撫でながら笑顔で頷く。
「お願いするね。帰ってくるまでに昼食を準備しておくから」
『仕方あるまい……。では、行ってくる』
ため息混じりに地面に下りたブランが、一瞬後には中型サイズになって空を駆け上った。思う存分魔力を使える状態に嬉々としているように見える。
「いってらっしゃい」
『旨い飯を用意しておくんだぞ!』
手を振るアルに念を押したブランが駆けていき、姿が見えなくなる。この様子だと、すぐに戻ってきそうだ。
クインに視線を戻すと、少ししょんぼりとした雰囲気で肩を落としているのが見えた。
「どうしました?」
ブランに宣言した通り昼食の準備を始めながら、アルはクインに問い掛ける。
「……吾はいつもメイズ国側から出入りしていたから、このようなことがあるとは知らなかった。そのせいで、アルを危険にさらしてしまった……」
「危険、ですか? そう言われるほどのことはなかったですけど」
「それは結果論だ。今回は結界の外に安全圏があったから良かったが、結界の一歩先が断崖絶壁だったら、アルは落下していたかもしれない……」
アルはパチパチと目を瞬かせていた。
最初、崖を見たときにクインはのほほんとしていたが、後からその危険性に思い至ったらしい。
確かに、空を駆けることができるクインやブランとは違い、アルは突然崖から落ちたら咄嗟の対処が難しい。だが、そのことでクインを責めるつもりはなかった。
「……大丈夫ですよ。もし落下していたとしても、クインやブランが助けてくれたでしょうし。それに、下に激突するまでに時間がかかるくらいの距離があるのなら、魔法でどうにかできる可能性も高いですからね」
アルは微笑む。その言葉に嘘はない。それくらいブランはもとより、クインのことも信頼していた。自分の魔法技術を考えて、崖から落ちるくらいならばなんとかなる自信もあった。
「……そうか。だが――」
眉尻を下げながら、頷いたクインがアルの頭に手を伸ばす。
ポンポンと撫でられたアルは、少し固まった。このように甘やかされる経験はあまりない。
「今後は吾が先行することにする。良いな?」
細められた目を見つめ返し、アルははにかむように微笑んだ。
クインの提案がアルの安全を慮ったゆえだと分かる。その心遣いが嬉しいし、それだけアルのことを大切にしているのだと伝わってきて、心が温かくなる。基本的に自分でなんでもできるアルを甘やかしてくれる存在は少ない。
「分かりました。――ありがとうございます」
慈しみ深い微笑みが返ってきて、さらに胸がくすぐられるような心地になった。
◇◇◇
『帰ったぞ〜』
ブランが帰ってきたのは、アルの予想よりだいぶ遅れた頃だった。もう太陽は昼を示している。
アルは煮込んでいた鍋から肉を皿に載せながらブランを見つめる。
「随分と遅かったね?」
『思った以上に、ここが遠かったのだ。あらかじめ、結界周囲を探っておけばよかった……』
地面に下り立ったブランはやけに疲れた様子だった。ぶるぶると体を振りかけて、料理に視線を向けて動きを止める。
「砂っぽいね」
『……結界を一周してきたのだ。メイズ国の方を通ったら、また砂埃をかぶってしまった』
嫌そうに顔を顰めると、ブランは一瞬で小さい姿に変化する。アルはその体を濡れタオルで拭ってやった。多少は綺麗になるだろう。
「一周か。ここ、どれくらい離れてた?」
『魔の森のちょうど反対側で、メイズ国からも人の足で数日はかかりそうな距離だな』
「え、そんなに? ということは、霧の森内の空間が歪んでいる可能性が高いってことだね」
メイズ国の傍に残してきた転移の印を探り、随分離れていることは理解していたが予想以上だった。どうも印を辿る精度が下がっている気がする。
「――もしかして、この結界の影響かな」
『魔力操作に違和感があることか?』
「うん。転移の印を上手く探れないんだ」
『なるほど……我も駆けているときに気づいたが、どうも結界の傍は調子が狂うようだ。そのせいで遠巻きにして駆けたから、より時間がかかった』
ブランの苦い声で放たれた言葉に頷く。
やはりこの結界は外部にもなんらかの影響を与えているようだ。そもそも魔物が忌避する効果があることは分かっていたし、さほど不思議ではない。
「結界のことについては、中心部を探ったら分かるかな。とりあえず、今は昼食にしよっか」
『飯ー!』
アルの提案に、ブランが元気な声で答える。
先ほどまでの苦々しい表情が嘘だったようなその変わりように、アルはクインと顔を見合わせて笑ってしまった。
分かりきっていたことだが、ブランに対してご飯の効果は絶大だ。
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