第59話 天使の心配

 明日から学校だという話は、斉藤から電話で教えてもらった。

 もちろん再開にあたり、諸々と連絡事項があるようで朝から全校集会が開かれるとのことだ。


 そこで天使や俺の問題に直接言及されることはないだろうが、しかしながら事件の中心となった俺たちを学校がどう受け入れるのか、それとも拒絶されるのかは全く不明なままだ。


「早くしないと電車、乗り遅れるわよ」

「ああ、すぐ行く」


 日曜日にやっているという二駅隣のサッカー教室の見学に今日は天使と二人で向かう。

 新しい生活プランとしては、誰の扶養にも入っていない天使が生活費を稼ぎ俺が休日のアルバイトで家賃諸々を稼ぐという話になった。

 もっとも計画通りにうまく進むとは思えないが、それでも行動していかなくては何も始まらない。

 まず俺の仕事を決めて、そこから新しい住居を探すという流れとなる。


 天使の父親に会いに行くのはすぐには難しいということも、昨日会社に問い合わせてみてわかった。


 現在彼は海外出張に出かけており、一カ月は帰国しないという話を天使が自らの身分を明かして会社に問い合わせて聞いたのである。


 電話とはいえ、あの父親にわざわざ連絡をするのは天使には酷な話だったが、やはり逃げてばかりはいられないと彼女なりにかなり頑張ってくれたのだが無駄に終わった。


 いや、無駄ではなかった。

 ……つまりはしばらくはあの父親がくることはないとわかったのだから。


「ねぇ、あそこの駅前っておいしいって噂のラーメン屋あるのよね。行ってみたい」

「ああ、俺も行ってみたかったんだ。帰りに寄ろう」

「それとね、家具も見たいから帰りにショッピングモール寄ってもいい?」

「いいよ。今のアパートのものは備え付けだしな」

「あとねあとね」


 父親が日本にいない。

 それを知ったことで気が軽くなったのか昨日の夜から天使はいつにも増して明るい。


「今日の夜はね、ハンバーグにしない?私、ちょっと試したいレシピがあるの」

「はいはい、いいよ」

「あー、そうやって適当な返事よくないわよ」

「はしゃぎすぎだって。そんなんじゃ夜まで体力持たないぞ」

「だって……楽しいんだし」

「……」


 最初の頃から比べると天使は本当に明るくなった。

 

 それに最近は酒もたばこもやめた。

 ……そんな言い方をすればどんなおっさんの話をしているのかと思われそうだが、その当人はとても華奢で綺麗で、笑うと少し目じりにしわがいく、その表情がたまらなくかわいい女の子のことだ。


 そして俺の大事な彼女でもある。

 そんな彼女と電車に乗って移動する。到着した駅の前には大きな芝のグラウンドがすぐそこに見える。


 そしてそこでは子供たちが元気そうにボールを蹴っている。


「なんかああいう風景、落ち着くな」

「何よ、引退したじじいみたいな言い方ね。私たちまだ高校生よ」

「引退したじじいだよ俺は。でも、まだやれることはあると思ってる」

「うん、頑張ってね」


 天使はグラウンドの外で待つことに。

 俺は中に入っていき、グラウンドの脇で子供たちを見つめる指導者らしき人に声をかける。


「あの、すみません。教室の求人見てきたんですけど」

「あ、そうなの?よかった、人足りてなくてさ。経験者?」

「え、まぁ一応」

「じゃあ採用」

「へ?」


 ジャージ姿の大学生風な男の人は、その爽やかな顔をにこっとさせてそう話す。

 

