第174話 忘れたくない名前

 勝手にキッチンを借りて鍋を煮込む。コメは既に用意できているし、ミソスープもいつでも食べられる。後はアカツキを待つばかりだ。


「……っ、地獄の階段、ヤバいっす」

「あ、アカツキさん、お久しぶりです」

「俺的には全然久しぶりじゃないんですけどねー! 起きました! 頑張って試練突破しましたよ!」

『我らよりどれだけ時間をかけたと思っている。もっと早く起きろ、馬鹿者』

「ひえっ、ブラン厳しぃ……」


 アカツキは現れた途端騒がしかった。長い階段を自力で上ってきたのか、疲れ切った様子でリビングの床に敷かれていたクッションに埋もれ、起き上がる気配なく声を上げている。

 そんなアカツキに、ブランは冷えた視線を送っていた。アカツキを迎えに行っていたのだから、階段くらい乗せて上ってあげればいいのにとアルは思うのだが、ブラン的にはそこまで甘やかす義理はないということだろうか。

 スライムとラビは元気いっぱいでアルの足元に寄って、『何を食べられるのかな?』とわくわくした雰囲気で跳ねている。主人の様子に頓着しない感じが懐かしく、こっそりとお肉を味見させてあげた。


「試練のお話は聞きたいんですけど、まずはご飯ですね」

「待ってました! 味噌汁!」


 テーブルの上に料理を並べると、アカツキが嬉々とした様子で起き上がる。ブランやスライムたちもテーブルに近づいてきたところで、ちょっと早めの夕食の開始だ。

 今日のメニューは、コメ、ミソスープ、チクゼンニだ。チクゼンニは鶏肉と根菜類をショウユやダシなどで煮込んだ物だ。研究室にあった料理本に書いてあった料理を再現してみた。


「おお……味噌汁、美味い……。そして、これは――」


 一口ミソスープを食べたアカツキが、チクゼンニを見て瞠目した。頻りに瞬きを繰り返してから、恐る恐るチクゼンニを食べる。

 アカツキの様子がおかしく感じて首を傾げ眺めていると、チクゼンニを味わった後、アカツキがほろりと涙を零した。


「アカツキさん⁉ どうしたんですか? 美味しくなかったですか?」

『旨いぞ? 我としては、もっと肉が多くていいと思うがな?』

「ブランには聞いてない!」


 肉を多めに入れられた皿に顔を突っ込んでいたブランに思わず強めに言い返すと、『むぅ……』と拗ねたような声で何事かを呟き、食事に戻る。その際アカツキをちらりと見たようだが、さほど関心を抱いた様子はなかった。ブランの冷めっぷりは相変わらずである。


「――これ、これ……これぞ正しく、おふくろの味……。なんで、なんで……? アルさん、どうしてこの味を出せたの……。これを作れるの、おふくろか、それか……」

「アカツキさんに親しみがあった味だったんですね? これはここの研究室に置かれていた料理本を見て作った物ですよ」

「料理本……。じゃあ、もしかして……」


 何かに気づいたアカツキが、パッと身を翻すので、慌てて研究室の場所を教えた。食事中に席を立つのは礼儀として駄目だが、今はそれを指摘する状況ではあるまい。アルもアカツキの後を追い、研究室に向かった。


「アカツキさん、一体どうしたんですか……?」


 研究室に入った時、アカツキは本棚から料理本を取り出し、ジッと見つめていた。その鬼気迫った様子に、自然とアルの声が小さくなる。今アカツキの邪魔をしてはいけない気がした。

 静かに捲られる料理本。それは手書きされた物だ。絵まで入れられた丁寧な作りで、アルはその仕事ぶりに感心した。どの料理を再現してみても美味しくて、余程実力のある料理人が考えた物なのだろうと考察していたのだが、アカツキはどう感じているのだろう。


「――これも、これも、これもっ……俺の大好きな料理なんですっ。見ないと思い出さないとか、俺の頭、ポンコツすぎる……っ」


 アカツキの語尾が不自然に跳ねた。アルからはアカツキの背中しか見えない。だが、その声が涙で濡れているのはよく分かった。

 なんと言えばいいのか分からない。アカツキが何を言いたいのかも正直上手く理解できないでいる。


「俺ねっ、試練ですっごく幸せなところにいたんですっ! 今は、ほとんど思い出せないんですけどっ、すっごく幸せだったんですっ。ずっとここにいたいって思って、全然抜け出せなくてっ、でもそれで良いって本気で思ってました……っ」


