第168話 目覚めを待つ者たち

 アカツキのことはひとまずおいておくとして。アルは楽しげに目を細める女性に視線を向けた。女性の正体は分かっているが、色々と理解できていないことが山積みだ。どれから聞くべきかと首を傾げてから、女性の名前すら知らないことに気づいた。


「――なんとお呼びすれば?」

『……ふっ、ふはっ! 最初に聞くのがそれか……っ⁉ ははっ、そなた、些か他の人間とずれていると言われることはないか?』


 何故か笑われた。魔物らしい姿だった時とは違い、女性は笑い上戸らしい。紅茶を飲みながら半眼で女性を眺める。このくらいで怒る程、アルの怒りの沸点は低くない。ただなんとなく納得できない思いが渦巻いていたが、紅茶と一緒に飲み下せるものだ。


『うむ。確かにアルは、普通の人間とは感覚が違う』

「ちょっと、ブラン、どうしてそこで相手の味方になるの?」

『味方ではない。同意しただけだ』

「それが味方だって……」


 ブランが女性に同意するから、思わず憮然とした。ここで裏切りにあうとは思わなかったが、『普通の人間とずれている』ことはアルも自覚していることである。不満に思うもそれ以上文句を連ねることはできなかった。


『ああ、そなたは面白いなぁ。吾の呼び名か……。はて、吾は【試練を与える王】にして【門番】。それ以外の呼び名は持っておらんなぁ』


 首を傾げる女性に苦笑する。役割がそのまま名であるとは、少々寂しい気がした。


「……では、クインとでも呼びますか?」

『クイン、か? 何故なにゆえその名を選んだのだ?』


 きょとんと見開かれた目で不思議そうに呟いた。ブランがどこか呆れたような目で見上げるのを感じながら、アルは外の景色に目を向けた。深く考えずに口にしたので説明するのは恥ずかしい。安直な名前だとブランに言われずとも分かっているのだ。


「……古い言葉で【女王】を意味するクイーンからとりました」

『前々から思っていたが、アルは名づけのセンスがないな。我の名だって、古い言葉で【白】を意味しているんだろう?』

「……言わないで」


 名づけのセンスのなさが露呈してしまったことに、考えなしに言葉を放ってしまったことを後悔する。顔を背けるアルの膝を、ブランがちょいちょいとつついて揶揄ってきたが無視した。


『ふ……ふはははっ! なるほど、【女王】クインか! 分かりやすい名で結構ではないか! 名は体を表す、であるな!』


 笑い続けるクインを片眉を上げて見つめた。そこまで笑われることに文句を言いたいのだが、それも狭量に思えて躊躇われる。実に複雑な感情を籠めた眼差しだったが、クインは一切気にした様子もなく、笑い続けた結果盛大にむせていた。

 ゴッホッ、ゴッホッと苦しそうに咳をする姿を冷めた目で見て、心の中で『ざまぁみろ』と呟く。人のセンスを笑うからそうなるのだ。

 テーブルの上に広げられたお茶菓子の中からマフィンを選び、無作法ながら手で割って口に放り込む。バターの豊かな香りと、マフィンに混ぜられたジャムのほどよい酸味が心を癒した。


『警戒心を持てとあれほど――』

「美味しいよ?」

『……アルの作った物の方が旨いに決まっている! 我はアルのクッキーを食いたいぞ』

「クッキーね。……ああ、ドライフルーツを使ったクッキーがまだ残ってたよ」

『おお! 我が好きなヤツではないか!』


 半眼だったブランの目が一気に輝いた。アルが差し出したのはブランと出会った時に渡したクッキーと同じレシピで作った物。ブランはこのクッキーを何よりも好んでいた。

 嬉しそうに尻尾を振りながら両手に持ったクッキーを齧るブランに微笑む。テーブルの上にはブランが好きそうな甘味がこれでもかと並べられているのに、見向きもしないブランが可愛い。


