第173話 眠る者

 見えない壁の先に進む方法。

 それは、靴を脱いで上がるというだけだった。棚に靴が仕舞われているのを見て、家の中では土足禁止という文化がある地域を思い出したのだ。

 ブランは手足を拭いたら通れるようになった。恐らく魔道具か何かで通行の制限がされていたのだろうが、どういう仕組みになっているか非常に気になるところである。


『……ここの家主は綺麗好きか? 我はそんなに汚れていたか……?』

「地味に落ち込んでるね。余裕ができたらお風呂入る?」

『……うむ』


 風呂嫌いなブランが渋々でも頷くくらい、汚いという認定はショックだったらしい。アルは笑いを堪えながら廊下を進んだ。

 廊下は狭い。いくつか扉があったので、開けて確認して回ったが、どれも研究室のようだった。だが、どの部屋も雰囲気が異なる。少なくとも三人以上が利用していたようだ。


「雑然としている部屋が一つ。他は綺麗に片付いているね。……まるで、もう使うことがないから、って感じ」

『死期を悟って片づけたということか?』

「うん。雑然とした部屋の使用者が、まだここにいる人なのかなって思った」


 研究室にはたくさんの本やメモが残されていた。それを一つずつ確認したいのだが、ブランのジトッとした目に阻まれる。『先に人間の確認!』と言いたいのだろう。

 アルは名残惜しげに視線を研究室に向けてから、廊下の奥の部屋に進んだ。


「ここはリビング? 見て、植物を編んで床材を作ってある。面白いね」

『ほう、不思議な温かみがあるな』


 緑色の床材が十枚ほど並べられ、ローテーブルとクッションが置かれている。どうやら床に座って寛ぐようだ。

 リビングの壁には五つの扉があった。端から順に確認していくと、三つが基本的な家具が置かれているだけで何もない部屋。一つが炊事場だった。

 最後の一つを開ける前に、躊躇いがちにノックする。この先に人の気配があることに気づいていた。これまで何も反応がなかった以上、ノックに意味はないだろうとは分かっていても、最低限の礼儀は示したい。


「――失礼します」

『返事はなかったけどな』


 一応挨拶して扉を開けるアルをブランが揶揄う。無駄な礼儀が面白かったらしい。

 中に入って一番に目に入るのは丸い容器だった。ベッドの上のクッションに埋もれるように置かれている。下半分は銀色だったが、上半分は透明だったので、近づくと中に入っているモノが分かった。


