第202話 遊びと両立

「フッ……!」


 木の陰から襲い来る白い影を剣の鞘で打ち払い、縄の橋を駆ける。不安定な足場に、自然と体に力が入った。

 背後から迫る気配に身をかがめる。頭上を勢いよく尻尾が薙ぎ払った。

 かがんだまま縄に手を掛け、ぶら下がるようにして跳び下りる。縄の橋の二メートルほど下には大きな丸太があり、着地と同時にその上を駆けた。


『アル、そっちに行くのは卑怯だ!』

「ブランこそ、後ろから狙うのはひどくないっ?」

『馬鹿者、魔物が常に真正面から来るわけがなかろう!』

「だったら、人間が魔物の入れないところに駆けこむのも当然だよねっ!」


 ブランとの訓練を兼ねた追い駆けっこを続け、さすがに息切れしたアルは、丸太を下った先にある小さなウロに身を滑り込ませた。本来の姿でアルを追っていたブランが、その入り口付近で足踏みして隙を窺う。大きな目がウロを覗き込んだ。

 訓練だというのに、あまりに執拗である。

 疲れてきたアルは、アイテムバッグから携帯食を取り出した。ドライフルーツを練り込んだ硬めのクッキーだ。飲み物は吸収率がいいように特別配合した塩味のある水。


『ずるい! 我も食う!』

「……ブラン」


 小さく変化してまでウロに飛び込んできたブランを、アルは呆れを籠めた目で迎えた。どのような状況であっても、食欲を優先しすぎる相棒だと思ったのだ。


「お二人さーん、このアスレチック施設、遊びのために創ったんであって、決して命のやりとりのために創ったんじゃないんすよ~。……なんなの、まじ、スタントマンを軽く超すような動きするじゃん。映画かよ……」


 よたよたとした足取りで近づいてきたアカツキが、疲れ切ったため息をつく。アルもブランも首を傾げてその発言を聞いていた。

 アルたちからすれば、これまでのやり取りは遊びのようなものだ。命のやりとりというほどの切迫感はなかった。


「よく分かりませんが、クッキー食べますか?」

「……食べます」


 アカツキも食欲に忠実である。

 アルから渡されたクッキーを齧ろうとして、「硬っ⁉」と驚愕の声を上げた後、真剣な表情でクッキーに向き合っていた。


「アルさ~ん、頼まれていた資料、集めておいたわよ~」

「は~い、ありがとうございま~す」


 遥か下の地面から聞こえたサクラの声に返す。

 何気なく見たのだが、思った以上の高さだったので顔が引き攣った。気軽に跳び回るアルたちに、アカツキが苦言を呈したのも仕方ない気がする。


「……下りるか」

『もう遊びは終わりか?』


 まだ駆け足りない様子のブランの頭を撫でる。アルもブランと駆ける遊びは楽しかったが、やるべきことがあるのも事実。


「また明日ね。今日はアカツキさんと遊んだら?」

「えっ⁉」

『……うむ。アルとは天と地ほどに能力がかけ離れているが、まあ、手加減して遊んでやろう』

「いやいやいや! 俺、そんなこと頼んでないですからねっ!」


 首と手を振り続けるアカツキの肩に手を乗せる。ゆっくりと動きを止めたアカツキが、アルを窺うように視線を上げた。


「アカツキさん、暇でしょう?」

「…………はい、暇です」


 返事までの間がアカツキの葛藤を物語っていた。

 だが、元気いっぱいのブランが、作業に集中するアルにちょっかいを掛けだすことを、アルは最近の流れで学んでいた。アカツキにはぜひ、ブランの暇つぶしをお願いしたいところだ。


 枝を伝って、橋を渡って、時に不安定な足場に跳び乗って。最短距離で地面に下りてきたアルを、サクラが呆れた表情で出迎えた。


「最初はこの施設に懐疑的だったみたいなのに、随分と楽しむようになったわね。同じ人間とは思えない動きだわ。……もしかして、こちらの人間と私たち、魔法を使えるか否か以外にも、身体能力に根本的な違いがあるのかしら」

