第322話 微睡みの淵
クインの言葉を聞いて、真剣な表情で集中したアルたちだったが、それは軽い調子で躱されることになった。
空を見上げたクインは、アルたちの顔に頬ずりし、詠うように告げる。
『――話をするにしても、今日はもう遅いようだ。幼子たちは眠りの時間だろう』
「……もう子どもではありませんが」
少しばかり自尊心が傷つけられたからか、アルの口調は拗ねた感じになった。そのせいで、より子どもらしさが際立ってしまった気がするのが不本意で、口を閉ざす。
アルと同様にクインに頬ずりされたサクラとアカツキは、顔を見合わせて微笑を浮かべた。二人はクインに子ども扱いされても、擽ったいと感じつつ喜ぶ程度には大人であるようだ。
『吾にとっては、幼子と同じだ』
愛しげな眼差しで宥められると、アルはため息をつきながら受け入れるしかない。ここで反抗すれば、さらに子ども扱いされるのが目に見えていた。
『……面白い。アルにはあまり馴染みがないものだろうな』
「面白がらないで」
揶揄するように囁くブランを見下ろし、軽く頭を叩く。だが、言われてみれば確かに、馴染みのない感覚だと納得した。
母はクインのように愛情の籠った眼差しを向けてきたかもしれないが、それはほとんどアルの記憶にない。アルがただの子どもでいられる時間は、あまりに短かった。
アルの過去をよく知るブランは、揶揄しつつも本気で微笑ましく思っていたらしく、照れ隠しに頭を叩かれても、怒り出すことはなかった。そればかりか、アルを子ども扱いするように、『寝るぞ』と促す。
アカツキやサクラも、クインの話に後ろ髪を引かれた様子ながら、アルに「おやすみなさい」と微笑みかけてきた。
「……調子が狂う」
『たまには子どもでいるのも楽しいだろう?』
「そうかもしれないけど……やっぱり居心地が悪い」
クインは知識の塔の傍で休むというので、アルたちは自分の寝床に向かった。その道中、ブランと軽口を叩きながらも、アルは自分の感情の揺らぎに気づいて苦笑する。
アルは自身の感情を平坦だと思っている。少しの波が起きることがあっても、アル自身を振り回すほどの情が生じることがほとんどない。それは精霊の性質を継いでいるからなのかもしれないし、それとはまったく関係なく、育った環境による影響なのかもしれない。
だが、どのような理由があるにせよ、アルが人間関係において唯一といってもいいくらいに感情を揺さぶられるのが、家族に関することだった。
アカツキとサクラという兄妹に対して、寂しさに似た感情を覚えるのはその一例だ。
『アルにはたくさん家族がいるな。我はあまり良いとは思わないが、精霊どもはみなお前のことを愛しい子だと思っているのだろうし、我が母もそうだろう』
「ブランは?」
アルが最も近しいと思っている存在の名が挙がらないことに、少し不満を感じながら呟く。
ブランはアルの肩から身を乗り出し、頬に擦りついてきた。
『我は家族であり、友であり、相棒であり――まぁ、いろいろだな』
「……珍しい。すっごく素直」
気恥ずかしさからか捻くれた言葉を放つことも多いブランとは思えない返事に、アルの方が顔を歪めて言葉に困ってしまう。その様子を鼻で笑うブランは、やはりいつも通り偉そうだったが、アルは怒る気にならなかった。
「クインは――」
知識の塔の最上階で寝泊まりするアカツキたちとは違い、アルは望んで塔の傍にテントをおいて寝床にしている。
テントの入り口を押し広げながら後ろを振り返ると、白い巨体がゆったりと寝そべっていた。既に目蓋が閉じられ、眠りについているように見えるが、それが本当かは分からない。
「……すごく疲れているね」
じっと観察した末にアルがポツリと呟くと、ブランは肩から跳び下りてテントの中に入っていく。
『そうだな。我らに眠りを促したのも、母自身が限界だったからだろう』
静かな口調だった。ブランが愛する母親のことを語っているにもかかわらず、少し突き放した言い方にも聞こえる。
アルは意外に感じながら、テントに入りベッドに腰かけた。そして、自分の寝床に座り込むブランを見下ろし、首を傾げる。
「心配じゃないの?」
『……ふむ。心配、か』
ブランも首を傾げ、少し納得がいかなそうに呟いた。