「いやいや、俺まだなんにも」

「いいじゃんいいじゃん。ほら、インスピレーションって大事でしょ?」

「ま、まぁ」

「じゃあ決定。よかったら今日から教えてく?日当出すよ」


 もう何が何やら。とんとん拍子で話が決まってしまい、一度天使のところに話をしに戻る。


「……ってことなんだけど」

「いいじゃん、お金くれるんならやりなよ」

「なんか不安だよ……大丈夫かな?」

「もし詐欺だったら私がぶっ潰すから大丈夫」

「……頼りにしてます」


 別に天使の後ろ盾をもらったから、というわけではなく彼女が待っててくれるという理由で、俺は早速教室にさんかすることになった。


 膝は何もしてなければ痛みはない。ジョギング程度なら問題はないが、力を籠めるとピリッと電気が走ったように痛むのでやはり本調子でもない感じ。


「は、初めまして。ええと、工藤と言います。みんな、よろしく」


 十歳前後の子供たちの前で緊張する俺を金網の向こうでクスクスと天使が笑っていた。

 あのやろうと、天使の方を見ているとさっき俺を採用した人から自己紹介される。


「工藤君、僕は代表の柳原やなぎはら。大卒一年目の二十二歳、三ヶ月前にこの教室を立ち上げたんだ。よろしく頼むよ」

「は、はい。すごいですね起業なんて」

「いやいや、単純に社会が合わないだけだよ。サラリーマンとか僕には無理だったから」

「はぁ」

「ま、そんな話はおいおいね。とりあえず、みんなにリフティング教えてあげてくれるかい?」

「は、はい」


 リフティングくらいならと、子供たちの前で早速ボールを蹴る。

 俺の動きを食い入るように見つめる子供達は、やがて俺がボールを置くと群がってきた。


 皆、素直で良さそうな子供ばかりだ。


 ふと、天使は大丈夫かと彼女を見ると、さっきの柳原さんが何か彼女と話している。


 やがてニヤニヤしながら彼がこっちへ来る。


「可愛い彼女だね」

「え、ええ。何か言ってました?」

「君はすごい選手なんだって自慢してたよ。やけるねぇ」

「……今も昔も大したことないですよ」

「何言ってんの。君の過去の栄光はなくならない。それにすがってたらダメだけど、それをなかったことにする理由もないだろ?」


 彼はそう話しながら、ジャージのズボンを膝まであげる。

 すると、膝のところに大きな手術痕が残っていた。


「これ、僕も同じように大学の時にね。最も、本当に試合中の事故だけど」

「……俺のこと知ってたんですか?」

「もちろん、顔見てすぐにわかったよ。一応僕も君ほどじゃないけど天才と騒がれた一人だから」


 そう話す柳原さんの顔を見て、ふと一人の選手が頭に浮かぶ。


 柳原達也やなぎはらたつや、大学一年生で日本代表に選ばれたスーパースターで、なぜかその翌年に忽然とサッカー界から姿を消した、あの人だ。


「あの柳原さんですか!?」

「はは、よかったまだ知ってる人がいて。そうだよ、怪我した後、いろいろあったんだよねぇ」


 少し遠い目をしながら彼は笑う。


「大変だったんですね」

「なぁに、工藤君ほどじゃないよ。それに……まぁいいや、とにかく今日は軽くでいいから来週からよろしくね」


 今日は子供達にリフティングを少し教えてから、俺は初めての仕事を終えた。


 契約云々は来週でいいからということで、連絡先を交換してから俺は天使と帰宅することになる。


 帰り道で天使が「いい人そうね」と言ったのが印象的だった。

 あまり人を褒めない天使のお眼鏡にかなったのだから、多分あの人は悪い人ではないのだろう。


 しかし、時々悲しそうな目をするのが気にはなった。

 きっとあの人も、今までの立場を失って苦労したのだろう。俺は仕事以外でも何か学ぶことがありそうだ。


「さて、お腹すいたな」

「早くラーメン屋行こ」

「はは、そのためについてきたんだもんな」

「違うわよ。その……一応、彼氏の仕事ってどんなのか、見ておきたかったの」

「ふーん、もしかして職場に女性がいないかのチェック?」

「……悪い?」

「いや、可愛いなお前」

「もう……」


 天使の頭をくしゃくしゃと撫でながら駅前のラーメン屋へ。

 ワクワクしながら注文する彼女を見ながら、少しだけ俺も心が和む。  


 しかし。時々見せる不安そうな顔はきっと、明日からの学校のことを思ってだろう。


 それでも、今はこの時間を大切にしたくて、何も言わずにただ彼女のことをじっと見つめていた。

 


 

 

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