第346話 トラルースの嘆息

 トラルースとの再会を喜ぶアルに水を差すように、ブランが不機嫌そうな声を上げる。


『おい。歓迎しているなら、なんだあの結界は。フォリオだけでなくお前まで、うっかりものだなんて、言わないだろうな?』

「ちょっと、ブラン。そういう喧嘩腰はやめてよ」


 アルはブランの頭を軽く叩いて咎める。だが、ブランはまったく反省したそぶりを見せなかった。


「結界か。……なんだ、まさか、あれがお前の行く手を阻んだとでも言うのか?」


 驚いた様子で目を見開いたトラルースが尋ねてくるので、アルは慌てて首を横に振った。


「いえ。以前までなかった結界に、少し警戒はしましたけど。問題なく通り抜けられました。――ああ、こちら側の空気の違いにも、驚きましたね」

「ああ、それは、マルクトに文句を言ってくれ」

「マルクトさん?」


 唐突に出てきた名に、アルは首を傾げた。ブランと顔を見合わせるが、双方ともに事情を理解していないのだから、意味がない。


「ああ。……とりあえず、何か食うか?」


 トラルースが枝からひょいと下りてきて、アルに問いかける。

 アルとしては、食欲よりも知的欲求の方が強いのだが、ここにはトラルースの提案に嬉々として乗るものがいた。


『食う!』


 アルの耳元で、バサバサと尻尾が揺れる。確認しなくとも、ブランの目がキラキラと輝いていることは容易に推測できた。


 食欲に忠実すぎる相棒に、アルは頭が痛い思いをしながら、ため息をつく。


「……でしたら、僕が用意しますね」

「そうか? ……まぁ、その方がいいだろうな」


 何を納得したのか、トラルースが肩をすくめた後に、アルたちを手招く。

 首を傾げながらアルが従うと、大木の向こう側に案内された。そこには、木で作られた簡素な机と椅子がある。


「マルクトが、アルたちにはこれが必要だと言って置いていった。いつの間にか、あいつは人間への理解を深めていたらしい」

「……なるほど。それは確実に、僕たちの影響ですね」


 アルは深く頷く。

 精霊は基本的に人間のような生活をしない。家具の類いは必要ないのだ。

 そのことを、アルは精霊の森を訪れた際に実感している。魔の森で長く暮らしていたフォリオが、随分と人間じみた生活をしていただけだ。


 そして、精霊きっての引きこもりであるマルクトが、人間の生活様式に理解を示しているのは、アルが長いことマルクトの空間で生活していたからに他ならない。


 アルはその影響の是非を述べる立場にはないが、トラルースの表情を見るに、あまり歓迎される状態ではないようだ。


「――そのことで、何か問題が起きましたか?」


 トラルースの様子を窺いながら尋ねる。


「……いや。あったとしても、アルが気にすることじゃねぇ。俺たちの問題だ」


 関係に線引きするような発言に、ブランの尻尾がゆらりと揺れる。不快感を覚えたようだ。

 それがアルの心情を思いやってのことだと分かっているから、アルはブランを宥めるように背を撫でた。


「そうですね。でも、僕が何かするべきことがあるなら、教えてください」


 トラルースの目をじっと見つめて、アルは努めて微笑んだ。

 一線を置かれることに、寂しさを感じなかったと言ったら嘘になる。だが、アルとトラルースはまだ親しいとは言い切れない状態なのだから、仕方ないと納得できた。


 トラルースは片眉を上げて、暫く口を閉ざしていた。アルを観察するように見つめ、軽く首を傾げる。


「……俺は、別にお前を遠ざける意味で言ったわけじゃねぇ。ただ、本当に、馬鹿馬鹿しいことだから、気にする必要はねぇってだけだ」


 予想とは違い、トラルースは親しみを感じる声でそう告げて、肩をすくめた。

 アルはホッと安堵し、頬を緩める。


「馬鹿馬鹿しいこと?」

