第356話 ブランの贈り物

 翌朝。

 テントを設置するのが面倒だったアルは、毛布をかぶり、中型に変化したブランに包まれるように寝ていたのだが、顔に日差しがあたるのを感じて薄目を開いた。

 予想以上に熟睡していたらしい。たぶん、ブランの乱暴な走り方に振り回されて疲れていたせいだ。


「う、う~ん……」


 毛布をのけて伸びをする。ついでに深呼吸をすれば、朝らしい澄んだ空気が肺を満たした。


「――さて、支度をしたら、朝ご飯を……?」


 まだ起きていないのか、それとも寝たふりなのか、ゆっくり呼吸をしているブランをそのままに、立ち上がろうとしたところで、アルは周りの風景の変化に気づいた。


 アルたちが寝ている周りに、美しい青紫の花が咲いている。空気に甘い香りが混ざっていた。

 見渡す限り青紫の花が森を埋め尽くし、幻想的な雰囲気だ。


「綺麗……」


 アルはなかば呆然と眺めた後、立ち上がり花に近づく。花は手のひらより小さくて、五枚の花弁が風に揺られていた。

 これは確か、【貴婦人のドレスマダムズドレス】と呼ばれる観賞用の花だ。人の手では滅多に咲かせることができず、自然の中で発見することも困難と言われる希少な種である。


 図鑑では見知っていたものの、アルが実物を見るのは初めてだ。

 冒険者が採取してきたものはオークションで驚くほどの高値をつける。それがここには山というほど存在しているのだから、アルが呆然するのも当然と言えよう。


『……美しいだろう?』


 不意に声が聞こえて、アルは振り返る。

 薄目を開けたブランが、わずかに口の端をあげていて、笑っているように見えた。


「ブラン、もしかして、これを知っていてここでの野営を提案したの?」

『さてな。……だが、この花は、日が昇った頃から一時間程度しか花を開かないと聞いたことがある。見られたのは幸運だったな』


 空惚けながらブランがグッと伸びをして身を起こす。アルが瞬きする内にその姿は小さくなっていて、ゆるりと尻尾を揺らしながら近づいてきた。


『――摘んでいくか? アイテムバッグの中ならば、ほぼ永遠にとどめることができよう』


 花に鼻先を寄せて香りを楽しみながら、ブランがアルを見上げた。

 アルは小さく微笑み首を振る。


「ううん。見られただけで嬉しいから、それはしないでおく。希少な光景だからこその喜びだからね。いつでも見られたら、なんだか感動が半減しそう」

『そうか?』


 首を傾げるブランの頭を撫でる。

 ブランがこの花を見せようとしてくれた気持ちが嬉しくて、それだけで十分だった。


「あ、でも、帰りもここで見られるといいな」

『帰りではなくとも、いつでも見に来れよう。アルがここに来たいと望むならばな』

「それは、ブランが連れてきてくれるということ?」

『条件次第だな』


 ニヤリと笑ったブランに、アルは笑い返して軽くその頭を叩く。

 おそらく甘味やその他の美味しい食べ物をねだっているのだろうが、それがなくてもブランはここに連れてきてくれる気がした。おそらくブランもこの花を好んでいるのだろうし、その思いをアルと共有したがっているように見えたからだ。


 そう考えると、ここに転移の印を設置して、いつでも来れるようにするというのは、アイテムバッグ内で花を保存するのと同じくらい無粋なことに思える。

 だから、それには気づかなかったふりをして、アルは暫くのんびりと花の観賞をした。



 ◇◇◇



 花が閉じ始めた頃に朝ご飯を作り、旅の支度を整える。といっても、テントさえ出していないから、食事のための道具や明かり用の魔道具を仕舞ったらいつでも出発できる状態だ。


