第339話 暁の過去
全員が揃い、紅茶を飲みながらお茶菓子を食べる。その穏やかな空気を味わったことで、ヒロフミとサクラは口を開く決意を固めたようだ。
「まず知ってほしいのは、暁の記憶は完全に戻っているわけではないってことだ」
ヒロフミの言葉に、アルは頷く。そのことは、折々で察していた。
アカツキは、サクラたちのことは思い出したようだが、この世界に来てからの記憶は、あまり明確に覚えていない様子だった。元の世界での記憶にも、欠けているところは多そうだ。
「――それが何故だかは分からない。アテナリヤによって、魔王として封じられたからなのか、それとも精神的な負荷によるのか……」
「分からないけど、でも、思い出せないことは、無理に思い出すべきじゃないと、私も宏兄も考えているの」
ヒロフミの言葉をサクラが継ぎ、真剣な眼差しをアカツキに向ける。
その視線を受けたアカツキは、緊張した表情で小さく頷いた。
「……俺も、そうしてくれるのはありがたいと思ってる。どうしたって思い出せない記憶なら、そもそも他の人から聞くのも、ちょっと嫌な気分になりそうだし」
「そうか。でも、今回、俺たちが気づいたことは、聞きたいと思ってるんだな?」
ヒロフミがアカツキをじっと見つめる。覚悟を問うような眼差しだった。
アルは、アカツキが思い出せない記憶に、いったいどんな事情が隠れているのかと、密かに気を揉んだ。あまり、アカツキが傷つくような結果になってほしくない。
「……うん。どうしてだか分からないけど、知るべきな気がする」
暫く躊躇った後に返った言葉に、ヒロフミとサクラが視線を交わす。次いで、諦念混じりのため息をついた。
「暁がそう言うなら、俺たちが口を閉ざしているのも無意味なんだろうな」
「そうね。といっても、正直、私たちが思い当たった事実が、今回の現象に関係しているかは分からないんだけど」
今回の現象、という言葉に、アルはテーブルの上に置かれた紙に視線を落とす。
魔法陣らしき図だが、どのような効果を持つものかはまだ分からない。間違いなく魔法陣なのであれば、アルの知識にはない技術が使われているものであるはずだ。
もしかしたら、これが異世界へと転移するための方法である可能性も、今のところ否定はできない。
「俺もよく分からないんだけど、もしかして、それが出来上がった時に俺が見ていた雲の形が、指輪だったことが、二人は気になってるのか?」
アカツキが「それ」と指さした紙に、ヒロフミたちも視線を落とし、逡巡の後に頷く。
「……ああ。暁は、指輪、さらに言うと、婚約指輪って言葉に、なんの感慨もなさそうだったが、記憶があったならそんなはずはないんだ」
「婚約指輪……」
困惑した様子で呟いたアカツキの表情が、一瞬で変わる。目を見開き、ヒロフミとサクラを凝視すると、「まさか……」と唇を震わせた。
「――……俺に、婚約者がいたとか、言わないよな……?」
アルは目を丸くした。予想外な展開に驚き、まじまじとアカツキを見つめる。ブランも驚愕した様子であんぐりと口を開いていた。
「アカツキさんに、婚約者……」
『こんなやつと、婚姻を結ぼうとする女なんて、いたのか……?』
「ちょっと、二人ともひどくない?」
思わず漏らしてしまった本音に、アカツキが混乱さえ忘れた様子でツッコミを入れた。じとりとした眼差しから、アルたちは目を逸らす。
だが、驚いてしまったのは仕方ないと思う。アカツキは食事についての熱意は高いが、女性に対して関心を向けたことは、アルが知る限り一度もなかったのだから。
以前、政略結婚に否定的な言葉を発していたので、アカツキが婚約を結んでいたとして、それは恋愛によるものだと思う。だが、アカツキと女性の組み合わせが、あまり想像できなかった。
「ハハッ……二人とも、正直だな。俺も、当時報告されて、驚いたが」
「そうね。でも、順当ではあったと思うの――」
笑うヒロフミに続いて、微笑ましげに頷いたサクラの表情が、サッと翳った。