『――我らは誇り高き聖魔狐。弱い姿を見せることはない。何故なら、魔物の世界において、弱さは死に直結するからだ』
「うん、それは分かる」
ブランが真面目に自分の種族について語ることは珍しい。常日頃、軽口のように気高いとか、美しいとか自称するが、その意味をこれまで詳しく話してこようとすることはなかった。
アル自身、聖魔狐という魔物が特別視される存在だということは知識として理解してはいるものの、身近な存在であるがゆえに、深く考えることはあまりない。
だからこそ、眠気さえ追い払い、珍しいブランの語りに耳を傾ける。
『血の繋がった家族であっても、例外ではない。魔物にとって理性とは風前の灯火に等しく、いつ相手を食い殺すことを望むか分かったものではないのだ』
「え、家族でも?」
アルは目を丸くしてブランを凝視する。ブランやクインの愛情深い姿を知るアルにとっては、あまり納得できる言葉ではなかった。
『そうだ。……まぁ、聖魔狐は特殊だろう。何故かは分からぬが、魔物という枠組みから少々逸脱した種族だ。それでも、魔物としての本能があるから、家族であっても油断はしない』
「へぇ……複雑なんだね」
ブラン自身も知らない聖魔狐の特殊性に興味が湧く。あらゆるものの誕生にアテナリヤが関わっていることを知っているアルとしては、その特殊性にアテナリヤの影響を感じずにはいられなかった。
アテナリヤが生きもののために創り出した生きた森が、聖魔狐の棲息地になっているのも、何かしら意味があることなのかもしれない。
「――そういえば、僕の誕生があの場所になったのも、生きた森の近くだからなんだっけ……」
前に聞いた事実を思い返し、アルは「んー……」と呟き、首を傾げる。
全ての事象が繫がっているとは限らないが、今現在アルとブランが相棒として確かな情を育み、アテナリヤという存在が抱いている謎を追究しようとしているのも、あらかじめ決められていた流れのように思えた。
先読みの乙女とは、そのような流れを読み取る者なのかもしれないと、ぼんやりと考える。俄然、クインの得てきた情報に興味が湧いた。
『……母は我に心配されたくないだろう』
「え?」
ブランの拗ねたような声で、アルの物思いは遮られる。横道に逸れていた意識を自覚し、ブランの言いたいことを理解するまでに数瞬。
「――ふふっ、なるほど。ブランはクインを気遣って、疲労に気づかなかったふりをしたわけだね。でも、疲労を隠されたのは不満で、拗ねているんだ。もっと信頼してもらいたかった?」
『違う。老いた身だと、無理がきかんのだろうと馬鹿にしているだけだ』
もともと、こんな話をし始めたのは、ブランがクインの疲れた姿に、突き放したようなことを言ったからだ。結局は『水臭い』という感情からだったようだが。
憎まれ口を叩くブランの頭を軽く叩き、そろそろ寝ようと促す。明日も濃い話が続きそうだから、英気を養っておく必要があった。
「……信頼していないから、疲労を隠したわけじゃないと思うけどね」
『なに?』
明かりを落として毛布にくるまり、アルはポツリと呟く。薄暗い中で、ブランが身動ぎする気配を感じた。
「いつも、ブランが言ってるよね。気高い聖魔狐って。生まれた時からそう思っていたわけじゃないでしょ? 親の姿を通じて、聖魔狐という存在の気高さを知るからこそ、ブランは自信を持って、聖魔狐である自分を誇ることができるんだ。――クインはブランの誇りを守りたいんだよ」
『……意味が分からん』
アルもあまり分かりやすい言葉ではなかったと思った。だが、ブランは何か感じるものがあったのか、僅かに声を和らげ、仕方なさそうにため息をつく。
『――だが、我にとって、母が気高い聖魔狐であることは、何があろうと変わらん事実だ』
「そうだね。愛情深くて、優しくて、素敵な魔物だ」
アルは微笑み、目を瞑る。
微睡みの淵で、ふと自分にとっての母とはどんな存在なのだろうと思った。もしかしたら、母の一側面であった先読みの乙女という存在を知ることで、アルも母という存在への理解を深められるのかもしれない。
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