第372話 魔力が使えないということ

 転移塔については一旦諦めることにして、アルたちは霧の森へと向かった。

 霧の森に敷かれている結界は物理結界ではないので、通り抜けること自体はまったく問題がない。


「魔法が使えなくなる感覚ってどんな感じかな。ちょっと怖いかも」

『白い霧で行く手が見えないところを突っ切るというのも気になるな』


 境界の手前で足を止め、じっと結界を見つめる。どれほど目を凝らそうと、その先に何があるかまったく判別できない。

 最初にここに踏み入ろうと考えたクインは凄いと思う。


「クインはここの先に何があるか、元々知っていたわけではないんでしょ?」

「うむ。だが、吾もその時は若かったからな。無鉄砲な好奇心というやつを抑えきれなかったのだ」

「へぇ、そんな時期もあったんだね」

『ふん、我のことをどうこう言えんではないか』


 クインの若かりし頃の無謀さに、ブランが不満そうに言葉を返す。


 ブランはかつて、森にいたドラゴンを倒して食ったことがある。そのせいで、魔物という範疇を超えて、永遠を生きることになってしまったのだ。

 その際に、ブランはクインにこれでもかという勢いで叱られ、嘆かれたらしい。その際に抱いた不満が、時を経て今にわかに再燃したようだ。


「それとこれとは違う。食い意地が張りすぎたあまり、神の怒りに触れるような行いをしたお前と一緒にするでない」


 クインがブランを見て、少し冷たい声で返す。

 ブランのために神の許しを得ようと異次元回廊に向かい、結果としてその場に長い間囚われることになったクインとしては、あまり許容できる発言ではなかったようだ。


 それを感じ取ったのか、ブランは気まずそうにそっぽを向く。ブランも、自分の行いに母親を巻き込んでしまったことは申し訳ないと思っているのだ。その思いを素直に表に出せないだけで。


 アルはブランを宥めるように頭を撫で、クインに視線を向ける。アルの眼差しに気づいたクインは、軽く肩をすくめて表情を改めた。今さら話すべきことではないと、感情を仕舞ったのだ。


「――ここで立ち止まっていても仕方あるまい。危険はないと保証する。進もうか」

「そうですね。ブランも、いいね?」

『……ああ。構わん。早めに魔力を使えない感覚に慣れなければな』


 ブランの返事を聞いて、歩を進める。


「魔法を使えないというと、異次元回廊の入口から白の神殿の範囲もそうだったね」

『ああ、そう言われるとそうだな。魔力が封じられているわけではなかったが――』


 ブランの声が途切れたのは、ちょうど白い霧に突入した時だった。

 クインに手を引かれて白い霧を突破すると、森の姿が見えてくる。そこでは多種多様の植物が季節感なく茂っていた。クインが以前言っていた【世界の植物を保全するための森】というのに納得がいく。


