第70話 天使のお願い

 夏。


 夏といえば海。

 しかし海といえば水着だが、そんな当たり前のことにすら問題を抱えているのが俺たちである。


「来週は綴さんたちと海か。水着、どうするんだ?」

「上は脱げないからパーカーでも羽織ってく。さすがにこの傷は人前に晒せないし」


 そう。霞の体には無数の傷跡がある。

 これは自然治癒では消えない程に体に刻み込まれたもの。

 

 実際に見たわけではないが、あの父親に長年にわたり刻まれたものだというそれは一生彼女の枷として付きまというのだろうかと思うと、やはりあいつがやったことはあの程度の仕打ちで許されるものではない。


「大人になったらさ、傷治そうよ。金貯めるから」

「治るのかしら?もしできたとしても相当な手術よ」

「でも、人前で気にするのも嫌だろ?」

「遊馬がいいって言ってくれるんなら私は、別に」

「そ、そうか」


 この傷の事はあまり話題にはしにくい。

 言いすぎると、俺が嫌がっているように聞こえるし実際俺は何も嫌じゃない。

 

 傷も含めて彼女だと受け入れているからそう言い切れるが、しかし世間の人のどれだけが、彼女のその体を受け入れるのかと思うとやはり不安は残る。


「とにかく準備のための買い物だな。今日はモールにでも行こう」


 実家からアパートに戻って一週間。

 夏休み明けと共におさらばするこの住居を片付けながら十日ほどが平和に過ぎている。


 そしてせっかくの夏休みだからということで、綴さんが俺たちを海に誘ってくれたわけで。

 今はお互いアルバイトに勤しみながら当面の生活資金なんかを稼いでいる。

 今日はたまたまお互いの休みが合い、お出かけをしようということになった。


「なんか、本当に終わったのかな。平和だよな」


 こんなセリフはフラグを立てるようであまり口にしてこなかったが、最近あまりに平和すぎてつい、その実感が口から洩れた。


 というのも、昨日のニュースで霞の父が正式に会社を退任し、更には脱税や社員へのパワハラ、政治家との汚職なんかの余罪がたくさん出てきたと報道していたのだ。


 一度権力や立場を失うと脆いもので、彼は日本のトップ経営者から一転して終われる身となったようだ。


 そんなこともあってか、今日は外出先でものびのびとしている霞の姿がうかがえる。

 人目を気にせず、こうして外出できるというだけのことがどれだけ幸せな事か、彼女を見ているとひしひし沸いてくる。


「ねえ、あの時みたいにボウリングしない?」

「お前うますぎるからな。でも、いいよ」

「じゃあ負けたら、勝った方のいうこと何でも一つ聞くことね」

「負けても知らないからな」


 買い物をする前に寄り道。

 二度と一緒にやることはないと意地を張っていたボーリングを、彼女と付き合ってからは初めて一緒にやることに。


 とはいってもプロ級の腕を持つ霞に、俺が勝てるわけもないので勝負というよりはストレス発散だ。


「じゃあ私から行くね。見ててね」


 かつて、ボウリングとは誰とやるかでこうも面白さが変わるものかなんて考えた日のことを思い出す。


 確かにそうだ。あの時ほど楽しくないボウリングもなかった。

 そして、今日以上に楽しいボウリングもまた、初めてである。


「えへっ、ストライク!」

「相変わらずすごいなお前。早めに罰ゲーム決めとけよ」

「もう、ちゃんとやってくれないと勝負にならないでしょ」

「はいはい」


 俺ももう膝を庇う理由なんてないし、多少痛くても気にはならなくなったから普段通り右手でボールを投げる。

 もちろん真ん中から逸れたボールはストライクなどとれるわけもなく、戻ると霞が嬉しそうに俺に指導をしてくれる。


 二ゲームほど、彼女の投球に付き合うようにこなしてからスコアをもらって清算。

 結果はもちろん俺の惨敗。でも、本当に楽しかった。


「あーあ、負けたよ」

「まだまだね。もっと練習しときなさい」

「はいはい」


 結局負けたのはおれなので、わざわざ罰ゲームの話をしなかったせいか、そのまま彼女と買い物に行くことになった。


「ええと、あとは水着とか買って飯にするか」

「うん、今日は久々に外食だね」


 高校生同士の同棲。しかも片方は親と縁を切って支援も受けられないとなれば金銭事情は決して裕福ではない。

 こうして遊びにくるのもたまの楽しみで、食事も普段は自炊をしているしなんなら俺は既に霞から小遣い制にされている。

 

 最も家計的なものを俺がどうこうするのは苦手だし、別になんの不満もないけどこうして彼女ともっといろんなところに行くためには、やはりしっかり勉強して稼げる男にならねばと痛感する。


 買い物中も「割引の商品探して」なんて彼女に言わせているのも情けない。

 男の甲斐性として、やっぱり彼女には先々、いい思いをさせてあげたい。

 だから頑張ろうという気持ちに、ちょっと出かけた程度でなってしまうのだから俺は相当に霞のことが好きでたまらないのだろう。


 ……がんばろう。


「じゃあ、帰ろっか」


 手を繋いで、買い物袋をさげて家に向かう。

 もう夕方にさしかかり、今日は夕陽がとても綺麗だ。


「ねえ、ボウリングの賭け、覚えてる?」

「ん、ああ。お前こそ忘れてるのかと思ってたよ」

「あ、ずるい。スルーしようとしてたでしょ」

「してないよ。で、何をお願いされたらいいんだ?」


 家に着く前に、彼女が思い出したかのように話し出すと、今度は肝心のお願い事を口にする前に足を止める。


「どうしたんだ?」

「……絶対、守ってよ」

「わかったよ。で、なんなんだよ」

「……浮気、しないでね」

「はぁ?」

「あ、うそ!ええと、別れないでにしようかな……え、ええと」


 何を言い出すかと思えばそんなこと、か。

 でも、もし俺が勝ってもおんなじことをお願いしてたかも……いや、恥ずかしくて言えないな俺の場合は。


「しないし別れないし別れようって言っても受け付けない」

「……ほんとに?」

「嘘なもんか。お前こそ浮気すんなよ」

「し、しないし!だって……遊馬が大好きだもん」


 ちょうど夕刻でよかった。

 夕陽に照らされてるおかげで、俺の顔が死ぬほど紅潮していることが少しはぼかされているだろう。


 でも、霞の顔も真っ赤だ。

 恥ずかしいならそんなこと言うなよ。


 俺は、恥ずかしくて言えそうもない、な。

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