第115話 油断大敵
ブランが木々を跳び移るように駆けていく。いつもは肩の上にいるのに珍しい。アルはその様子を時々確認しながら、魔物の気配を探し歩いていた。
『おお? こっちに何かの実があるぞ!』
「ブラン、今日はやけにはしゃいでいるね」
『春だからな!』
「……その理由はよく分からないんだけど」
春を感じるのは今日が初めてのことではない。何故ブランのテンションが高いのかは結局謎だ。見つけた果実に夢中になっている様子を見るに、答えを得るのは難しそうだった。
『これ、一番熟れていそうじゃないか!?』
「……食べてみたら?」
『お? アルがそう言うのは珍しいな』
もぎ取った果実を見せてくるブランに試食を勧めると、その返答に不思議そうな顔をされた。確かに、食べすぎを咎めることばかりで、食べることを勧めるのはあまりなかったかもしれない。
ブランが見せてきた果実は鮮やかなオレンジ色だった。見た目が柑橘っぽいので、ブランは苦心して皮を剝いている。中身は皮よりも赤みがかって瑞々しく、見るからに美味しそうだ。
樹上にいるブランの手から落ちてきた皮と果実の欠片を手のひらで受け止め、軽く香りを嗅ぐ。
これは、やはり――
『っ、すっぱい!』
食べてすぐに、強烈な酸味に悶絶したブランが木から落ちてきた。予想の範囲内の出来事であったので、慌てずしっかりキャッチする。
「だよね」
『だよね、だと!? 知っていて我に食わせたのか!?』
「だって、これこっちの方を食べるものだもの」
ブランが剥いて落とした皮の方を示す。厚い皮の内側は白く柔らかなものに覆われていた。ブランの口にそれを近づけると、酷く疑わしげな眼差しを向けてくる。軽く首を傾げて促すと、念入りに匂いを嗅いでから小さく嚙みついた。
『う、旨い! なんだ、この、芳醇な甘味は!? ふんわりしていて口の中でとろけるぞ!』
「ココナっていう果物だよ。僕も実際に見たのは初めてだけど」
ココナはブランのお気に召したらしい。地面に落ちた皮まで拾って食べだしている。
『中身が酸っぱいのが残念だな』
「中身も使い道があるよ? ジャムとか、調味料に使ったりとか。熱を通すと一気に甘味が増すらしいし」
収穫を考えているのか、樹上の果実を見定めているブランにそう言うと、キラリと目を輝かせて木を駆け上がった。大量収穫の予感がする。アルは潔くココナを仕舞う用の大きな麻袋を用意した。
『あ~らよっと、こっちも、ほ~いさ~』
「変な掛け声で投げてくるのやめてくれない?」
上機嫌に動き回るブランには、アルの抗議は届かなかったようだ。次々に掛け声と共に落とされる果実を袋に入れながらため息をつく。
――シュルッ。
小さな違和感を覚えた瞬間に剣を振り抜いた。衝撃と共に刀身に絡まる蠢く蔦に目を止め、そのまま剣に魔力を籠める。蠢いていたものが、細切れに切り裂かれるようにして落ちていった。
魔力を少し籠めるだけで対処できるなら、それほど強いものではないのか。だが、アルはおろかブランの感知能力さえ越えて近づいてきたのは警戒に値する。ブランは森において感知能力が高まる特性を持っているのだから。
「ブラン、魔物がどこか分かる?」
『……姿は見えん。だが、気配は向こうだ』
アルの横に降り立ったブランが鼻先を前方に向ける。アルも注視してみるが、木々が邪魔をしているのか、姿も気配も全く窺えなかった。
「気配を追えるんだ?」
『……油断していたから最初は気づかなかったんだ。悪かった』
いつだって偉そうにしているのに、自分の失敗を心底悔いているのか、やけに落ち込んだ様子である。先ほどまでご機嫌に振られていた尻尾も力なく垂れ下がっていた。
アルは小さくため息をついて地面に膝をつき、ブランの頭を軽く撫でた。
「これからは、食べ物に夢中の時でも、警戒を怠らないようにしようね」
『当然だ!』
ブランが尻尾を一振り。瞬く間に一メートル程の大きさに変化し、グルッと唸る。未だ姿なき敵に、苛立ちが募っているらしい。チラリと見上げてくる目に肩を竦めて見せ、小さく頷いた。
