ちょっとだけ神様みたいなもの

尾八原ジュージ

ちょっとだけ神様みたいなもの

 僕が五年前まで住んでいたアパートの近くに、「とら松」という小さな居酒屋があった。そこでたもつさんと出会ったのだ。

 その晩、酔った僕は友人とふたりでとら松のカウンターに座り、「何も見ずに相手に指定された動物を描く」という遊びをしていた。ふたりとも絵心がないものだから、持っていた手帳のメモ欄はたちまちのうちに珍妙な生き物で埋め尽くされ、僕たちは笑いが止まらなかった。そこへ見知らぬ中年男性が「ちょっといいかい」と入ってきて、僕が出したお題の「ウミガメ」をさらさらと描いたのだ。それが保さんだった。

 保さんのウミガメは、簡単な線画だが抜群に上手かった。僕たちは感嘆の声をあげ、酔っ払い特有の図々しさを発揮して、彼に色々な動物を描いてもらった。ライオン、シマリス、クジラ……保さんの絵はどれも上手だった。

「この人、趣味でオブジェみたいなの作ってるんだよ」と、とら松の大将が教えてくれた。

 僕らと保さんはすっかり気安くなってしまい、とうとうその晩のうちに彼の住まいにお邪魔することになった。アパートの六畳一間は万年床を囲むように棚や机が配置されており、張り子で作ったという色々な動物がいくつも置かれていた。

「これこれ、これがアカウミガメ」

 保さんがそう言って見せてくれたウミガメは、今にも動き出しそうだった。ハンドルがついた台の上で手足を広げている。彼はそのハンドルをそっと回してみせた。驚いたことに、張り子のウミガメが手足と首を動かし、空中を泳ぎ始めた。

「こういうカラクリなんだよ。リンク機構っていうのがあってね……」

 保さんは色々説明してくれたが、僕にも友人にもさっぱりわからなかった。ただ、彼がこのカラクリ作りに並々ならぬ情熱を燃やしていることはわかった。

「今はサメを作ってるんだよ。こう、頭から尻尾まで動かすつもりなんだけど、難しいね」

 厚紙で作った骨組みのようなものを見せてもらったが、ちっともサメには見えなかった。ここからあのウミガメのような真に迫った完成品が生まれるのかと思うと、まるで魔法を見るかのようだった。

「ジョーズっすか?」

「ううん、ホオジロザメじゃなくてイタチザメ。結構可愛い顔してるんだよ」

 ハンドルを回す保さんは、子供みたいに無邪気に見えた。


 それから僕は、頻繁にとら松に通うようになった。保さんに会いたかったのだ。彼とあのカラクリ細工に、僕は言い知れない魅力を感じていた。

 保さんも「若い友達ができて嬉しい」と言ってくれ、僕は彼の好意に甘えて何度も彼の部屋にお邪魔した。ひとつの作品ができるまでにはよっぽど時間がかかるらしく、「イタチザメ、どうです?」と尋ねるたびに、「難しいねぇ」と変わり映えしない返事が返ってきた。

 ある晩、僕が保さんの部屋でコウテイペンギンを歩かせていると、彼が「やっちゃん、この世で一番尊いものって何だと思う?」と尋ねてきた。あまりに突然の質問に、僕は「うーん……」としか答えられなかった。

「ぼくはねぇ、やっぱり命だと思うんだよ」

 保さんは相変わらずイタチザメの骨組みをいじりながらそう言った。「生き物ってのは素晴らしいよねぇ。こうやって作ったカラクリが上手くできるとね、ぼくは自分がちょっとだけ、神様みたいなものになったような気がして、気分がよくなるんだ」

 作ってる間は酒も飲まないしね、と付け加えて、保さんは笑った。

 彼の部屋はカラクリやその材料で一杯だったけれど、窓辺の棚の隅っこにひとつ、写真立てが置かれていた。その中に入っている写真はなぜか裏返しになっており、僕はそれが気になりながらも聞けなかった。ただ保さんにも色々あるんだな、と思うだけに留めていた。


「保さん、最近お酒増えたんじゃないの?」

 とら松の大将がしきりに言うようになったのは、いつ頃からだったろうか。確かに保さんの飲酒量は増えていた。時々会うだけの僕にも、その変化は明らかだった。

「保さん、イタチザメどうっすか?」

「ああ、あいつね、もうやめちゃったんだよ」

 保さんはそう言って、大将に出された水を飲んだ。「ぼかぁやっぱり、かりそめにも神様なんてガラじゃないもの」

「やっちゃん、保さん家まで送ってってやってくれない?」と大将が心配するので、僕は彼をアパートまで連れていくことにした。イタチザメのことも気になっていた。

 イタチザメは相変わらず骨組みだけのまま、机の上にぽつんと載っていた。万年床にべったりと座り込んだ保さんは「やっちゃん、命ってのは尊いよね」と呟いた。

「ぼくは昔結婚しててね、赤ん坊が生まれたときに初めてその、尊さってものを感じられたんだ。でもぼくはこんなダメな男で、結局いい父親にはなれなくってね。初めて息子を見たときに、ああ素晴らしい、尊いものだなぁって思ったことも、いつの間にか忘れてしまった。やっちゃん、見てよこの部屋を」

 保さんは立ち上がると、ふらふらと棚のひとつに近づいた。彼の作った動物たちが整然と並ぶそこは、まるで小さな動物園だった。

「ぼくは自分の作ったカラクリが上手く動くと、その時のことを追体験してるような気分になってね。それで安心していたんだ」

 保さんは突然、目の前の棚からカラクリを払い落して踏みつぶした。畳の上で、紙と竹ひごでできたイリエワニがめちゃくちゃにひしゃげた。

「ちょっと保さん、何やってるんすか!」

「こんなまがい物、いくつ作ったって同じなんだよ!」

 保さんは酒で赤くなった頬にボロボロ涙をこぼしながら、次々に作品を落としては壊した。僕は彼の剣幕が怖ろしくて、それを止めることができなかった。

 部屋中に散らばっていく壊れた動物たちは、まるで「死」そのもののように見えた。積み重なるカラクリの死骸の中に、僕はあの写真立てを見つけた。

 それにはもう中身が入っていなかった。


 それから僕はめっきりとら松から足が遠のいてしまった。保さんに会うのが億劫というか、怖いというか――とにかく気が進まなくなってしまったのだ。

 そんなある日、僕はたまたま道端でばったり会ったとら松の大将に「保さん、亡くなったよ」と聞かされた。

「急性アルコール中毒だってさ。うちに来る前からもう飲んでて、戸口に手をかけたところでバッタリ倒れたんだよ。救急車呼んだんだけど、駄目だったね」

 僕は心の中で(命って尊かったんじゃなかったんですか)と保さんに語りかけた。でも僕が最後に会ったときの彼は、もう自分の命なんてどうでもよかったのかもしれない。

 だけどこうして数年が経ち、改めて彼のことを思い出そうとすると、不思議と脳裏によぎるのはカラクリを踏みつぶして泣いていた顔ではなく、子供みたいな無邪気な顔でカラクリをいじっている保さんなのだ。少なくともそれは、尊いものの正体がわかっている顔だと僕は思っている。

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