第354話 ブランを甘やかす

 アルの耳の横で風がビュンビュンと鳴る。凄まじい速さで進み続けるブランにまたがり、風の魔力を補助に使ってしがみつきながら、アルは小さくため息をこぼした。


「……魔道具の調整に時間がかかって、メイズ国行きの出発が夕暮れ前になったとはいえ、こんなに急ぐことないのに」


 風がアルの言葉をかき消し、伝えたい相手には伝わらない。伝えたところで無視されるだろうが。

 アルは家での出来事を振り返る。



 朝食前に、衝撃の事実に気づかされたアルは、食事を忘れて魔道具を調整するのにかかりきりになった。閉じた戸をブランが叩き、ご飯をねだっているのにさえ気づかないくらいの集中力で作業をしていたのである。


 結果、昼頃には、なんとか魔力浄化機能をもたらす魔法陣の部分を解析できて、改善の目処が立った。同時に、食事を忘れていたことを思い出して、アルは自然と「あぁ……」と呻いてしまう。

 研究室を出たアルを出迎えたのは、居間のソファに埋もれるような体勢で、ムスッとした表情でそっぽを向いているブランだった。完全に拗ねた状態だ。空腹が極まって不機嫌になっていたのだ。


 アイテムバッグを研究室に持ち込んでいた上に、邪魔されないようにと無意識で結界を張り、侵入を拒んでいたことがなお悪かった。ブランは作り置きの料理で腹を満たすことができなかったのだから。


 勝手に狩りをして食べていればいいものを、と思わないでもないが、日頃生肉や自分で焼いた肉があまり美味しくないと主張しているからか、ブランはアルの作業が終わるのを待つことにしたらしい。


 その後、朝食兼昼食となった料理を作り平らげ、アルは再び魔道具の改善に戻ったのだが、それを終えた頃になっても、ブランの機嫌は回復していなかった。


 ブラン曰く、『リアムあやつが突撃訪問してこないのだから、管理している領域とはいえ、魔力の変化にはさほど敏感ではないのだろう。広大な魔の森の一部の空間だけが、魔力の浄化が進んでいようと、それは海水の中に真水入りのコップを置くようなもの、ということだな。精霊がアルに強硬な態度を見せることはそうそうないのだから、あやつが用があってやって来て初めて、問題になるような状態でしかない。――つまり、我の食事を後回しにするほどの緊急事態ではなかったのだ!!』ということらしい。


 珍しく長尺で勢いよく語っていて、よほど腹に据えかねているのだと伝わってくるが、後に主張した言葉に一番力が籠っていた。ブランが怒っている理由が、空腹を我慢しなければならなかったことであるのは間違いない。


 だが、アルに言わせてもらえば、そこまで緊急性がないならそう言ってほしかったという話だ。それをブランが言う暇もなく、アルが研究室に駆け込んでしまったのかもしれないが。



 アルは思い出した出来事にため息をつき、少し悩む。

 ブランは今、鬱憤を晴らすように勢いよく樹上を駆けている。ほぼ空を飛んでいるような状態だ。

 気を抜けば振り落とされかねないので、しがみつくアルは結構必死である。魔力の制御技術が向上した気がする。


 普段アルを乗せるとき、もう少しブランは配慮してくれるのだが、機嫌が悪い状態ではそれを望むべくもない。あまりこの状態を長引かせたくないので、どうにかしてブランを懐柔しなくてはならないのだが――。