 アカツキが唐突に試練の話をしだした。どうやら、試練の内容はあまり覚えていないらしい。アルとは違う。その理由は何故かと考えたら、クインの言葉を思い出した。クインはアカツキの記憶は封印されていて、それを掻い潜って望みを映しだすのに手間取ったと言っていた。

 封印された記憶に基づく試練は、突破した途端にその記憶を封じられてしまったのだろう。だが、アカツキの様子を見る限り、以前よりもその封印は揺らいでいるようだ。


「俺、アルさんたちが待ってるって、知ってましたっ。だって、来てくれたんですっ。俺が幸せな場所にいつまでもいて、ずっと寝てるのを、あいつ、すっごく叱って、俺の手を引っ張ってくれたんですっ……アルさんたちが待ってるよって言って……っ」

「アカツキさんの試練に、誰かが介入したんですか?」


 思わず瞠目する。アルは試練に介入する方法を見つけ出せなかったが、先にそれを成した者がいたらしい。だが、アルたち以外に人間がいるとは思えないここで、一体誰がそんなことをできたのかと首を捻る。

 クインならできるかもしれないが、彼女の役目を考えるとそれはありえない。では、他に誰が……と考えたアルの頭に、奥の部屋で眠る存在が浮かんだ。


「あの女の人……?」

「アルさんっ、何か知ってるんですかっ⁉」


 呟いた途端、アカツキが泣き濡れた顔で振り返った。開いた料理本をそのままに、勢いよく駆け寄って来て、アルの脚を摑んで揺さぶってくる。


「ちょ、アカツキさん、落ち着いて……!」

「ねぇっ、知ってるんでしょう⁉ あいつ、ここにいるんですか⁉ あの料理本、絶対あいつが書いた物ですよね⁉ だって、あれに書かれているイラスト、全部見覚えがある物ばかりなんですよっ?」

「アカツキさんが言うあいつって、【サクラ・ホンドウ】のことですか?」

「サクラ……ホンドウ……」


 尋ねた途端、アカツキがポカンとした顔で固まった。その理由が分からず首を傾げながら、アカツキが開いていた料理本を手に取る。この本は背表紙に著者名がなかった。だが、一番最後のページに、著者のサインらしきものが書かれている。

 そのページを開いてアカツキに見せると、震える手がそのサインをなぞった。


「サクラ……そう、桜だ。あの子は桜。なんで忘れてたんだ。ホンドウは本堂。俺が一番知ってるはずだろ……?」


 ハハッと乾いた笑い声を漏らすアカツキを、アルは心配しながら見守った。どうやら記憶が蘇ってきたらしい。


「桜、桜、あの子は桜。今度は絶対に忘れない。桜は、俺の大切な……大切な……誰……?」


 サインをなぞりながら、記憶に刻むように呟いていたアカツキが、次第に呆然として目の焦点を虚ろわせる。

 この瞬間にも、アカツキの記憶は封印と抗い続けているのだろう。あまりに不安定な状態に見えた。


「アカツキさんっ! あなたが忘れてしまっても、僕が代わりに覚えておきますから、教えてください! サクラ・ホンドウとは、アカツキさんの大切な誰なんですか?」


 ジッとアカツキの目を見つめた。今この瞬間だけでも思い出せと告げるように力を込めて。


「サクラは……桜は――」


 虚ろに彷徨っていた目が、不意にアルを力強く見つめた。アカツキの手が縋るようにアルの手を握りしめる。

 アルはその気合いに応じるように、頷き返した。アカツキがこれから何かを言い、それを忘れようとも、アルは絶対にそれを忘れないという自信がある。



「――――本堂桜は……俺の……俺の大切な…………妹、ですっ……!」


 震える声がそう告げた途端、アカツキの体が力を失った。くたりと倒れる体を慌てて支えて、体調をチェックする。どうやら気を失っているだけのようだ。


「……妹?」


 不意に容器の中で眠る女性を思い出す。丸まっていたからその容姿はよく見えなかった。だが、どこかアカツキに似ていなかっただろうか。ダンジョン内で見たアカツキの姿を思い出し、女性の姿に重ねると、驚くほど似ている部分が多い気がした。


「じゃあ、あの人が、ホンドウ・サクラで、アカツキさんの妹ってこと……?」


 何故アカツキの妹がこんなところで眠りについているのか。謎は深まるばかりだが、アルはとりあえずアカツキを落ち着いて寝かせるために、寝床の準備を始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る