第18話 天使様のお誘い

 夜になると天使がコンコンとノックをして部屋にやってくる、ような気がするだけで今日は違った。


 時々、外の音と聞き間違えて何度か様子を見に行ったが彼女は来ない。

 何を期待しているのだという話だが、今日は少し話をしたいことがあった。


 やはり煙草の件を告発した人間が誰なのか、気になるからだ。

 あれが本当に俺のただ一度の過ちを、しかも半年以上経ってからわざわざあんな形で晒そうとしたのだとしたら別に大した問題ではない。


 俺の贖罪はこうして終わっているわけだし、これ以上後ろめたいこともない。


 ただ、やはり天使を狙ってのことだとすれば、犯人はあの学校中のスターに敵意を見せ、喧嘩を売るなんて相当な根性を持っている奴ということになるので厄介である。


 まぁ、俺が心配してどうなることでもないのだが、いかんせんぼっちな俺の方がそういう情報収集をするのには立ち回りやすいかも、なんて気まぐれを持っているだけだ。


 あいつが何もするなと言うなら何もしない。

 ただ、何かお願いしてくるのであれば、一応近所のよしみとして協力くらいはしてやる。


 そんな話をしたかったのだが、もう夜の九時を回ろうかという時間になっても彼女の気配はないままだった。


 少し心配になる時間、というほどでもないしそもそも俺が彼女の心配をする理由もないのだが、話をしようと決めていたせいか落ち着かない。


 しかし今日はまだ謹慎期間中、出かけることもできずただ悶々とした時間を過ごしているとやがて腹が減る。


 ……さすがに今日はあいつ、晩飯持ってきたりしないよな。


 ここ数日は天使の手料理だったこともあり、数日ぶりに食すインスタントラーメンはうまかった。


 でも、やはりすぐに飽きる。一人という空間もそうさせるのか、すぐに満腹になり残した分は流しに捨てた。


 結局この日、天使は来なかった。

 翌朝も彼女は姿を見せず、俺の謹慎処分は自動的に解かれる形となる。


 通学の途中、誰かの視線を感じたのは俺の被害妄想だけではない。

 明らかに見られていた。たばこの噂が広まったのだろう。


 まぁ、好奇の目にさらされるのは、去年既に経験済みだしそう大した問題ではない。

 むしろ厄介なのは、それで済ませてくれない輩がいるかもしれないということだ。


 陰口でおさまらず俺に直接文句を言いに来るやつ、喧嘩を売るやつ、いじめをしようと画策するやつが出てきたら、本当に面倒である。


 だから極力誰とも目を合わさないように下を向き、少し早く学校についても校舎裏に潜んでチャイムギリギリまで教室に行くことを避けた。


 ……ほんと、落ちぶれたな俺も。

 中学の時なんて否が応でも人に囲まれて、一人になりたいと思いながら過ごしていたのに。


 人間、本当にきっかけ一つでこうも変わるものかと身に沁みる思いだ。

 

 やがてチャイムが鳴り、俺は恐る恐る教室に忍び込むようにして入る。

 しかしクラスの連中からの視線は感じない。

 天使も、隣の席に座ったままこちらを気にする様子はない。


 ホームルーム、授業を終えて休み時間になっても何の変化もない。

 あったとすれば、斉藤がこちらに来なかったことくらい、か。


 まぁそれは当然ともいえる。

 クラスで迷惑がられている俺のところにのこのことやってきて巻き添えを喰らう必要なんてないのだから。


 その後は気配を消すように大人しくしていた。

 昼休みになると、俺は逃げるように教室からそそくさと飛び出した。


 そのまま向かったのは屋上。

 今日は何も用意していなかったので購買や学食のお世話になりたかったのだが、人混みを避けたかったので我慢して自販機でお茶だけ買ってから屋上に着く。


 腹減った。やっぱり何か買ってこようかな。


 いや、昼休みこそ誰かに絡まれて揉め事になる可能性が高い。

 我慢しよう。


 お茶をグッと飲み干してから、口さみしくなった俺はポケットに入っていたガムを噛む。

 もちろんそんなことをすれば余計に腹が減るもので、段々と気分が悪くなってきた。

 