「やっぱり、甘味かな」

『なんか言ったか!?』


 不意に聞こえた声に、アルは目を細める。ブランの声は思念だから、風があっても邪魔されない。そして、思念には感情がよく表れる。

 ブランは不機嫌さの奥に、期待を滲ませていた。独り言のつもりだったのに、しっかりと【甘味】という言葉を聞き取っていたらしい。


「……もしかして、甘味をねだるつもりで不機嫌を装っていた?」


 アルは疑わしげに呟くが、これには返事がない。ブランは都合が悪いことは聞こえない耳を持っているようだ。


「僕自身、悪いことをしたなぁって思ってるから、甘味を作るくらいはいいんだけどね」

『夕飯には甘味がつくのか!』


 打てば響く鐘のように、ブランが嬉々とした声をあげる。不機嫌ささえどこかに吹き飛び、アルを振り回すような動きも少し弱まった。


『――我が満足するほど、用意するのだろうな?』


 念を押すようにブランが言う。アルは苦笑して、しがみついていた腕の力を緩めた。この感じなら、魔力の補助だけで少し気を抜いても落ちなさそうだ。


「そうだね。作り置きのものも混ぜていいなら、いつもよりたくさん用意はするよ」

『ほほぅ! 良い心がけだな、アル』


 アルがここまで大風呂敷を広げられるのは、アイテムバッグの中に大量の甘味が入っているからである。アルやサクラ作のものはもちろんあるが、一番多いのは、異次元回廊内のお菓子の木から得られるものだ。ニイが用意していたようなワ菓子もある。


 ブランの甘味へと追求と、甘味で機嫌を取れるという容易さをよく理解していたサクラが、アルたちの出立前にこっそりと大量のお菓子を用意してくれていたのだ。異次元回廊の管理主権限で用意されているので、アルならば一生かかっても食べ尽くせないほどの量である。


 サクラ曰く、「物事を円滑に進めるために、ブランの力を借りる必要があるでしょう? あと、機嫌を悪くさせたときに、懐柔することとか。これ、上手く使いなさいね」とのことだ。

 それを聞いたときは、気遣いができる人だなと、アルは感心した。


「そろそろ日が陰るよ。野営の準備をしよう」

『うむ。では、あの辺りに下りるか』


 ブランが進行方向を少しずらす。どうやらちょうどいい場所があるようだ。


 転移魔法を使えるアルたちは、旅の途中で家に帰り休むことも普通にできるのだが、それをするつもりはあまりない。何故かといったら、旅の醍醐味を台無しにするようなものだからだ。


 家での快適な生活はもちろん楽しいし落ち着くが、旅には旅の良さがある。それは野営での過ごし方も含めてのことだ。

 テントの傍で焚き火をして、料理を楽しみ、星空を眺める。それは、家の外でやるのとは、違った風情が感じられる時間だ。


「――というわけで、野営を楽しもうと思ったんだけど……ほんとに、ここがベストな場所?」


 アルはブランが下り立ったのに合わせて周囲を見渡し、目を眇める。

 周囲は暗くなってきているとはいえ、まだ多少見通しがきく。ここは木々が乱立している場所のようで、あまり拓けていない。テントを置いたら、調理ができなくなりそうなくらいの狭さだ。

 ブランがなぜここを選んだのか、正直理解できなかった。


『うむ。我はここがいい。テントがなくとも、まだ凍えるような気温ではあるまい。気になるなら、飯を食った後に、テントを置いても良いしな』

「……そう。ブランがそこまで言うなら、反対はしないけど」


 アルは首を傾げつつ、野営準備を始めた。ブランの言う通り、テントのことは後で考えることにする。


 ブランがこれほどまでに野営地にこだわるのは珍しいので、きっとこの場所はなにかしら特殊な事情があって、ブラン的に良い場所なのだろう。

 その理由を語らないところを考えると、アルには関係のないことなのか、はたまた隠しておきたいことなのか。よく分からないが、アルの害になるような選択をブランがするとも思えない。


「甘味をたくさん食べるなら、夕食は控えめにする?」

『なぜだ?』


 曇りなきまなこで見つめられた。アルの質問自体が奇妙なことのように思えるくらい、純粋な疑問に満ちた眼差しである。


「……ブランには愚問だったね。お肉をたくさん食べた上で、甘味もたくさん楽しむんだもんね」

『うむ、その通り』


 胸を張って頷くブランが、ひょいと小さな姿に変化して、圧迫感が減った。やはり森などの狭い空間では、元来のサイズどころか、中型サイズも邪魔に思える大きさである。

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