第166話 望むもの
ピチチッ――。
軽やかな鳥の鳴き声で、ふと意識が覚醒する。
眠気が居座る頭を搔きながら、伏せていた顔を上げた。目の前には開かれたままの本と数枚の紙、筆記用具。どうやら勉強をしながらうたた寝していたようである。
枕代わりになって軽く痺れた感覚がする腕を振りながら、本の続きに視線を向けた。
「これは……ああ、古代魔法大国の魔法理論だ。そうだ、難解な魔法陣があって、読み解くのに時間がかかっていたんだった」
寝る前の行動がぼんやりとしか思い浮かばないことに首を傾げる。まるで本を読み上げるように口から零れた言葉に困惑した。なぜこれほど違和感を覚えているのか分からない。
「うぅん……? まあ、いっか」
違和感は覚えるものの、それより本の内容への興味が勝った。
書かれている魔法陣は、空間魔法に属するもののようだ。どこか違う場所でも見たことがあった気がするが、記憶を探っても見つからない。
「転移が主な機能だな。場所を設定して一方通行の転移を可能にする……」
面白い。この魔法陣は個人で使うというより、街に設置されることで活用されるのに相応しいものに思える。
「これがあれば馬車を使わずに遠距離を一瞬で移動できる。人も物も、よりスムーズに流れる。――革命だ」
この世界では、生まれ育った場所を離れる者は少ない。商いを営む者は命がけで移動する。人里を離れた場所には魔物がいるのが当たり前で、街間の移動は命の危険がある行為なのだ。
「人と物が自由に行き交うようになれば、書物ももっと手に入りやすくなるかな」
ぽつりと呟き、背後を振り返る。
本棚が一つ壁際にあった。収められている本はそれほど多くない。
アルは本を読むのが好きだ。今まで知らなかったことを知れるのが幸せだ。だが、今の環境は知識を十分に得られるような恵まれたものではない。書物は高価なのだ。大して資産を持たないアルが、気軽に手に入れられるものではなかった。
「――アル」
不意に声が掛けられた。いつの間にか、白い髪の少女がアルの机に
「君は……?」
「まさか忘れたのか? 吾はアルの友ではないか」
拗ねたように唇を尖らせる少女を見ていると、軽くめまいを感じた。
「……ああ、そうだ。僕の唯一の友達だったね」
「ふふ。そうだよ。友であり相棒だ」
「うん……相棒……」
何度も「相棒」と頭の中で反芻する。その度にめまいが強くなっていく気がして、額を手で押さえた。
「顔色が悪いぞ? 紅茶でも飲むか」
少女が優雅な仕草で紅茶をカップに注いだ。
華やかな柑橘の香りが頭をすっきりさせてくれる。渡されたカップは温かくて、紅茶を一口飲めば、ほっと心が安らいだ。
「アルは何の本を読んでいたんだ?」
「……古代魔法大国の本だよ。転移の魔法陣が書かれているんだ」
アルが魔法陣を少女に示すと、僅かに目が眇められた。
「ほう……知識の反映はここまで鮮明か……」
「反映?」
「いや、なんでもない。それより、アルはその魔法陣をどう使いたいんだ?」
明らかに話題を変えようとする少女に首を傾げた。だが、目でも返答を促されて、考えていたことが自然と口から零れていく。
「色んな街に置いて、流通を発展させたい」
「人も物も自由に行き交うな」
「うん。僕はたくさん本を読みたいんだ。でも、ここではあまり手に入れられないでしょ? そもそも本を商売にして街を移動する商人って少ないから……。この魔法陣が一般化すれば、本の流通量も増えると思うんだよね」
期待で声が弾んだ。思うだけ手に入る書物。知識に満たされる自分。想像するだけで幸せな時間だ。
「良いではないか。アルが望むなら、吾が手助けするぞ」
張り付けたような笑みで、少女が提案する。その表情に違和感を覚えながらも、アルの期待はさらに膨らんだ。
「本当? じゃあ、お願いしようかな」
すぐに魔法陣を使って魔道具を作る。それを眺めている少女の眼差しが冷えていることに気づいて首を傾げたが、抱いた疑問はすぐに霧散した。
「――じゃあ、これで、まずどこに行こうか」
いつの間にかたくさんの魔道具がアルの周りに積み重ねられていた。行く先はまだ設定していないから不完全な物だが、これだけの数があると壮観だ。
「どこに……たくさん本があるところかな」
ここで少し後悔する。アルは設定すべき場所の情報を持っていなかった。これでは魔道具で転移できない。