 情けない。逃げずに立ち向かえなんて自分を鼓舞しておきながら、まるでネズミのようにコソコソと逃げ惑う自分は他人から見ても相当みすぼらしいものだろう。


 フェンスにもたれて下を覗き込みながら、初めて煙草を吸ったあの日と同じような気持ちになる自分に気づく。


 このまま落ちたら死ぬのかな。


 そんな物騒な考えを持っていると、やはりあの日と同じように屋上の扉が開く。


「……天使?」

「何してんのよ。自殺でもするの?」

「いや、景色を見てた」

「なにそれ、キモいわよ」


 つんけんした態度はいつもの通り。あの時の優等生ではなく普段の天使だ。


「なんかさ、コソコソ怯えてるけど。そんなにみんなが怖いんならあんなことしなきゃよかったじゃない」

「……わかってるよ。でも、なってしまったことは仕方ないだろ」

「はぁ……それで昼飯も食べずにここでじっとしてるってわけ?」

「なんで知ってるんだよ」

「ゴミがないからよ。私の洞察力舐めないで」


 天使が。そう言って俺にチョコを差し出す。


「なんだこれ」

「パン、売り切れてたのよ」

「いや、だから」

「腹減ってるんでしょ?」


 ポイっと投げられたそれは、コンビニで百円で売っているようななんの特徴もない板チョコだ。


「パンがないんだからお菓子でも食べなさい」


 天使が言う。


 まるでかつてのフランス王妃のような(正確にはそのセリフは彼女自身のものではないが)言葉を吐いて俺に菓子を献上した天使は、赤い髪をなびかせながらそう言った。


「いただくよ」

「嬉しく思いなさいよ」

「で、ここに来たのはこれを渡すためか?」

「……」


 天使の顔が朱い。彼女の髪の色、とまではいわないがほんのり赤みを帯びた顔をこちらに向ける。


「私はね、あんたがこそこそ逃げ回ってるのを見せられるのが心底鬱陶しいのよ!だから、だから一応クラスの人間にはフォロー入れておいてあげたから誰も何も言わないわよ」

「……それって」

「勘違いしないで。あなたの為じゃなくて私の為。隣でビクビクしながらちょろちょろされると目障りなの。だから堂々としてなさいよ男なら」


 天使は。言いながらイライラしている。

 両手は拳を握って力が入り、言葉にも力が入る。


 ただ、そんな彼女を見るとやはりおかしくなる。


「は、はは。」

「な、なんで笑うのよ?」

「いや、すまん。でもありがとう天使」

「わ、私の為にやったことだから礼なんていらないわよ!」

「それでもだ。結果的にでも偶然でも。俺が助かった事実に変わりはない。ありがとう」

「今日はやけに素直じゃない……」

「素直じゃない奴を普段から見てるからな」

「それどういう意味?」

「いや、なんでも」


 結局天使の言う通り、午後からも俺に対して何か言ってくるやつはいなかった。

 ただ、チラチラと俺を見てくるやつはやはりいる。それが一体なんなのか、というのが気になったくらいだ。


 放課後は、先生に反省文について少し指導を受けたがなんとか合格をもらいこれにて俺の処分は終わった。


 二度とするなよ。と言われたが先生に言われる前に同じことを同級生に言われたことで、俺は二度と同じ過ちをせずに済んでいる。だから問題はない。


 夜。天使が毎度のように俺の部屋に来て少しほっとしたことは墓場まで持っていくつもりだ。

 

「あのさ。あの手紙の主って誰だと思う?」


 俺が聞きたかった質問を、部屋の壁にもたれて座る天使がコーヒーを飲みながら聞いてきた。


「ああ、俺も気になってた。お前、誰かに恨み買うようなことしたか?」

「あなたじゃあるまいしそんなことしないわよ」

「そうか。まぁ少し様子見だな。俺が出て行ったことで一旦事態は収束したわけだし」


 天使に対して、と決めつけて話をしたことは悪いと思うが、しかしあの密告はやはり天使を陥れようとしたものなのだろう。


 第一落ちこぼれの俺をつるし上げる理由がない。

 恨みなんてむしろ俺の方が大勢の連中に持っている。


「そういえばお前、どうやってみんなにフォロー入れてくれたんだ?」

「ああ、それ?あなたは地元でえげつない不良だったから近寄らない方がいいって話を丁寧に広めてあげたのよ」

「……なんだそれは」

「みんなビビってたわよ。あなた、目つき悪いしそう見えるみたい。だから多分誰も逆らってこないんじゃない?」

「……」


 とんだフォローだった。

 俺は誤解が解けたのではなく、新たな誤解で上書きされただけだった。

 まぁ、結果として俺は救われたのだが。


「というわけだから。感謝なさい」

「自分の為にって言ってたのは誰だよ。それに礼ならもう伝えたぞ」

「あ、そ。ていうかここ数日私が料理を提供してあげたというのにそっちに対しての礼ってものが一切ないのはなんでかしら」

「はぁ?」


 あれは、俺が謹慎になったことへの詫び、なんて心のどこかで処理していたので、すっかり当たり前に受け取っていたそれを指摘された。


「当たり前に人に料理作ってもらえるとか思わないでよ」

「……頼んでない」

「食べた事実に変わりはないわ」

「じゃあ、何がお望みだよ」

「……買い物に、付き合いなさい」

「買い物?」

「ええ、明日」

「随分急だな」


 奇しくも明日は休み。

 綴さんとの約束は日曜だし明日はフリーだ。


 もっとも俺に予定が入っていることの方が特殊な状況ではあるが。


「それでいいのか?」

「あと、ランチも奢りなさい」

「図々しいな。まぁ、それくらいなら」

「それからボウリングもするわよ。カラオケでもいいけど」

「どれだけやるんだよ……」

「ストレス解消に付き合いなさいって言ってるの。わかった?」

「はいはい」


 なぜか明日、俺は天使と出かけることになった。

 更に、近くで誰かに見られたらややこしいからと、隣町まで遠征するという。

 明日は一日潰れることが確定、か。


「じゃあ、明日はよろしくね」

「はいはい」

「何よ嫌そうね」

「……楽しみにしてます」

「最初からそう言いなさいよ、じゃあ」


 天使は部屋に戻った。

 結局問題は先送り。まぁ、それは仕方ないが、警戒はしておこう。


 ……楽しみにしてます、か。

 

 そんなこと言うのはいつぶりだろう。

 まぁ、嘘ではないからいいが。

 

 

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