『今日も、まっすぐ魔の森の上を飛んでいけばいいのだな?』

「うん。あまり人里の方には近づかないようにしたいから、そんな感じでいいよ。ただ、そうなると、目的地までの微調整が難しそうだなぁ」


 アルは荷物を肩にかけながら悩む。アルが乗りやすいようにと、身を伏せていたブランがチラリと振り返った。


『地図はないのか?』

「あるけど……これだよ?」


 アルが懐から取り出したのは、世界地図である。それを覗き込んだブランは、呆れたように目を眇めた。


『なんだ、これは……。見にくいな』

「これが一番正確な地図だと言われているけど、たぶんこの辺の国はもうなくなっているし、第一縮尺も変だから、移動の目安にならない。人間が作った道に沿って行けば間違いはないんだけどねぇ」

『そうすると、余計なトラブルを抱え込む可能性もあるということか』


 アルの言外に含まれた事情をブランが察し、ため息をつく。

 実はメイズ国に向かうには、帝国の領土を突っ切って行くのが一番の近道なのだ。魔の森沿いにある国も、帝国の属国である。

 だが、アルは帝国の者に存在を知られていて、探されている可能性が高い。わざわざ消息を知らせるような真似をできるわけがなかった。


 それに、アルは様々な国の文化などを知るのも好きだが、森を旅していく方がずっと好きなのだ。人と関わると面倒くさいこともあるし、あまり森から出たくない。


『――方向がこっちの方ということくらいしか分からんのだな』

「うん。初めて行くところだしね。一応『霧の森』と呼ばれるくらい霧が目立つところがメイズ国の傍らしいから、通りすぎることはないと思うんだけど」

『霧を目安に行くわけか。いつ辿り着くとも分からんのは、途方もないな』


 ブランが軽く肩をすくめて、顎をしゃくる。さっさと乗れ、ということだろう。

 アルはいそいそとブランの背にまたがり、軽く首筋を叩いて合図を送る。途端に、浮き上がる感覚があった。


 助走することもなく樹上に飛び上がったブランが、遠くを眺めるように少し首を伸ばした。

 アルも手で日差しを遮るようにしながら、魔の森を眺める。ブランが飛び乗った木は比較的高い木だったようで、遠くまで見通せた。


「人里は見えないね」

『だろうな。人里近くにあの花の群生地があったら、今ごろ人間に全て刈り取られているだろう』

「確かに」


 ブランが人間の愚かさを嘲るように、フンッと鼻から息を吐く。アルは苦笑しながらも、否定できなくて頷いた。


「――つまり、このくらい森の深いところだと、人に見られる心配もほとんどないわけだね」

『その分、魔物も強いだろうが』


 補足したブランが、舌なめずりをした。どうやら強い魔物=美味しい肉ということで、食欲がそそられたらしい。朝ご飯を食べたばかりだと言うのに、相変わらずの食への執着だ。

 アルは肩をすくめて、ブランに見えるように手を伸ばして、進行方向を示した。


「魔物の討伐は適宜するとして、あっちに進もう。人里が見えるようなら、離れる感じで」

『分かった。――しっかり掴まっておれよ』


 そう注意された時には、グッと圧力がかかってきていた。それを予想していたアルは、慌てることなく風の魔力を操り、ブランの動きに合わせる。


 昨日より乗り心地がよく、アルは過ぎていく風に目を細めて、景色を楽しむ。

 ブランは魔物への注意を促したが、樹上まで迫ってくるような魔物はそうそういない。鳥型の魔物やもともと樹上を住み処にしている魔物は、速すぎて突然現れたように見えるブランに驚き、一瞬固まるので、アルが対処するまでもなく通りすぎていくことになる。


『――お、あれ、旨そうだな』

「ちょっ!?」


 順調に進んでいたブランが急停止して、アルは反動で危うく落ちそうになった。抗議の声をあげるが、ブランはまったく聞いていない。

 ブランの視線の先には、翼を持つ巨大な虎のような魔物が、伸びをする途中で固まったような体勢をとっていた。


『よし、隙があるぞ。行け、アル!』

「なんで僕なの!?」


 思わずブランの頭を叩いたが、『少しは働け』と返されて、アルは渋々と魔法を発動させた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る