「すごい。生きた森も結構いろんな植物があって、特殊だと思っていたけど。ブランもそう思わない?」


 問いかけても返事がない。いつもなら即応してくれるはずなのに。

 不思議に思って、肩にいるブランへと視線を向けると、顔を顰めているのが見えた。


「……あ、もしかして、思念が使えない?」

「ああ、そういうことか。魔力が使えないとなれば、実際に発声しているわけではないブランの声は聞こえようもないな」


 応えたのはクインだ。その言葉にブランが不機嫌そうな表情で頷く。

 すっかり失念していたが、つまりこの森の中ではブランと会話をすることができないようだ。それは困るような、そうでもないような――。


「静かだし、いいかな?」


 呟いた途端に、尻尾が頭にぶつかってきた。キャンキャンと耳元で鳴かれて、結構うるさい。

 言葉は分からなくとも、鳴き声を封じられたわけではないので、うるささが増しただけのようだ。


「――前言撤回……うるさい」


 アルは耳を塞いで少しでもブランから遠ざかろうとする。肩に入るからどうやっても離れられないのだが。ブランを放り投げてもいいだろうか。


 おかしな攻防をしているアルとブランを、クインが横目で見てクツクツと笑った。戯れ合っているように見えたらしい。アルにとっては不本意な評価である。


「……ブランが喋られないのはともかく、本当にピクリとも魔力が動きませんね」


 手を軽く伸ばして意識を集中しても、体の中にある魔力は動く気配がない。魔法の呪文を口にしても、空気中の魔力は一定のまま漂い続けるだけだ。


「そうだな。――ブランよ。アルに戯れていないで、動きの確認をしたらどうだ」


 クインがそう言った途端、ブランの動きがピクリと止まる。そして、軽くクインを睨んだ後、地面に下り立った。

 何かを確かめるように何度か地面を踏みしめたブランは、小さく首を傾げた後、近くの木を目掛けて走り始めた。その速度はいつもより遅い。


「……なるほど。普段はこういう時にも魔力を使って動きを補助していたのか」

「そうだな。吾ら魔物は息を吸うように魔力を使って生きている。魔法という形に表れずとも、全ての動きに魔力が関わっているのだ。体を血が巡るのと同じようなものよ」


 クインの解説に頷きながら、アルはブランの動きを視線で追った。

 木を駆け上がったブランは、不満な様子で近くの木に飛び移る。だが、少し踏み込みが足りなかったようで、枝に着地することはできなかった。


 落ちていくブランを見て、アルは慌てて駆け寄ろうとする。その肩をクインに掴まれて停止することになったが。


「あっ……大丈夫?」

「その程度の高さから落ちたところで、どうなるものでもない」


 空中で体を捻ったブランは、猫のように体勢を整えて地面に着地した。上手く膝を曲げ衝撃を和らげたようで、怪我をした素振りはない。

 この森の中では、治癒のための魔法も使えないのだ。薬も用意してあるとはいえ、できる限り怪我をしないでほしい。


「――ブラン、吾が相手をしてやろう」


 クインの言葉が放たれた瞬間、ブランが向かってきた。駆けざまに蹴りを放つブランをクインが躱し、首根っこを掴んで放り投げる。ブランはめげることなく、近くの木を足場にして再び突撃してきた。


 その動きを数歩離れたところから見守り、アルは少し感心する。

 思っていたより真剣に、ブランはこの森の中での動きを検証しているようだ。普段魔力を無意識に使って動いているからこそ、アルよりも強い違和感を感じているだろうに、それを気にかけた素振りはない。


「ブランも、ちゃんと魔物だったんだなぁ……」


 ポツリと呟きがこぼれ落ちた。

 ブランといえば、いつも余裕綽々な偉そうな態度をとっている。それに見合った能力があるから、戦うために努力している姿をアルに見せることはない。


 だから、今のように戦闘に真摯に向き合っているブランの姿は本当に珍しいのだ。生きるためには強くあらねばならない、魔物としての本能が表れているように思える。


「うむ。動きが良くなってきたな。これくらいでいいのではないか」


 暫く攻防を繰り返した後、クインがそう言うと、ブランがピタリと立ち止まった。肩で息をしている。魔力の補助がないと、このくらいの動きでも呼吸を荒げることになるようだ。


「……これは、僕もちょっとは訓練した方がいい?」


 アルは真剣に悩み、剣を鞘から引き抜いた。魔法を使えない状態でのアルの戦闘方法は、剣術一択である。華奢な体格のアルは、ブランのように体だけを使った戦闘はできない。


「おぉ、アルが剣を使う姿は初めて見る気がするな」

「そうでしたか? 言われてみれば、一緒に戦うことはなかったかもしれませんね」


 クインの声に応えながら、剣で宙を薙ぐ。いつもと変わらない動きができた。人間のアルの方が、魔物であるクインやブランより、この森では有利に戦える可能性がある。

 アルは暫しの間、舞うように剣を振り、この森の中での動きを確かめた。

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