第65話 天使のからかい

 柳原さんの質問の意味は俺にはよくわからなかった。

 ただ、聞かれている当人の霞も何のことかさっぱりで、それを聞いた柳原さんも一言「いや、いいんだ」とだけつぶやいて納得していたので余計に何が何やら。


「あの、こいつの姉っていうのは」


 部屋で、思わず俺が聞いてしまう。 

 霞もお茶を準備しながら少し落ち着かない様子でこっちをみている。


「まぁ、彼女の名前を聞いた時にピンときたんだけどね。珍しいから、天使なんて苗字」

「だからそれが何か?」

「……僕がね、あんなに暴れてしまったのは怪我というより彼女とのことだったんだ」


 壁を見つめながら柳原さんは少し言葉を止めて、もう一度話し出す。


「天使さんの父親の愛人の子、苗字も違うけど腹違いの天使さんのお姉さんと僕はね、恋仲だったんだ。すごい話だよ、本妻より前に愛人と子供作るなんて僕たちの住んでる世界では理解ができない」


 やれやれと、首を振った後で気を取り直すように話を続ける。


「でもね、僕が怪我をした時に彼女の様子がおかしくなって。君たちの話を聞いてようやくわかったよ。あれは多分父親が何か仕組んだんだ」


 話しながら、段々と声が震える柳原さんは怒っているように見えた。

 こんなに感情をむき出しにする彼を、まだ付き合いが浅いとはいえ見たこともないし想像もできなかった。


「泣きながら、怪我をしたあなたに価値はないなんて言葉を吐いて僕の元からいなくなった彼女の実の父親が財閥の天使社長だとは知ってたけど、まさかそんな大企業のトップがそこまで非常識だとは思いもしなかったな。でも君たちと出逢って少し救われた気がする。だからこの偶然に感謝する意味でも、協力させてほしい」


 今度は力強く話しだす柳原さんを見て、俺も奮い立つ。

 東一族といい天使の父親といい、権力者はどれだけ人の想いを踏み躙ってきたら気が済むのだという怒りとともに。


「わかりました。お願いします」


 俺は彼の目を見て答える。

 そして


「霞には虐待の跡があります。それを世間に公表したい」


 俺たちの考えを彼に告げた。

 しかし


「うまくいく保証はないけど、いいかい?」

 

 そう言われた。

 ただ、それはもとより覚悟の上。だから特に不安はなかった。


「いいですよ。ダメ元ですから。なぁ霞」

「うん、私たち二人で頑張ってもどうしようもないことなので、協力いただけるだけで感謝です。ありがとうございます」


 二人で改めて、柳原さんに頭を下げる。

 すると少し懐かしいような目で柳原さんは霞を見つめる。


「な、なにか?」

「あ、ごめんごめん。いやぁ、やっぱり似てるなあって」

「私の……その、姉にですか?」

「うん、よく似てる。今はどこにいるかも知らないけど、彼女は君の存在も知ってたし気にもかけてた。もしまた会うことがあったら紹介したいね」

「……はい」


 あまりに突然と色々な話が沸いてきて、俺たちはまだ何がどうなっていくのか不安しかなかった。

 しかし、要件を話し終えてから柳原さんが帰ったあと、霞は少し嬉しそうに俺を見てくる。


「なんだよ」

「んーん、私ってずっと家族いないんだと思ってたけど、お姉ちゃんいたんだなって」

「……いい人かどうかわからんぞ」

「あの柳原さんが好きになった人でしょ?だったらいい人よきっと」

「随分と柳原さんのこと信頼してるんだな」

「あ、ちょっとヤキモチでしょ今の」

「ち、違う」

「ふふっ、遊馬ったら可愛いわね」


 ほんの少しだけ、光が見えた気がする。

 わずかな可能性だし、他力本願なものではあるがそれでもゼロではない。

 

 俺たちはなんとしても自分たちの居場所を勝ち取るのだと、そう決意した夜だった。



 翌朝、霞は早くから俺の隣で何かを調べていた。


「おはよう、寝れなかったのか?」

「ちゃんと寝たわよ。遊馬の隣だと落ち着くから」

「……まぁ、それならいいけど。何調べてるんだ?」

「柳原さんの記事をね。見てるとなんか書いてることバラバラだし、やっぱり色々事情があったのかなって」

「……父親のこと、とか?」

「あの人が何かしたんだとしたら、柳原さんにも申し訳ないわ。やっぱりあの父親は人の上になんて立ったらいけない人なのよ。だから……だから、終わらせないと」


 掲示板の書き込み記事を見ながら、彼女は力強く宣言した。

 もう、俺たちは止まれない。

 それは、その表情を見ただけですぐにわかった。


「とりあえずさ。今日柳原さんから連絡くるまでにどうなってもいいように荷物の整理とかはしとかないとね」

「そうだな。いざとなったら夜逃げだ」

「そうなったらどこ行く?私沖縄とか行ってみたいなぁ」

「いいなそれ。沖縄でも北海道でも、なんなら海外でもいい」

「英語苦手でしょ遊馬は」

「通訳頼むよ」


 こんな話のどれもが夢物語だと、わかっていても話さずにはいられない。

 希望がないと、目の前の現実に押しつぶされそうになる。

 だから今だけは、前向きな話をしたい。


「なんかここのアパートももう少しで出ると思うと寂しいな」

「うん、色々あったね」

「ああ。本当に色々あったよ。でも、もうすぐ夏休みだ」

「学校がなくなっちゃったら休みもなにもないけどね」

「はは、そうだな。俺たちニートだな」

「働いてるからフリーターよ。あなたと一緒にしないで」

「俺も仕事してるだろ」


 いつまでもこんな時間が続いてほしいと、もう何度そんなことを考えたことか。

 しかし現実は待ってはくれない。すぐに柳原さんから電話がかかってきて俺たちは一気に緊張に包まれる。


「もしもし……」

「どうしたんだよ声が怖いよ工藤君」

「いえ、いざとなると緊張して」

「はは、そうだね。でも早速信頼できる記者の人を捕まえたから連れて行くね。話はそこからだ」


 これで本当に最後。あの父親からの呪縛を解いて、俺と霞が晴れて自由になれるか、それとも引き離されてしまうかの瀬戸際だ。


 二人で慌てて部屋を片付けて、お茶の準備をした後床に座ったまま、ジッと柳原さんの到着を待った。

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