第10話 天使様の気まぐれ
彼女が出て行ったのはその後すぐ。
テレビを見つめる俺に何も言わず、静かに部屋を去った。
彼女がいなくなった後、色々と考えた。
虐待って簡単に言ったけど、どれだけひどい仕打ちを受けてきたのか俺には想像もつかない。
身体の傷もそうだけど、そのせいでどれだけ心に傷を負ったことか、そんなことも俺には知る由もない。
逃げるように一人で部屋を探し、誰にも見つからないようにアルバイトをして勉強もして、友人とも付き合って。
それなのにその苦労を誰も知ろうとはしないしもちろん彼女も話さない。
それがどれほど辛く苦しく孤独な時間であったか……
多くは語らない彼女だったので、やっぱり俺にはわからない。
……なんだよ、せこいぞあの女。
なんで今まで黙ってきて、隠し通してきたことを俺なんかに話すんだよ。
気にはなっていたけどさ、別に言う必要ないだろ。
同情するな?無理があるって。
あの身体を見せられて微動だにしないやつなんて、そんなのとっくに人間じゃない。
はぁ、明日からはもう少しだけ優しく接して……いや、急に態度変えたらそれこそ「何が狙いよ変態」とか行ってきそうだな。
今日はダメだ、ちょっと色々とキツい。
俺は半分無意識のうちに部屋を出て、綴さんのいるコンビニを目指した。
「いらっしゃいませ……あ、工藤君この前はどうも」
「お疲れ様です。あと、先日はごちそうさまでした」
綴さんの出迎えを受けると、心が癒される。
「どうしたの、なんか顔が暗いよ?」
「はは、すみません。ちょっと……」
「ふーむ、すみませーん休憩入りまーす」
「え?」
「話、聞いてほしいんでしょ?外いこっか」
綴さんは休憩をとってくれた。
期待していたこととはいえ、やはり申し訳なく思いせめてもの気持ちで俺は慌てて缶コーヒーを二つ買ってきた。
「すみません、俺の為に」
「いいのよ、ちょうど休憩取りたかったし。それよりどうしたの?」
「……」
もちろん天使の身の丈話なんてできやしない。
彼女の秘密をベラベラ話すなんてするはずもないし、そもそも綴さんは彼女のことを知らないわけだし。
「綴さんは、過去の傷みって消えると思いますか?」
「それって、膝のこと?」
「まぁ、俺もだけど知り合いにも、過去にひどいことされたやつとかいて。どうなんだろうなって」
「そうねぇ」
言うと綴さんはポケットからあるものを出す。
「あれ、吸うんですか?」
「あ、ごめん嫌いだった?」
「いえ、俺は大丈夫ですけど……ちょっと意外というか」
「あはは、色々あるのよ大人になるとね。ていうか私もまだ吸っちゃダメなんだけど」
なんて言いながらも慣れた手つきで煙草に火をつける。
天使もそうだが、彼女もまた実にうまそうに煙を吐く。
「それ、うまいんですか?」
「うーん、癖かなぁ。大学に入ってすぐ付き合った元カレの影響。でも最悪だったなぁあの頃は。結局残ったのってこれだけ。吸うと思い出すのにやめられないんだ、おかしいでしょ?」
彼女は笑う。しかし目の奥は笑っていない。
「でもさ、段々辛いことって薄れていくというか、なかったことにはならないけど気にならないこと、くらいにまではできると思うんだ。私もね、今のサークルに入った時はマジ死んでたけど楽しくやってるうちに気にならなくなってきたなって」
「……」
元カレと何があったか、なんて話は聞かなかった。
でも、時々見せる遠い目は、彼女なりに何か辛い経験をしてきたのだということがはっきりとわかる。
でも、こうして彼女も明るく前を向いて今を楽しんでいる。
それに天使も……
「わかりました、なんかちょっとすっきりしました」
「お、ならよかったよ。昔話がこんな形で役に立つとはね」
「すみません、変なこと聞いちゃって」
「いいのいいの、過去なんて所詮過去よ。それよりさ、サークルの件考えてくれたのー?お姉さん返事くれないと寂しくて死んじゃうー」
「あ、すみません……また、必ず連絡します」
「うん、待ってるよ」
ちょうど彼女の煙草が灰になったところで、俺は頭を下げて帰ることにした。
手を振る彼女は最後に「そのお友達、ちゃんと支えてあげなよ」と言って店に戻っていく。
支え、ねぇ。
一人で完璧なまでに立つ、いや立ちはだかる表向きだけ完璧女に支えなんて必要なのだろうか。
手を差し伸べても振り払われそうだな。
なんて少し冗談を考える余裕くらいは出来た。
それもこれも綴さんのおかげというもの。今度改めてお礼をしないと。
夜中のアパートに戻り一人静かに眠りにつく。
さっき天使が使ったグラスがそのままテーブルに置かれているのを、なぜか見ないようにしながら。
