第167話 目覚め

『予想外に早い。何がきっかけか……』


 少女が不思議そうに首を傾げる。その仕草はどこか芝居じみていて、アルは違和感を覚えた。聞こえる声さえも今までとは違い、アルの心にそのまま伝わってくるように感じられる。


『吾が少女のごときであるのが問題か? 獣の姿の方が良かっただろうか? だが、そこまで存在を侵食するのは、些か気が咎める。うむ、そう、ただ吾が気に食わなかっただけの、些末事のはずだったのだが』


 何を言っているのか分からず、ただじっと見つめるアルに気づいたのか、少女が愉快げに微笑んだ。


『実にぬるい試練であっただろうか? だが、本来ならば、深層に進むごとに望みが叶い、欲が深まるはずだったのだ。人間がその流れに逆らう術は持たぬはずだったのだ』


 そこで一呼吸おいた少女が、ふとアルを凝視した。その視線はアルの首元に向けられ、不可解なものを目にしたかのように眇められる。

 アルは問いへの答えが未だ得られぬまま、縫い付けられたように開かない口に困惑し、少女の動向を見守った。不思議と、少女がアルを傷つけるとは少しも思わなかったのだ。

 ほっそりとした白い指がアルに向けられる。首元を撫でるように動いた指先が離れた時には、その指先に白い毛のような煌めきが見えた。


『なるほど。あの獣は守護を約した者か。深層の意識にまで干渉しうるとは……なかなか忠義者か? あるいは執着か』


 少女が何か言っているが、それよりもその指先に摘ままれた白い毛にアルの意識が奪われていた。

 ふわりとした毛は、少女が手を離した瞬間にどこかに飛んで行ってしまいそう。だが、それはアルの記憶を呼び起こすほど存在感があった。


「――ブラン」


 出会った時からこれまでの相棒との記憶。脳内を巡る光景を確認していたのは、長い時間のようにも一瞬のようにも感じられた。


『おや。記憶の鍵を吾自ら与えてしまうとは、ぬかった』


 自らの思慮不足を悔いるような言葉ながら、少女はやけに嬉しそうに目を細めていた。だが、すぐに不思議そうに顔を顰める。


『何故吾はこれほどまでにそなたたちに甘いのだ? これまでの相手には――』


 理解できない者を見るように、アルを凝視する少女。

 アルは苦笑して、漸く動くようになった口を指先で揉んだ。少女曰く、アルたちへの対応は甘かったらしいが、比較対象を知らないために少女の疑問を解消する術はない。それに、ここに至るまでの対応は、それほど甘くなかったと思う。


「あれだけ不公平な状況下で絶対的な力を見せつけておきながら、甘かったというのですか? 試練を与える王を名乗る方よ」


 少女が目を丸くしてすぐ破顔した。満足げに何度か頷き、親しげにポンポンと肩を叩いてくる。どうやらアルが少女の正体に気づいたことが嬉しいらしい。

 少女はアルを今の状況に導いた魔物だ。これまでの流れが果たして試練と言えるほどのものかと首を傾げたくなるが、アルの場合ブランの守護があって早々に自己を失っている状況から抜け出せたらしい。……そうでなければ、知識欲に吞まれていただろうと判断できるくらいには、アルは自身をよく理解していた。


『あの戦いか。あれはそなたが戦うことしか考えておらぬから、揶揄ったまで。本来与えられる試練は、自らの望みが叶えられた状況で欲に溺れることなく自己を取り戻せるかというものだ。まあ、そなたは少々ズルがあったが、こうして自己を取り戻したのは事実――』


 アルは思わず憮然とした。あの理不尽に思える戦いは、本来ならばしなくて良かったらしい。確かにこの魔物を前にした時、アルはどう戦うかしか考えていなかった気がする。それを読み取られて遊ばれるとは思わなかったが。

