第9話 天使様の秘密
もうそろそろ学校に着くというところで、天使は急に歩みを止めた。
なんだと一瞬振り返ってみたが、彼女は明らかに俺を避けるように視線を逸らす。
それをみて理解した。俺と一緒に登校していると思われるのが嫌なのだと。
まぁ、学校のアイドルが学校の落ちこぼれと一緒に登校なんて前代未聞の大ニュース、大騒ぎどころでは済まないだろうと俺自身理解はしている。
しかし、こいつ最初の頃に彼女のフリをしてやるなんて言っていたけど、登校すらこの調子でそんな事できるとでも思っていたのか?やはりあの提案には乗らなくて正解だったな。
まぁ仮にそんな事をしていたら今頃俺は命があったかも怪しいし。
……ニケツしたのもよく考えたら危なかったな。
それにボウリングも……
って考えてたらまぁまぁ天使と一緒にいるよな。
もちろん俺から絡んだことなんてそうないわけだから、あいつの方から俺に関わってきている証拠か。
なんで言えば天使は怒るだろうけど。
「先、行くからな」
「さっさといけば」
「……うざ」
さっさと彼女を置いて学校に着くと、まぁいつものように天使様の話題で男子たちが盛り上がっている。
あるやつは「どんな豪邸に住んでるのかなぁ」と妄想したり、「きっと彼女って寝る時もドレス来てるはずだよ」とわけのわからないことを言ってみたり。
可哀そうに。住んでるのは八畳一間のボロアパート、家に帰ったら上下真っ黒のスウェットにガラの悪いネックレスしてるだけだよ。
まったく、素のあいつをみたら卒倒するぞこいつら。
遅れて教室に天使が入ってくると、また教室の熱気が上がるのがよくわかる。
男子も女子もみんな彼女の事が大好きなご様子。
さっきまで俺の席に来ていた斉藤もすっかり天使様にご執心だ。
はぁ、こんなにみんなに注目されてる中をかいくぐって煙草なんかよく吸っていたものだよ。まぁ、やめたようだからいいけど。
気が付けば俺はずっと天使の事を考えていた。
もちろん、これがトキメキや恋心や淡い気持ちやらではないことを俺は知っている。
まだ彼女の事をよく知らない。
どうしてあのアパートに越してきたのかも、なぜここまでして優等生であろうとするのかも、本音を何も知らない。
だから少し気になる、というだけだ。
知りたいわけでもないのだが、ここまで関わった以上は知らないとモヤモヤするのもまた事実。
さて、聞いて素直に教えてくれるかどうか。
昼休みはいつものように一人で飯を食べようと場所を探す。
ふと頭に浮かんだのは屋上だ。
あいつが煙草吸ってるんじゃ、なんて考えて躊躇もしたが、やめたという言葉を信じて俺は屋上に向かう。
そしてもちろんそこには誰もいなかった。
一人で飯を食い、空を見上げてぼんやり。
それでもそろそろニコチンが切れた彼女がやってくるかと思ったが、今日は誰も来なかった。
そしてチャイムの音に慌てて教室に戻ると、午後のホームルームの時間だというのに先生が来ない。
どうやら臨時の職員会議が始まっているそうで、急遽自習となったこの時間にクラスのみんなは大はしゃぎだ。
こうなると始まるのが「教えて天使様」のコーナー。
みんな天使のところに群がって勉強を教えてもらおうと紙とペンを構える。
得意げに勉強を教える彼女、そしてそれを熱い眼差しで見つめるクラスメイト。
なんともまぁ作り物、偽物だらけの光景ではあるが、それでもああやって人に頼られている時の彼女は活き活きしているようにも見える。
最もその後で壮絶なまでのヘイトを垂れ流すわけだが。頼むからゴミ袋を蹴るのはどうにかしてくれ。
結局この日、先生たちが戻ってくることはなかった。
午後は何をするわけもなく終わり、放課後になって俺はさっさと一人で家に帰ることにした。
家で大人しくしていると、やがて夜になり彼女が帰ってきた気配がした。
昨日の肉じゃがの容器を返すために俺は彼女の部屋のチャイムを鳴らす。
「はい……って何?」
「いや、これ返しにきたんだけど」
「あっそ。普通何か入れて返すものだけど」
「今日はインスタントにしたからな。今度そうするよ」
「ふん、それより今日も何も話してないでしょうね」
「ああ」
禁煙のせいか、イライラしているのがはっきりわかるほど、彼女の目つきは尖っている。