翌朝、少し早く目が覚めた俺は久々に朝食を作ろうと着替えてキッチンに立つ。
昨日からの重い空気を払拭するようにと、窓を全開にして換気をする。
気持ちいい風を受けながら普段見たりしない朝の報道番組を眺めていると、朝だというのに玄関のチャイムが鳴る。
慣れないことはするもんじゃない。
早起きは三文の徳なんて言葉を俺は信じない。
なぜなら早朝から天使様が玄関の前に立ってるのだから。
「おはよう」
「……なんだよ朝から」
「ちょっといい?」
「……ああ」
昨日の一件があったから気まずい、というのが正直なところ。
しかし彼女は昨日と変わらぬ態度で部屋に来て、そして話し出す。
「あのさ、昨日のこと誰にも言わないでよ」
言わないで。
これはただ他人に口外するなということなのだろうが、俺にはもう一つの意味も含んでいる気がした。
これ以上詮索するな、そう言われたようにも感じる。そしてそれは間違いでもないのだろう。
なぜなら彼女の顔はとても不服そうだ。
俺に話をしたことを激しく悔いている様子である。
「だから、言うわけないだろ。ちょっとは信用しろ」
「信用……誰も信用なんてできないわよ」
「……まぁいい。で、用はそれだけか?」
「……」
少し話した後彼女は沈黙する。
何か言いたいことがあるのは明白だ。顔に書いてある。
しかし言いにくいことなのか、言いたくないことをまた話そうとしているのか彼女はしばらく黙ったまま部屋の隅に座っていた。
「なぁ、朝飯食べたのか?」
「いらない、いつも食べない」
「腹が減るとイライラするだろ。なんか食うか?」
「捨て犬に声かけるみたいな言い方やめて」
なんて言った時に彼女のお腹がくぅーっと音を立てた。
「腹、減ってるんだな」
「ち、違うわよ昨日夕食減らしたから」
「パンならあるけど」
「……仕方ないからもらってやるわよ。ふんっ、餌付けするつもりか知らないけどそんなの私には通用しないからね」
「飯くらい素直に食えよ……」
俺は急いで天使の分のトーストを焼いて、食卓に出した。
一応いただきますというあたりはさすがお嬢様もどきといったところか。
それでもパンをかじる時の目は実に不満げである。
「……」
「なによ、私の顔がそんなに気になる?あ、もしかして惚れた?まぁ無理ないわね、私って美人だから」
「性格がクズ過ぎてプラマイで言えばマイナスだよ」
「はぁ?マジむかつくんですけど」
「それで、本当に煙草やめたのか?」
「……まぁ、我慢してる」
この時の彼女は殊勝な態度、とでも言うべきかいつもよりは大人しく不良娘のそれではなかった。
どんな心境の変化があったのかは知らないが、こいつが煙草をやめたということはいいことに変わりはない。
だけどそれを少し嬉しく感じるのはなぜか。多分昨日の話のせいだろう。
せっかくそこまで頑張っているのに、煙草なんて問題で足をすくわれるのは少々惜しいというか、そんな気持ちがあるだけだ。
だけどもう心配はなさそうだな。
「食べたら皿は置いといてくれ。あとで洗うから」
「あ、あのさ……」
さっき口籠ったことを言いたいのだろうか。
また罰の悪そうな顔をしながら彼女は立ちあがり、今度は意外なことを口にする。
「この後、一緒に学校行かない?」
「は?どういう風の吹き回しだ。お礼のつもりならいいぞ。ていうか礼にも褒美にもならないし」
「何よその言い方!近所のよしみで誘ってやったのにマジでムカつく。いいわ、ご馳走様先に行くから」
怒った様子で彼女はさっさと出て行った。
はぁ、あいつもあいつだが俺も大概素直じゃない。
別に一緒に登校したからなんだという話だ。だったらあんな言い方しなくてもよかっただろ。
一人で洗い物をしながら後悔に似た何かを頭の中に巡らせていると、ふと昨日の綴さんの言葉を思い出す。
支え、か。
いつかあいつを支えてくれる白馬に乗った王子様が現れるのだろうか。
それとも、あいつはそんな王子なんて踏み台にして女王様として君臨し続けるのだろうか。
……まぁ俺はどっちになっても知らん顔しよう。
何せ知り合いでもない人から、近所のよしみにまでランクアップしたのだ。
わけのわからない理由で雑兵のように扱われたのではたまらないからな。
ふぅ、今日は帰ったらこの前の肉じゃがのお礼、持っていくか。
さすがにパン一枚では釣り合いが取れないだろう。
俺は持て余した時間を使って夕食の下ごしらえをしてから、家を出ることにした。
その時テレビの前に置いてある煙草の箱がなぜか気になって、ゴミ箱に捨てた。
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