第235話 見守る者と水の意味

 澄んだ水が石の器に満ちる。フチから溢れ出すと側面を濡らし、足元まで浸食してきた。


「――なんというか……幻想的なんだけど、だからどうした、という気もしてくるのが不思議だね?」

『結局水が湧いてきただけだからな。なんだ、この水飲めばいいのか?』

「アカツキさんは手と口を清めると言っていたけど、精霊とか神とかの考えと一致するものかな」

『まあ、やってみればいいんじゃないか? 水に害はなさそうだ』


 石に刺さった剣は未だ光を放っていて、辺りは少し明るい。その光に照らされる景色を眺めながらこの後のことを考える。退屈そうに欠伸をするブランは頼りにならなそうだ。


「……いや、いやいやっ! もっとテンション高くいきましょう!? 絶対これ、『わあ、なにこれ、すっごぉい!!』って反応求めた演出のはずですって!」

「アカツキさんも演出って言っちゃってるじゃないですか……」


 呆れているのか、それともおののいているのか、奇妙な表情を浮かべて肩を掴んでくるアカツキを宥める。

 どうにか手を外してもらって、再び石の器に視線を向けた。変わらない光景に目を細める。


 演出。

 アカツキが放った言葉が脳裏に浮かんでくる。まごうことなくアルが抱いた感想と一致していた。

 石に剣が刺さり、水が溢れてくるというのは確かに驚きだった。だが、そんなことは魔法を駆使すればいくらでも再現可能である。まさしく演出であるのだ。


 ならば、これは何を飾るための、あるいは隠すための演出であるのか。

 それが、アルが今一番気になることだ。

 ただ美しいだけのものではないと、アルの勘が囁いてくる。


『――幼子おさなごはかような遊びを好むものだと思っていたのだがなぁ。いやはや、わたくしの勘が外れたか』


 不意に響いた声にアルは目を細めた。僅かに警戒を示したブランが尻尾を揺らす。


「ひょえっ! 今度は何!?」

『……珍妙な鳴き声だな』


 瞬時にアルに抱きついたアカツキを揶揄するように声が囁く。

 アルはその声に含まれる感情を読み取り、僅かに緊張を緩めた。声に敵意は一切窺えない。


「アカツキさん、褒められていますよ」

「いや、なんで!? 絶対褒められてないし、そもそもアルさん落ち着きすぎではっ!?」

『お前が慌てすぎだ、粗忽者。とりあえずアルから離れろ』


 ブランがうるさそうに顔を顰め、尻尾でアカツキの顔を叩く。しかし、アカツキは抵抗するように腕の力を強めた。完全に逆効果である。

 身動きがとりづらい現状に眉を顰めながら、アルは石の器に視線を向けた。

 新たな光が生まれようとしていた。


「……妖精?」


 思わず言葉が零れ落ちた。新たに生まれた光は、意外なことに見慣れた姿をしていた。


『いかにも。そなたと言葉を交わす時を待っていたぞ、アル』


 透き通った羽を持つ小さき妖精が、愛おしげに目を細めた。

 その姿を見つめて返事を考えながら、アルは心の内でぽつりと呟く。初めて会う気がしない、と。


 妖精が剣の柄に寄り添う。それに合わせるように、溢れる光が増した。


「……ああ、そうか――」


 ようやく気づいた。

 アルは妖精に微笑みかけて、答え合わせの言葉を呟く。


「君は、ずっとそこにいたんだね。僕が持つ剣の中に。剣が形作られるより前、精霊銀の鉱石だった時から……」


 幻想的な姿の妖精が、悪戯っぽく笑みを浮かべた。それはアルの考えを肯定するものに他ならない。


「ええっ!? マジっすか? 妖精さん、剣の妖精なんですか?」

『剣にいたのは確かだが、わたくしは精霊の眷属の妖精だ。本来の主に頼まれて、落とし子に寄り添うために精霊銀に宿った』

「……落とし子というのは僕ですね?」


 トラルースもアルを指して落とし子と呼んだ。どうやら精霊の側ではアルの呼称としてある程度一般的であるらしい。それが意味するところは正確に読み取れないが、嘲る意味がないことは伝わってくる。


