第338話 現象のきっかけ

「――これが、自然に……?」


 ヒロフミが不可解さを示すように、怪訝な表情で呟いた。その視線の先にあるのは、アルが書き写した魔法陣らしき図である。


 解読作業に集中していたヒロフミとサクラに声を掛け、その図を提示したアルは、軽く肩をすくめて窓の方を顎で指す。


「ブランが言うには、吹き込んできた風が勝手に紙を床に散らばらせた結果、文字の連なりがそのように見える感じに配置されたそうです」

『うむ。我は何度もその配置を崩そうとしたが、その度に風が吹いて、すぐに元の配置に戻ってしまったのだ』


 アルの説明を、ブランが補足する。

 なおも不思議そうに首を傾げたヒロフミは、「風がねぇ……」とぽつりと呟いた。


「聞かれる前に言っておくけど、そんな意味の分からない環境設定はしていないわよ?」

「だろうな」


 軽く眉を顰めたサクラの説明に、ヒロフミが当然のように頷く。


 アルが知る限り、サクラたちはこの異次元回廊に特殊な環境を設定していない。基本的に天気は晴れで、活動に支障が出るような変化は起きないのだ。

 だからこそ、アルたちは今回の現象に何らかの意思を感じ取っている。


「――変なのは、これだけじゃなくて、暁もだって?」

「そうです。僕も知らなかったんですけど、ブランが言うには、時々壊れた魔道具のように固まっていることがあると……」


 アカツキがこの現象に関わっているかもしれないことは、あらかじめ告げていた。

 ヒロフミとサクラはそのブランの指摘に、僅かに顔を翳らせ、物思わしげに窓の方へと視線を向ける。

 その視線の先では、アカツキがきょとんとした表情で見つめ返し、首を傾げながら立ち上がっていた。


「どーかしたー? 深刻そうな表情してるけど……?」


 問い掛けつつ近づいてきたアカツキを、アルたちはそれぞれ複雑な表情で迎え入れる。今の快活な様子からは、先ほどまで無表情で固まっていた姿はまったく思い浮かばない。それくらい、印象が乖離していた。


「……とりあえず、お前も座れ。というか、解読作業をろくにできないのは分かってたけど、暇なとき何やってたんだ」


 アカツキの問いに答えず、ヒロフミがさりげなく探りを入れる。

 アルは密かにその様子を窺いながら、気分を和ませるためにと、お茶の準備を始めた。腕をつついてくるブランのために、お茶菓子を用意するのも忘れない。


「何って……暇だから、ぼーっとしてるかな? 窓の傍にいるとさぁ、雲がどんどん動いていくのが見えるんだよね。なんか動物とか、色んな形が現れるから、面白くて観察してる」

「超絶暇人だな。縁側で茶を飲んでる老人だって、もっと建設的なことを考えてるだろ」


 言葉通り楽しそうに語るアカツキを、ヒロフミはバッサリとこき下ろした。シュンと肩を落とすアカツキをまったく気にかけていないように見えるが、その実、目は注意深く様子を窺っていた。