『そんなに旨いのか……』

『やらんぞ』

「それで、クインは僕の質問に答えるつもりはありますか?」


 間抜けな死の危機から解放されたクインの物欲しそうな視線を受け流し、アルは会話を続けた。付き合っていては一向に話が進まないと悟ったのだ。


『……うむ。聞きたいことがあるならば答えよう。【門番】としての務めを求めるならば、応えよう』


 次々とブランの腹に収まっていくクッキーに、名残惜しげな視線を向けながらクインが言う。威厳のある口調なのに、その態度がどうにも残念に思えてならない。真面目な雰囲気が保てなくなるからやめてほしかった。


「【門番】の務めとは、あの塀の向こう側に進むことを許可するという意味ですね?」

『いかにも。試練を突破した者は、全て先に進む資格を得る。その黒き者はまだだが、アルや白き獣は既に得た』

「……アカツキさんは、いつ戻ってこられそうですか?」


 未だ眠っているように見えるアカツキについて尋ねると、クインが首を傾げた。


『黒き者は少々複雑な事情がある様子。記憶の封印を搔い潜り、真の望みを展開するのに手間取ったのは吾の不手際であるが……戻ってこられるかは黒き者の強さ次第。吾がその身の安全を保証することはない』

「帰ってこられないかもしれないんですね……」

『それが試練である。だが、この者にとっては幸せな環境であろうな。それが虚構であろうとも』


 クインが言うことは、アルも理解できていた。本に囲まれ、好きなように知識の海に溺れていられるというのは、今思い出しても幸せな環境だ。そこから抜け出すことになったのは、ブランとの絆があったのはもちろん、アル自身が虚構を受け入れられなかったからである。

 アルは小さなことにも思索を巡らせる性質たちだ。ブランの干渉が無くとも、試練の中で生じる違和感を突き詰めずにはいられなかっただろう。


 対して、アカツキはどうであろうか。アルほど細かいことを気にする性質ではないだろうし、クインの言い方ではアカツキの過去に関わる幸せな環境の直中ただなかにいるらしい。

 記憶がないことに苦しんでいたアカツキが、幸せな虚構から抜け出す可能性は低いと冷静に判断し、アルは深いため息をついた。クインへの質問を終えた後は、アカツキを残して先に進むべきかもしれない。胸をよぎる寂しさはあるが、時間は有限なのだ。


『――アカツキは、それほど弱くないと思うがな』


 ブランの静かな声が響く。ハッと視線を向けた先で、口元のクッキー屑を舐め取りながら、ブランがアルを見上げていた。その目は『アカツキを信じないのか?』と問いかけているようだった。

 簡単に見切りを付けようとした自分を恥じる。ブランほどには長い付き合いではないが、アカツキも旅の仲間なのだ。時間いっぱい待っても戻らないようなら、外側から試練突破を働きかける方法を探すべきだろう。


「そうだね。アカツキさんもきっと試練を突破できる」


 言葉にすれば、【言霊】という不思議な力で現実になるのだと古い文献で見たことがある。アルはそういう迷信は信じないが、それに頼っても損にはならないだろうと思った。

 ブランが尻尾をひと振り。言葉での返答はなかったが、アカツキを起こそうとアルが動いたら全力で力を貸してくれるだろう。


『仲良きことは美しきかな』


 揶揄うようなクインには冷めた目を向けてしまった。文句を言うのも無駄に思えて、アルは質問を続けることにする。


「――クインは試練を与える務めがあるそうですが、それはいつからですか? 一体何故そんなことをすることになったんですか? その務めを与えたのは誰ですか?」

『おおっと、急にたくさん来たな⁉ 落ち着け落ち着け』


 思いついた質問を挙げ連ねると、クインが身を引いた。パチパチと目を瞬かせ、答えを整理するように視線を斜め上に向ける。失礼な質問の仕方だったのは自覚があるのだが、クインはそれを咎める気はないらしい。揶揄い好きなのは気に食わないが、鷹揚なところはクインの長所だろう。


『吾について相当気になっているのだな? ……うむ、では、吾が覚えている限りの初めから語ってやろうではないか。時間はまだまだあるようだし、案内があった通りに【お茶会ティーパーティー】をしながら、な』


 紅茶のティーポットを掲げて、クインがにこりと笑う。【お茶会ティーパーティー】という言葉がここで繋がるとは思っていなかったが、アルもそれに不満はない。

 アルのカップに注ぎ足される紅茶から、豊かな芳香が広がった。

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