「ああ。人間嫌いの連中が、いろいろとな。アルのことは受け入れられても、他の人間はそうじゃねぇから、人間寄りの行動をすると、どうしても反発が起きる」


 返ってきた言葉は意外なものだった。精霊とは、アルの予想以上に人間嫌いな側面が強いらしい。

 以前ブランに聞いた限りだと、精霊は人間に無関心であるがゆえに、嫌いという感情が薄いという話だったのだが。


「……なるほど? つまり、マルクトさんは、その方々の想定以上に、人間に興味を示しているということですか? 彼の場合、あくまでも、知識を得るということにしか、関心が向いていないと思うんですけど」


 それなりに長く共に過ごしたマルクトのことを、アルは思い出す。彼はアル以上に、人間に対してよりも、知識に対して関心を持つ傾向が強かった。


 その点を踏まえて考えると、反発を示しているという者たちの危惧は的外れである気がする。マルクトは、人間ではなく、未知の知識を求めているにすぎない。


「そうだな。ただ、今は帝国の連中の動きに、神経をピリピリさせているヤツが多いから、人間への感情が大きくなって、過剰反応しているだけだろう」


 トラルースも、意識の食い違いは察しているのか、そう軽く言っただけで、この話題を打ち切ろうとした。

 だが、アルはその発言の中身の方に関心が向く。


「帝国の動きですか? そういえば、先ほど作業をしていたのも、帝国に関してのようでしたね」


 促されて椅子に腰掛けながら尋ねた。ついでに、ブランの無言の要求に応えて、アイテムバッグからパウンドケーキとお茶セットを取り出す。


「……ああ、そうか、森で俺たちの文字を学んだんだな」


 アルの対面に座ったトラルースは、苦笑しながらアルの作業を観察する。その視線は物珍しげだった。


 トラルースは精霊の森の中で人間への対応役だったと聞いた覚えがあるが、こうした飲食の環境にはあまり慣れていないらしい。


「はい。それで、帝国の動きというのは、なんなのですか? 何か精霊が気にするような問題でも? というか、マルクトさんがこちらに来ていたというのも、不思議なんですけど」


 アルはトラルースの緩んだ雰囲気を察して、ここぞとばかりに質問を重ねる。


 森の中で結界を見たときから、アルの疑問は増え続けていた。その疑問の中でも、この精霊の住み処周辺の異常に関しては、マルクトが訪問してきたという事情を聞けば解決できる気がする。


「……アルに関係しない話ではねぇから、答えるのは構わねぇが。そんなに好奇心いっぱいの顔をされるほど、おもしれぇ話じゃねぇぞ?」

「少なくとも、マルクトさんがどのような魔法を施したかは、僕の興味を惹くものだと思います」


 アルは苦笑するトラルースに真面目な顔で答えた。

 お茶の用意を待たずに、パウンドケーキに食らいついていたブランが、呆れた眼差しを向けてくる。


 トラルースは一瞬虚をつかれたような顔をしたが、すぐになぜだか疲労感の籠った声で「あぁ……」とこぼした。


「――アルは、マルクトと同類だったな」

「それは、褒めていますか?」

「褒めてはねぇが、貶してもねぇ」


 そう言うわりには、トラルースはあまりアルのあり方に賛同していない雰囲気だった。それは、マルクトに対しても、同様であることが窺える。


 アルはそのことには敏感に気づいたが、さらりと受け流した。トラルースが何か思っていたとしても、さほど深刻な様子ではないのだから、問題ないだろう。


「――それじゃあ、お茶のお供に、楽しくない話でも、することにしようかね」


 トラルースはアルから渡されたティーカップを乾杯と言うように掲げ、そう呟いた。


『旨いもんが不味くなるような話をするんじゃない……』


 ぼそりと呟かれたブランの不満は、アルだけでなくトラルースにも黙殺された。

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