第58話 天使の名前

 食事と風呂を終えて部屋に天使と戻る。

 親父は彼女に対して多くは言わず、ただ一言だけ「息子をよろしく」と天使に話してからビールを飲んでいた。


 どうやら母さんには、俺が寝ている間に傷の事や家の事情もある程度話したようで、その上で納得してくれているということだから少し安心した。


「ねえ、お母さんって良い人じゃん」

「まぁ、細かいことは気にしないけど筋が通ってないことが嫌いなタイプだな」

「ふーん、あんたは細かいのにね」

「どこがだよ。むしろ寛容だ」

「ふふっ、でも筋が通ってないことが嫌いって、やっぱり親子なんだね」

「まぁ、誰だって嫌だろ普通」

「でも、みんな見ないふり、だもん」


 テレビを見ながら俺の横で天使はぽつりと。

 ただ、先日までのように覇気のない声ではなく、少し声は明るい。


「それより、さっき呼び捨てにしただろ」

「だって、呼んでみたかったんだもん……」

「別にいいけど、びっくりするから不意打ちするな」

「あれ、ドキッとした?あはは、可愛いね遊馬は」

「からかうなよ……」


 なんか天使に呼び捨てにされると照れくさい。

 そういえば俺、こいつのこと名前で呼んだことはないよな……


「な、なぁ。俺も、その、名前で呼んでいいか?」

「いいよ、呼んで」

「か、か、かす、み?」

「何よ男ならちゃんと名前くらい呼べし」

「霞、来てくれてありがと、な……」

「う、うん……」


 もう恥ずかしさで目も見れない。

 でも、こうして実家に天使が来ていること自体が、数日前の事からすれば奇跡みたいなもの。

 付き合って、すぐいなくなって捕まえて。綴さんの家に籠って学校にこいつの父親が乗り込んできて……


 色々ありすぎだよ、全く。


「今日はもう寝よう。明日はまた帰らないとだから」

「うん。そういえばおばさんがね、向こうに戻ったらすぐにでも新しいアパート探していいって」

「まぁ、高校生には部屋なんて貸してくれないし親頼みだもんな。ほんと、まだ俺たちは子供なんだよ」

「でも、すぐに大人になるんだから……今から頑張らないとね」


 この日は天使と抱き合うようにして、何もせずに眠った。



 翌朝は、両親が早くから店の支度をしていることもあり俺たちも早起きとなる。

 天使が朝食の準備をする間、少し母さんと二人で話す機会ができた。


「遊馬、それで学校はいつから再開なの?」

「とりあえず、来週からって話だけどどうなるかって感じ」

「まぁなんにしても頑張りなさい。あと、一緒に住んでることがまずいんならあんたの住所は知り合いのところに住んでることにしたらいいように頼んどいてあげるから」

「はい、すみません」


 高校生という身分では、好きな人と一緒に住むというだけの事でも様々な弊害がある。

 それに親の力を借りなければ家も借りれない。

 自分たちの無力さを、自分たちで生きようとすればするほどに実感させられる。


 早く大人になりたいなんて思ったことは今まで一度もなかったが、今は早く自立して生きていけるようになりたいと心から思う。


「あと、バイト代も扶養の範囲で調整するようにちゃんとしなさいよ。それから」

「わかったって」

「一つだけ言っておくけど、好きな人と一緒にいるのってすんごく大変なことなのよ?息するだけで金がかかる、なんて世知辛い話を高校生のあんたにするのも酷だけど、それくらいしんどい道に進むってことは自覚なさい」

「……わかった」


 言いたいことはわかる。

 でも理解できるだけで俺には実感がない。

 今までぬくぬくと生きてきた高校生に、いきなり社会の現実というものを実感しろと言われても、まぁ難しい話だ。


 これからの天使との新しい生活にもきっと困難ばかりがつきまとうのだろう。

 それでも、俺は彼女といる道を選んだことに後悔はもちろんないが。


「できました」


 天使が朝食を運んでくれたところで話は終わり。

 おいしく三人でいただいた後、母さんは一階にいる親父の手伝いにいくからと慌ただしく席を立つ。


「ごちそうさま」

「いえ。でも今日はもう向こうに帰る?地元の友達とかいるんなら会ってきても」

「いないよ。随分調子に乗ったことばっかりだったから地元に俺を歓迎してくれる友人はいない」

「ふーん、随分だったのね」

「ああ、だから俺もお前が思うようないい人間じゃないよ。はっきりいえばすぐ調子に乗るしただのガキだ」


 今までなら絶対にこんな話を誰かにしたりはしなかっただろう。

 でも、今は。天使になら俺の弱い部分も知ってほしいと思う。

 というより、天使にだけは包み隠さず自分という人間を曝け出したい。


「別に、私も子供だし」

「いや、お前はすごいよ。お前にはやく並べれるように俺も頑張る」

「……今のままでも全然いいのに」

「……ありがとう」


 朝食の片付けをしてから俺たちは早々に実家を離れることにした。

 開店準備をしている両親に天使は何度も頭を下げていた。母さんは少し寂しそうに「夏休みはゆっくりきてね」と声をかけて彼女を抱きしめていた。


 歩いてバス停へ。そのあとバスにのって俺たちは一旦住み慣れたアパートへ帰ることになった。



「はぁ、疲れたー」


 アパートについてまず息を吐きながら座り込んだのは天使。

 相当緊張していたのか肩が凝ったと首をポキポキ鳴らしている。


「おつかれ。まぁ、紹介できてよかったよ」

「ええ、ほんといいご両親だったしまたお邪魔したいわ。でも……」


 彼氏の親を見て、自分の親と比較しているのだろう。

 全てが解決したような気分でいたがしかし、こっちに戻ってくるとまだまだ問題が山積みだと再認識させられる。


「お前の父親、会った時になんて言ってたんだ?」

「いい友達を持ったなって……まぁ、皮肉よ」


 天使の父親がしたことは何があっても一生許せるものではない。

 しかし、いつまでも逃げているだけでは問題が解決に向かわないと、先日の学校での一件で知ったばかり。

 ……もう、終わらせにいくしかない、か。


「俺、あの父親に会って話がしたい」

「な、なに言ってんのよ?そんなことしたらまた」

「このままあいつに怯えながら暮らすって方が俺は御免だ。もちろんすぐってわけじゃないけど、学校のもろもろが落ち着いたら行こうと、思ってる」


 天使は困った様子だが無理もない。

 でも、今の平穏がずっと続くとも俺は思わない。

 それが明日か、大学になってからかもっと先か、しかしいつかは向き合わないといけない問題だ。


 だから早いうちにその辺りはきちんとしなければ、俺はずっと天使といることはできないと、それだけは何となくわかるのだ。


「大丈夫。バイト探して新しいアパートに住んで、全部ちゃんとなってからだって」

「うん。日曜日に早速サッカー教室の話、聞きに行く?」

「ああ、行ってみるよ」

「じゃあ私も行く。明日まではバイト休みだから」


 二人での新しい生活が始まる。

 そして週明けからは問題だらけの学校も再開する。

 

 明日からまた忙しい日々が始まりそうだ。

 


 

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