ブランが目にも止まらぬ速さで駆け出す。アルもその後を追うように走り出したが、すぐにブランの姿は見えなくなった。ブランが速すぎるのだ。こんな状況だが少し感心してしまう。
――シュルルルッ。
「やっぱり、来たね」
アルの狙い通りに、蠢く蔦が襲いかかってきた。それを再び剣で防ぐ。蔦が剣に巻きついた状態で力を入れると、それ以上の力で引かれ、体が持っていかれそうになった。なんとか踏ん張って今は耐えているが、この状態は長くは保たないだろう。
だが、この魔物を相手にしているのはアルだけではない。
『我を忘れるなよ!』
アルからは見えない木々の奥から、相棒の頼りになる唸り声が聞こえた。それだけで、既に魔物の命運は決まったようなものだと、少し体の力を抜く。
「どんな魔物か確認したいから、原形はとどめさせてねー」
『注文が遅い!』
「うわっ、盛大にやったね……」
アルが声をかけてすぐにブランの姿が木の陰から現れた。口に黒焦げの物体をくわえている。いつの間にか、剣に巻きついていた蔦も、力なく地に落ちていた。
そのすぐ近くに黒焦げの物体を下ろされたので、周りを歩きつつ観察してみる。ブランは口に残った炭の味を吐き出すように地面に唾を吐いていた。
「う~ん、これ何て言う魔物かな。完全に炭化しちゃってて、鑑定しても炭って出てくるんだけど。蔦の方は――蔦としか分からないや。鑑定って変なところで不親切だな」
『蔦を辿って魔物の位置は掴んだが、姿は見えなかったぞ。火を吹いて燃やしたら炭になって現れたんだ。隠密に特化した魔物だろう。蔦を不可視化できないところは対処のしようがあっていいが、面倒臭いな』
言葉通り面倒臭そうに顔を顰めているブランだが、規則的に揺れる尻尾が、未だ警戒を怠っていないのを知らせてくれている。
この炭化してしまった魔物は、アルが一人の瞬間を狙ってきた。アルがわざと隙を見せるように地面に膝をついても一切反応をせず、ブランが離れた瞬間に襲ってきたのだから、それは確実だと考えていいだろう。それだけの知能がある魔物だったということだ。
「また狙ってきた場合、どれくらいの確率で事前に察知できる?」
『二度の失敗はない』
「さすが、ブラン」
自信満々の返答に、アルは素直に褒め称える。それで気分が上向いたのか、尻尾の揺れるリズムが軽やかになった。
『だが、姿が見えないのは厄介だった。気配だけで攻撃を加えるのは難しい。今回は蔦が目印になったから良かったが、毎回アルを囮にするわけにもいかんしな。広範囲に火を吹くのは少々気が咎める』
「そうだよねぇ」
ブランの言葉は過不足なくこの魔物の能力を評価していた。魔物自体は強くない。アルの剣でも、ブランの火や爪でも容易に倒せるだろう。だが、不可視性というのが、思った以上に厄介なのだ。
「とりあえず、明日ギルドでこの魔物の情報を集めてみるかな?」
『ギルドにこいつの情報があるのか、我は疑問だがな。完全に初見殺しの魔物だろう。こいつに狙われて生還できる人間がどれ程いるものか』
「そうだよねぇ。ここ、だいぶ魔の森の奥だし、地元の冒険者もあまり来ない所かも」
『ちょっと奥まで来すぎたな。果物は惜しいが、そろそろ帰るか』
ブランは一瞬ココナの木に視線を向けたが、それを振りきるようにため息をつき、軽く身を屈めた。
『たまには乗せてやる』
「本当に珍しいね」
『気が向いただけだ』
アルはそっぽを向くブランの頭を撫でてから、その体に跨がった。ブランが一刻も早くアルを正体不明の魔物の生息域から引き離そうと思ってこの提案をしたことは、言葉で言われずとも分かっていた。
口では色々言いつつも、心配性で過保護な相棒なのだ。
『あ、夕飯の肉は確保できているのか!?』
「ここまでの道中で十分に狩ったでしょ」
『ちっこいものばっかりだったではないか! よし、大物も見つけて狩るぞ!』
「帰るんじゃなかったの……?」
アルのささやかな抵抗は、張り切って速度を増したブランの足を緩めるには、あまりに力ないものだった。
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