その変化に、アルは心が騒めくように落ち着かなくなる。アカツキもその後に来る衝撃を予期したように、きつく眉を寄せ、唇を嚙みしめてサクラを見つめた。
「……だって、彼女は私たちの幼馴染で、つき兄と一番仲が良かったんだもの。友達のような雰囲気だったとはいえ、結婚を考えるのも、年齢的には不思議ではないわ」
幼馴染。その言葉に、アルは少し納得した。その婚約者というのが幼馴染だというなら、アカツキと共にいる姿も容易に想像できる。ヒロフミたちといる時と同じ雰囲気で、サクラが言う通り、友達のような関係性だったのだろう。
「……もう一人、幼馴染がいた……? 俺は、覚えてないぞ……?」
「そうね。そのことは、つき兄が私たちのことを思い出してくれた時に、すぐに気づいたわ」
「俺は、最初ただ単に話題に出さないだけかと思ってた。暁は元の世界でも、彼女の話をしなくなっていたからな」
サクラに続いて、投げやりな様子でヒロフミが告げる。
アルは思わず眉を顰めた。婚約者の話をしないのが当然のような言葉は、いささか不穏な印象がある。ブランも怪訝そうにヒロフミを凝視していた。
「元の世界でも……? なんで、幼馴染で、婚約した相手の話をしなくなったんだ? 幼馴染に話すのが恥ずかしかったとか?」
アカツキは当然引っ掛かりを覚えた様子で、不思議そうに首を傾げる。
その様子を見て、ヒロフミが僅かに目を伏せ、深く息を吐いた。
「違う。……結婚する前に亡くなったんだ。それで、お前はショックを受けて、彼女の話をしなくなった。落ち込むお前を見たくなくて、俺たちも極力話題に出さないようにしていた」
説明されたアカツキの目が、大きく見開かれる。何か言いたげに動いた唇は、結局何も音を発さないまま、強く引き結ばれた。
アルは痛ましげにその表情を見守る。アカツキにそんな事情があったなんて、知らなかった。
「結婚する前だったから、つき兄の手元に残ったのは、写真とか思い出の品とか、それくらいで……。でも、それを見るのもつらかったみたいで、全部押し入れに仕舞い込んでいたの」
「婚約指輪もその一つ」
サクラに次いで、ヒロフミが放った言葉に、アルは「ああ……」と頷く。ヒロフミたちがアカツキの言葉に引っ掛かった意味が分かった気がした。
「――あいつのことを憶えていたなら、簡単にその言葉を言うはずがない。そして、俺たちは、異変が起きた時に、お前がそれを雲の形に見ていたということが、何かしらのメッセージである気がするんだ」
ヒロフミの言葉の後、暫く沈黙が続く。
アルは今の話をどう捉えるべきか考えていた。全てが偶然で、なんの関係もない可能性はある。だが、アルもなんとなく、全ての事柄に意味がある気がした。
「――それで、その婚約者という方のお名前は?」
アカツキが何も言えない状態であるのを見て取って、アルは尋ねた。当然すぐに返事が来るものだと思っていたが、不自然な沈黙が流れて戸惑う。
ヒロフミとサクラが、何かに気づいた様子で目を見開き、次いで怪訝そうに眉を顰めて、視線を交わした。
「……名前」
「……宏兄も?」
「ああ……」
「……これ、絶対おかしいわ。どうして、今まで気づかなかったのかしら」
深刻そうなやり取りをしている二人に、アルは首を傾げた。
「どうしたっていうんだよ?」
衝撃から少しは立ち直ったのか、アカツキが尋ねる。二人はその顔を見つめ返して、僅かに躊躇った様子だった。
だが、暫くして、ヒロフミが口を開く。
「……俺たちも、彼女の名前を思い出せない」
アルたちは、一瞬ぽかんとしてしまった。それくらい、予想外な返事だったのだ。
「え、どういうこと? ヒロフミたちは、別に記憶の封印なんてされてないだろ……?」
訝しげに問い掛けるアカツキに、ヒロフミとサクラは難しい表情で、ただ「分からない」と返した。
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