『いかにも。姫が、神が、望み、愛し、許し、この世に生まれ落とした愛おしき子だ』

「……姫というのは、母のことですね」

『ふふ……さよう。姫はまこと愛おしくかなしく憐れで……懸命に生きる者だった』


 妖精が目を細め、懐古的にうたった。アルの記憶の中に朧気に存在する母のことを、妖精もよく知っているようだ。


「そうですか……。あなたが知る母のことを聞いても構いませんか?」


 心が向くままに問い掛けたアルを、妖精が見つめて首を傾げる。


『構わぬが、今はそれよりもここを出るべきであろう。そなたの兄も、今か今かと待っているようだ。これ以上はそそっかしきあやつが何をしでかすか分かったものではない』

「あー……フォリオさんの様子が見えているんですね……」


 呆れたように呟く妖精に、アルもなんと返すべきか迷いながら苦笑した。どうやらアルが精霊の森にやって来ないことに、フォリオはだいぶ焦れてしまっているらしい。


『――それで? お前が剣に宿っていた妖精だとは分かったが、結局どのようにして精霊の森に行けると言うのだ? その水、飲めばいいのか?』


 静かに展開を見守っていたブランが口を挟む。

 アカツキはポカンと口を開けていて、その間抜けな面を尻尾が叩いた。顎を下から叩かれて、強制的に口を閉ざすことになったアカツキが、舌を噛んだ痛みで無言で悶える。


『……精霊の森は精霊の訪れを妨げることはない。アルは最低限の資格を持っているから問題ないが、お前達が駄目だった』


 妖精が指したのはブランとアカツキ。アル達が予想していたことは事実だったようだ。つまり、資格なき者がくっついていたから、アルは精霊の森に辿り着けず彷徨っていたということ。


『むぅ……やはりそうか』

『この水は剣に貯めたアルの精霊としての魔力により湧いた水。その身を浸し、魔力を纏え。それが許しとなり、森に渡る資格となろう』

「……なるほど。僕の魔力から、精霊の性質となるものを選んで貯めてあったんですね」

『それが私に課された役目である。いずれ森を訪れる際に、アルの同行者を共に迎えるためだ』

「いつから――いや、それは今はいいか……」


 アルは質問を取り止めた。妖精が意味深に笑みを浮かべるのに苦笑する。

 先読みの乙女の予言によって、アルの手に渡った剣に宿っていた妖精だ。今さら、未来を先読みしていたと言わんばかりの言動に大きく感情を揺さぶられることはない。尋ねる機会はいくらでもあろうと、ここから出ることを優先した。


『ふぅん? 水浴びか……』


 ブランが嫌そうな顔で水に飛び込んだ。自慢の毛が濡れて不快そうだが、普段湯浴みを嫌がるほどの文句は出てこなかった。


「え、えぇと……浴びればいいんですね……?」


 戸惑い気味に柄杓を手に取ったアカツキが、水をすくって頭上から被る。

 アルはすかさず離れて、アカツキが濡れていく様を見守った。


「ひぇっ、冷たい! ねぇ、どこまで被ればいいんスか!?」

『もっとだ、もっと。許しが出るまで身を浸せ』

「どうせなら、俺が浸かれるサイズの器にしてほしかったなぁ!?」


 騒がしく文句を言いながらも、アカツキが二度三度と水を被る動作を繰り返した。髪から水が滴り、服を濡らしていく。

 次第にアカツキから何かが薄れいくように見えた。ブランもそれに気づいたようで、アカツキを見ながら水気で萎んだ尻尾を石に打ち付けている。


『……我はもう良さそうだな』

「えー!? 俺はまだ!?」

『まだだ、まだ。――本来あるべき永遠の檻から放たれるには、まだ暫くかかる』


 濡れそぼって跳びついてくるブランをタオルで受け止めながら、アルは妖精とアカツキを見守った。

 妖精はアカツキを鼓舞するように、見定めるように、じっと静かな眼差しを向けていた。

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