「……ふふ、でも、雲の観察とか、子どもの頃好きだったなぁ。つき兄は今日、どんな雲を見たの?」


 サクラが取りなすように尋ねると、アカツキの表情が少し明るくなった。そして、僅かに視線を上げて、記憶を辿るようにしながら口を開く。


「今日はー……んーとー……あっ、なんか、指輪みたいな形があって、面白かったな!」

「……指輪?」


 サクラとヒロフミがサッと視線を交わす。二人には、何か引っかかる単語だったようだ。

 アルはアカツキのことを、食べ物に執着があって、時々大変なことをやらかす人ということくらいしか知らないので、二人が何を考えているのかまったく分からない。


「そうそう、指輪。ほら、婚約指輪みたいな、おっきな宝石がポンッてついてる感じの」

「婚約指輪な……」


 嬉々とした表情で詳細を語るアカツキに、サクラとヒロフミが眉を寄せた。そんな二人の様子に気づいたアカツキが、きょとんと首を傾げる。


「なんなの。やけに暗い顔してるじゃん。俺、そんな変なこと言った?」

「……いや、たぶん、は、お前の記憶にはないんだろうな、と思っただけだ」

「宏兄!」


 含みのある言葉を呟くヒロフミを、サクラが鋭い声で咎める。唐突に緊迫感が溢れ、アカツキが戸惑った表情になった。

 アルとブランは静かにその様子を見守る。この場において、アルたちは完全に部外者だった。だが、何が今回の現象に結び付いているか分からないので、注意深く耳を傾ける。


「……悪い、なんでもない」

「なんでもない感じじゃないぞ?」

「つき兄、気にしないで」

「いや……こんな感じで、それは無理……」


 明らかに何かある雰囲気で口を噤むヒロフミとサクラを、アカツキが交互に見つめた。躊躇いがちに答えをねだる眼差しに、ヒロフミたち気まずそうに視線を逸らす。

 暫く、沈黙が続いた。


 膠着した状況を見かねて、アルはブランと顔を見合せた後に口を開く。

 ブランから、『お前が言え!』と視線で迫られたので、仕方ない。あまり、個人的な事情に立ち入るのは気が進まないのだが。


「何かあるのなら、きちんと説明した方がいいのではありませんか。もしかしたら、それが今回の現象に関わっているのかもしれませんし」

「今回の現象?」


 アルの言葉を拾って、アカツキが首を傾げる。ヒロフミが説明を避けてアカツキへの質問を始めたのだから、アカツキが何も事情を理解していないのは当然だ。


 難しい表情で黙り込むヒロフミとサクラを横目に、アルはおかしな風が起こした現象と、その際のアカツキの不審な様子について説明する。


「……ほえ……そんなことが……。でも、俺は、ただぼーっとしてただけで……」


 説明を聞き終えたアカツキは、困惑した表情で視線を落とす。アルが書き写した魔法陣らしき図を見ても、その表情に変化はない。少なくとも、アカツキに心当たりのないものらしい。


「そのようですね。でも、ブランは、普段アカツキさんがぼーっとしている様子には、さほど違和感を覚えなかったようですが、今日のは違ったみたいです」

『うむ。なんとなく、いつもと違うように思えた』

「今日……と言われても、俺にとってはいつもと変わらないし……」


 首を傾げるアカツキから、ヒロフミたちの方へと視線を移す。アルの視線を受け止めたヒロフミたちは、なおも迷うように目を伏せた。


『……うがぁーっ! 鬱陶しい空気をやめろ! 言うなら言う、言わぬなら言わぬで、態度を明確にしろ!』


 誰よりも早く、膠着した状況に我慢できなくなったブランが叫ぶ。アルは苦笑しつつ、その背を叩いて宥めた。


 ムスッとした表情で顔を背けたブランに対し、ヒロフミとサクラが視線を交わした後に、大きくため息をつく。


「……そうだな。こんな態度じゃ、嫌な気分にさせるだけか」

「むしろ関心を集めてしまった気がするね」


 諦めたように呟く二人に、アカツキが困惑した表情で首を傾げた。


「結局、二人は何を知っているわけ? なんか、指輪って言葉が気になってたみたいだけど」


 改めて尋ね直すアカツキに対し、ヒロフミとサクラは互いに説明を押し付け合うように目を見合わせた。


「……とりあえず、お茶を飲んで落ち着いたらどうでしょう?」


 このままでは再び沈黙が続くと察して、アルはそれぞれにティーカップを渡す。紅茶の華やかな香りが、みんなの気分を和ませてくれることを願って。


『お? 休憩か? 吾も仲間に入れてくれ』


 不意にクインの声が聞こえる。昼食後、異次元回廊内を散策しに行っていたのだが、休憩のタイミングを見計らったように帰ってきたらしい。


 人型の状態で近づいてくるクインの、散策を楽しんできた雰囲気に空気が和み、アルだけでなくヒロフミたちも思わず気が抜けた様子で、クインを迎え入れた。

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