「……女の人だ」

『うぅむ? 何故こんな物の中で寝ているのだ?』

「反応はないみたいだけど……生きているのは確かなんだよね」

『ああ、生きている気配はある。だが……どうも目の前にいても捉えづらい気配だな』


 容器を叩いても、中にいる女性は微動だにしない。丸まって健やかに眠っているようだ。年齢はアルより上、アカツキより下くらいだろうか。

 ブランがベッドに跳び下りて、容器の周りをクルクルと観察して回り、首を傾げている。


「起こすための手がかりがないかなぁ。……あ、なんかメモがある」

『わざわざ容器に張り付けているとは、あからさまだな』


 呆れ気味に呟くブランに苦笑しながら、クッションに埋もれるように張り付けてあったメモを手に取る。


「『訪問者へ。私の目覚めを望むのならば、合言葉が必要です。私の生まれた国を答えてください』って……は?」

『なんだそれは……。知らん女の生まれた国なんて答えようがあるまい』


 顔を顰めるブランの言葉を聞きながら、アルは首を傾げた。この女性は知らないが、とりあえず知っている国の名前を全部言ってみれば良いだろうか。


「じゃあ、グリンデル……マギ……ノース……ドラグーン――」


 近いところから順に名前を挙げていくが、全く反応がない。現在ある国の全ての名前を言い終わったところで、一度口を噤む。


「よく考えたら、ここにいる人って、ここ生まれじゃない? それか、大昔の国」

『そうかもしれんが……我はつらつらと国名を挙げられるアルの能力に感心を通り越して呆れているぞ』

「失礼な。これくらい基礎知識だよ。えぇっと、異次元回廊……ダメか。じゃあ、既に滅亡している国の名前を――」


 脳内の歴史書を捲りながら、更に国名を挙げていく。どんどんブランが引いている気がするのだが、何故だろうか。


「――僕が知っているのはこれで全部。この人、本当にどこ生まれなんだよ……」

『知られていない国なのかもしれんな。……もしかしたら、この塔にある本に手がかりがあるかもしれんぞ?』

「ということは――」

『うむ……』

「よしっ! 本を読みに行こう!」


 ブランのお許しが出て、アルは勢いよく部屋を飛び出した。女性のことは気になるが、心は既に本に奪われている。これは今までの疑問を解消するいい機会でもあるのだ。女性について調べるという意味でも、ブランに止められる理由はなくなった。


『おいっ! 我を置いて行くな!』


 後ろから怒鳴られたが、ブランには足があるのだし気にしない。まずは手近な研究室を調べるかと、廊下に出てすぐの部屋に飛び込んだ。



 ◇◆◇



 研究室で一心不乱に本を読みふけること一週間。そこで女性の生国についての情報が得られなかったため、他の研究室にも入り浸り、三週間。そこでも得られなかった情報を求めて、塔を下へ進みながら、手当たり次第に本を読む日々を続けていた。

 ブランは最初こそ『さすがに不健康だぞ! たまには運動しろ!』と怒ったり注意したりすることもあったが、最近は呆れたのか一人でどこかに出掛けている。


「――ブランはどこに行ってるんだろう?」


 塔の半ばまで来て本を一冊読み終えたところで、暫しの休息をとりながら呟いた。異次元回廊で出会った謎を解決する本をいくつか見つけたので、そろそろブランと情報を共有したい。


「……まあ、食事の時間になれば戻ってくるか」


 一つ頷いて新たな本を手に取る。本の魅力とは凄まじいものだ。朝昼晩の食事の用意を忘れないところは褒められていいと思うのだが、最近のブランは機嫌が悪い。やはりそろそろ一度は外に出るべきだろうか。


「アカツキさんの様子も久しぶりに見に行こうかな?」


 思えば随分と姿を見ていない。クインからは毎朝『様子に変化なし』と書かれた紙が送られてくるので、それで納得してしまっていた。

 アカツキの試練に干渉する術はまだ見つかっていないのだが、そろそろ様子を見るくらいはした方がいいだろう。

 そう思いつつ再び本に没頭しだしたアルの集中力を遮るように、大きな声が塔に響く。


『――アル! アカツキが起きたぞ!』

「……え? ……起きた⁉」


 ブランの声だった。一瞬把握が遅れたが、気づいてすぐに階下を見下ろす。塔の入り口にブランの姿が見えた。


『今、こっちに向かってるぞ!』

「そ、そうなんだ。……よかった、ね?」


 アルが何もせずともアカツキが起きた。それは喜ばしいことなのに、ずっと放置していた形になったのが少々後ろめたい。

 飛んで近くにやって来たブランの眼差しがアルの手元に向けられ、大きなため息をつかれたのでさらに後ろめたさが増した。


「――こっちから、迎えにいこうか」

『門を通ったら真っ先にここに来るよう言ったがな』

「って、ブランはもうアカツキさんと会ったの?」

『我は度々様子を見に行っていたからな。ちょうど起きたところに居合わせたのだ』

「……放置していてごめんなさい」


 ブランの言葉が身を刺すようで、アルは体を縮めて謝った。


『……はあ……知識を得るのも必要だったのだから仕方あるまい。アカツキがミソスープを所望のようだったぞ。それくらいは準備してやったらどうだ』

「急いで準備するね!」


 呆れが大きいが許してもらえたようなので、アルはすぐさまアカツキ用のご飯作りに動き出した。

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