眉を顰めるアルの前で、少女が得意げに手を振る。
「そうか。じゃあ、ここだな」
魔道具が完成されていた。少女によって行き先が設定されたのだ。
「すごい! 君は僕が行きたい場所が分かっていたんだね!」
「もちろん。吾はアルの友であり、相棒だから」
うっそりと笑んだ少女の頭を褒めるように撫でると、きょとんと目が瞬くのが見えた。何故か驚いているようだ。撫でるのはいつものことなのに、おかしい。
「どうしたの?」
「……いや。それより、早く行ってみよう。ちゃんと、帰ってくるための魔道具も持ってな」
照れくささを隠すように早口で言った少女が、手近な魔道具にここの場所を設定しアルに渡してくる。これまで違和感があった姿が、なんだか可愛らしく思えた。
「そうだね。一緒に行こう」
「……ああ。行こう」
少女と手を繫ぐと、再び目が瞬いた。今度はそれを指摘せず、魔道具に共に向かい合う。繫いだ手を魔道具に触れさせると、視界が一瞬で白く染まった。
転移した先は、本で溢れた場所だった。心が高鳴る。ここにはアルが求めていた物がたくさんある。
興味をそそられた本を片っ端から手に取り、隅にあった机に積み重ねる。座り心地のいい椅子に腰かけて、知識の海に浸った。
「本当に、アルは本を読むのが好きだな……」
「うん。新しい知識、欲しいでしょ?」
「それがアルの望みであり、欲か」
意識のほとんどを本の内容に向けながら、少女の動向を観察していた。ささくれのように、少女はアルの気を引くのだ。会った時から違和感が頭に居座っている。
「――ここには誰もいないな。アルは一人が好きか。人と関わるのが不得意なのだな」
少女がぐるりと周囲を見渡して呟く。
だが、おかしなことを言うものだと、アルは不思議に思った。この場所を指定したのは少女だ。それならば、ここに人がいないことなんて、少女の方が熟知していたはずだ。なぜ改めて確認するのか分からなかった。
「溺れるほどに知識に触れたい。それに他者は必要ない。他者との関わりを排除し、自らの欲に生きる。ここはアルの天国だな」
「……怒っているの?」
咎めるような言葉に聞こえて顔を上げると、曖昧な笑みを浮かべた少女が首を傾げる。
「吾がアルの望みに感情を述べることはない。事実を口にしているだけだ」
「そう……?」
そのわりには、どこか冷たく聞こえたのだが。なんとなく納得できず眉を顰めると、少女がいつの間にか手にしていた本を差し出してきた。
「これも、アルが興味を惹かれるんじゃないか?」
「あ! これ、結界に関する論文だね!」
少女が言う通り、アルが読みたいと思っていた本だ。これまで読んでいた本を脇にどけ、少女から本を受け取った。再び本の世界に浸るアルに、少女の声が微かに届く。
「……アルはこの天国から抜け出すことを望まぬのだろうな」
残念そうな響きだった。やはり少女が感情を述べないなんて嘘だ。文句を言うために再び顔を上げたアルの視界の隅に、白い影が過った気がする。
「今のは……?」
「なんだ、幽霊でも見たか?」
「幽霊なんて存在しないよ!」
「ははっ、アルは幽霊が苦手か」
笑う少女に文句を言う。ふと、こういうやり取りを以前もした気がした。
冷たい空気が首筋を撫でる。やけに体が冷える。違和感を覚える首を擦った。
「……何かが、違う。……僕は、何かを、忘れている?」
「どうした、アル?」
俯いていた顔を覗き込んでくる少女を、アルはじっと見つめた。心配そうな声のわりに、少女の目には僅かな期待が窺える。
「……ああ……」
僕には友がいる。相棒とも言える友がいる。
――だが、友は、こんな少女の姿だっただろうか。違和感が大きな波となって押し寄せる。激しいめまいが襲ってきた。
「僕とずっと一緒に過ごすと約束してくれたのは……?」
「吾だろう?」
「いつも偉そうで、ご飯をねだってくるのは……?」
「吾だろう? アルのご飯、食べたいな」
笑んだ少女の言葉には嘘と真実が隠れていた。
アルはめまいで薄れる意識を、頭を強く押さえることで保つ。少女を見据えて口を開いた。
「ねぇ……僕の友を騙る君は――誰?」
少女の口の端が吊り上げられ、静かな目がアルを見つめ返す。見覚えのある表情だった。
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