「僕は訓練しているからだと思いますよ?」

「……訓練しても、できる気がしないんだけど。どこの野生児よ……」


 なんだかとても不名誉なことを言われた気がする。

 思わず顔を顰めるアルに、サクラが肩をすくめて何も言わずに歩き出した。アルもその後について歩く。

 サクラと先の予想もつかない研究に手を出してから、既に一週間の時が過ぎようとしていた。




「サクラさん、ここの記述なんですが――」

「それ、私には分からないっ! ニイー、解説に来てー! っていうか、宏兄、帰ってこーい!」


 隣り合って机に向かっていたサクラが、天井を見上げて叫んだ。切実な響きである。

 知識の塔などにサクラの名で研究書があったが、サクラ自身はさほど研究が得意というわけではないらしい。元々はヒロフミと共同で研究し、本としてまとめる役目を担うことが多かったのが、サクラだったようだ。

 外に見せるために用意した本ではないのだ。それを研究した者が誰かなんて、厳密に示す必要性をサクラたちは感じていなかったのだろう。


「そういえば、ニイという名前はどこから付けたんですか」


 アルの疑問点を解消するため、ニイが来るのを待つ間に、サクラに問いかけた。集中力が途切れていたらしいサクラも、紅茶を水のように喉に流し込んでから、アルに視線を返す。


「そのままよ。兄のニイ。ニイが【まじない】を使える理由は説明したかしら?」

「……流離人の血を持っていると」

「ええ。その血が宏兄のものってだけ。……どうしたの。もしかして、もう亡くなった人のものだと思っていた?」

「……多少は」


 目を細めたサクラに頷く。死を望む者を解放する際に採取した血を使っているのだと、てっきり思っていた。


「まあ、宏兄の血を使うっていうのも、研究の一環だったんだけど――」


 そう前置きして語りだす。

 永遠の命を解放する剣は、心臓に突き立てることで、その効力を発揮する。では、心臓以外を刺したらどうなるのか。その疑問を真っ先に口にしたのがヒロフミであったらしい。


 元々、少なくなる人口の分だけ、思考する頭脳が減り、この地の管理の手が足りなくなることを危惧していたヒロフミは、自分たち同様に思考する存在を生み出すことを考えていた。その際に生まれたのが、現在のニイの原型である。

 だが、それらは【まじない】を使えなかった。そのため、【まじない】を積極的に研究して運用していたヒロフミたちにとっては少々不都合が生じる。


「【まじない】を使う条件が何かと研究しだしたのはその頃ね。結論を言えば、私たちの体が必要であることが分かった。次に研究したのは、どれだけの量が必要かということ。一人分の体が必要なのか。それとも脳か。手足か。胴体か。……最少を見極めて行きついたのが、血液」

「……剣を自分に刺して?」

「実際に研究体として体を差し出したのは別の人よ。もう解放される日取りを決めていたから、それくらいは役に立ちたいと言って」


 そう言うサクラは渋い表情だった。全面的にその意見を受け入れて研究を行ったわけではないのだろう。だが、誰かがその体を差し出す必要性からは逃れられなかった。


「ニイはその血の持ち主がいなくなるまで、動き続けるよう設定されているの。逆を言えば、ニイが動き続けている限り、宏兄は無事に生きている。……ま、死ねないんだけど」


 サクラが肩をすくめたところで、ニイが部屋に入ってきた。その手にはお茶とお菓子を載せたトレイを持っている。


「お呼びと伺い参上しました。お茶とお菓子はご入り用ですか?」

「さすが、ニイ! 気が利く!」


 嬉々とした様子で手を伸ばすサクラの前にお茶とお菓子を並べながら、ニイが机の上に視線を落とす。


「……こちらの書物の解説ですか?」

「はい。ここの部分なんですけど」


 本の一部を指差したアルに、暫くした後ニイが頷く。


「承知しました。ご依頼の箇所に関する情報は記憶されています。魔力とは何か――」


 つらつらと語られる情報に、アルは真剣に耳を傾け、メモをとった。

 アルの日常になった作業である。

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