 心の中で対応を反省している間にも、少女の言葉は続いていた。


『ならば、吾は宣言しなけらばならん。そなたの試練の完遂を。それが試練を与える王たる吾の務めであるからには』


 ふと気づいた時には、少女の静かな目がアルを貫いていた。全てを見抜くような眼差しで、慈愛に満ちた笑みを口元に浮かべている。


『戻るがよい。そなたを必要とする者の傍に――』


 赤い目に意識が引き寄せられ、暗転した。



 ◇◆◇



『――寝坊助か。我は腹が減った。どれだけ我慢したと思っている。溢れんばかりの美食を捨てて、傍にいてやるのだぞ? 早く我に飯を捧げよ』


 ぼんやりとした意識で、不満そうで傲慢な言葉を聞く。その声音には心配が滲んでいた。


『もう少し落ち着けばよかろう。それに、旨い物ならば、ほれ、ここに――』

『我はお前が寄越した物を食わん!』

『なにも、毒を入れているわけではないのだが。……こんなに旨いのに、残念だなぁ』


 少しも残念そうではない声で、何者かが何かを食べる音がする。すぐ傍で喉が鳴った。どうやら食べたい気持ちを抑え込んでいるらしい。

 アルはそっと目を開けた。日の光が顔を照らして眩しい。そっと目を動かすと、顔のすぐそばに柔らかそうな白い毛の塊があった。ブランだ。どこかを見てうずうずと手足を動かしながら蹲っている。

 その視線が向く先を見ると、獣の耳を持つ妙齢の女性が、美味しそうにケーキを食べていた。女性がアルの視線に気づき口元を緩める。そのまま揶揄うような目をブランに向けた。


『ケーキの他にもあるぞ。この地は製作者により菓子が数え切れないほどあるからな。クッキー、チョコレート、キャンディー、フィナンシェ――』

『言うな言うな言うな! 我は食わんと言っただろう! 我はここではアルの飯しか食わぬと決めているのだ!』


 叫ぶブランから、大きな腹の音が聞こえてきた。お腹が空いているのに、意地を張る姿はいじらしい。思わず緩む口元を隠そうと手を動かしたところで気づかれた。

 勢いよく振り返ってきたブランの視線がアルに突き刺さる。この分だと、寝たふりをして二人の会話を盗み聞きしていたことにも気づいているだろう。意識がぼんやりしていて、起きる気にならなかったのは事実なのだが、それはブランの怒りを逸らす言い訳にはなりえないか。


『アル! 起きているなら、そう言えっ!』


 内心を知られた恥ずかしさを誤魔化すように叫ぶブランの頭を撫でる。どうしても笑んでしまう口は堪えられなかった。


「ごめんごめん、何も聞いてないよ」

『それは聞いていたと言っているのと同じだろうが! ……聞いていたならさっさと飯を出せ!』


 起きたばかりのアルに飯を強請るとは、なかなか酷い。アルは笑いながら身を起こした。

 どうやら長椅子に寝ていたらしい。顔に日差しが当たるのはおかしいと思っていたが、ここはテラスのようだった。柔らかな風がアルの頬を撫でていく。

 キャンキャン吠えるブランを撫でながら周囲を見渡すと、大きなテーブルがあり、多種多様な食べ物が並べられていた。女性がティーポットを傾けると、紅茶の良い香りがする。


『アルよ、起きたならば、紅茶を飲むといい。既に吾が与える試練は終えた。吾がそなたを害する必要はない』


 女性の頭にある大きな白い耳が動く。飾りではなく本物の耳らしい。

 アルは認識した事実に遠い目をしながら立ち上がった。人型なのに、獣の耳を残す意味はあったのだろうか。アルの意識の中で出会った少女は、獣の耳なんてなかったはずだが。


「……いただきます」

『なにをあっさり不審者の飯を食おうとしてるんだ⁉』


 素直に応えたら、ブランに烈火のごとく怒られた。頭突きをしながら説教されても、その痛みで内容があまり入ってこない。

 アルは暴れるブランの体を抱き込んで、楽しげに呵々かかと笑う女性が待つテーブルに歩いていった。


『警戒心が無さすぎるっ!』

「はいはい、ごめんね。気をつけるよ」

『全然聞いておらんだろう!』


 テーブルには椅子が四脚。女性の対面に座り、その右側の椅子にブランを下ろした。

 左側には空いた椅子。……いや、座面には、黒い物が丸まっている。


「――アカツキさんは、まだ、か……」


 ブランもアルと同様に試練を受けていたようだった。それはどうやら美食に溢れたもので、アルとしては、よくぞ欲に溺れず試練を突破できたと内心で驚いていたのだが。

 アカツキも今試練を受けているのだろう。アルの目が、その試練を確認することは叶わない。果たしてアカツキの試練とは如何なるものなのだろう。彼は試練を乗り越えられるのか。

 アルはため息とともに心配の言葉を吞み込んで、女性が渡してくれた紅茶を受け取った。

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