口元がピクピクして、足がトントンと小刻みに地面をたたく。
こりゃ相手してたらぶん殴られそうだと思い、すぐに退散しようとするとなぜか呼び止められる。
「あのさ、あんたサッカーしてたんだって?今日友達から聞いたけど」
「ん?まだ俺のこと知ってるやついたんだな。まぁ、やめたから関係ないけど」
「怪我、もしかしてそのせいで?」
「……だからなんだよ」
「そ、そういうことなら、い、言いなさいよ。じゃないと私が悪い奴みたいじゃない……」
どうやら膝のけがをバカにしたことを悔いているようだ。
誰がこいつにそんないらぬ情報を与えたのかは知らないが、まったく余計なことをしてくれたわけだ。
「言う必要がない。お前だって、なんでそんなに優等生ぶるのか俺に話そうとしないくせに」
「そ、それは別に……聞きたいの?」
「ん、まぁどっちでも」
「何よそれ、聞いたんなら最後まで聞きなさいよ」
「あー、はいじゃあ聞きたいです」
「むかつく。……ちょっとそっちの部屋行っていい?」
結局玄関での立ち話を嫌って俺の部屋に来るのはいつもの流れ。
いい加減こいつの為に椅子の一つくらい買ってやった方がいいのか、と言うくらいの頻度でお邪魔されると、本当に邪魔だ。
しかし今日は黙って部屋に入ると、何か言いにくそうに下を向いている。
「どうした、話せよ」
「わかってるわよ!その……でもまずあんたから話しなさい。その怪我、いつから?」
「なんで俺が……まぁいっか。同情するなよ」
俺は同情されるのが嫌いでこの話を人にするのが嫌だ。
当初は人のせいにして散々乱れていたが、今となればそれすらも自分の傲慢さが招いた結果だと、割り切れるようになったからだ。
だから可哀そうにとか、もったいないとか言われるとそうじゃないと反発したくなるので同情するなと、彼女にそういった。
しかし彼女は、俺の話を聞きながら時々首を傾げる。
「なんだよさっきから」
「いえ、別に。ただね、怪我したからなんだって話よ」
「なんだって?」
「だって、治るんでしょそれ?怪我した経緯は不運だと思うけど、だったら治ってからまた始めればいいじゃない」
「そんな甘いものじゃないんだよ。プロに行こうと思ったら一年ってのはかなり大事で……ってそんな話お前にしても無駄だな」
「なにそれ、むかつくんだけど」
同情なんていらない、なんて言っている割に慰めの言葉でも欲しかったのか俺は。
突き放されると、妙な気分になる。
「とにかく、俺は話したぞ。次はお前だ。なんで優等生に拘るんだ?それにこんなところで一人暮らしなんて、やっぱり変だ」
「質問は一つにしてほしいところね。まぁ、関係ある話だからいいけど」
言うと彼女は急にスウェットの上を脱ごうとする。
「お、おい何してるんだよ」
「いいから、見なさいよ。知りたいんでしょ、私のこと」
彼女はそのまま一気に上着を脱いだ。
おいおいと手で顔を覆ったが、しばらく静かな様子に違和感を感じ、うっすら目を開けた。
すると、彼女の下着姿よりまず別のものに目がいく。
「お前、それ」
「ええ、ひどいものでしょ」
上半身のいたるところに小さなあざが浮かぶ。
それはまるで虐待を受け続けてきたような、そんな感じだ。
「もういいかしら」
「あ、ああ」
また上着を着る彼女は、俺の方を見て話し出す。
「見ての通りよ。親から虐待受けて家から飛び出して高校からこっちでずっと一人暮らし。でも、去年住んでた場所、契約が切れちゃってここに引っ越してきたわけ。私の秘密なんて大したことじゃないって、わかった?」
「……」
悲しむでもなく、悔やむでもなく、ただ今のあるがままを受け入れるような目で彼女は言う。
「天使、お前は」
「あなたじゃないけど、同情なんてしないでね。私はあの親を見返したいだけ。だから優等生になって、いい大学行っていいところに就職して金持ち捕まえて幸せになるの。だから血反吐吐いても勉強するの。友人関係とかもさ、誰がいつどこで化けるかわかんないしちゃんと付き合ってないとね。なんてしてたらいつの間にか優等生天使様の完成ってわけ。わかる?」
「……」
「煙草はその反動かしら。無理して頑張ってるとストレスすごいのよね」
「……家のこと、先生たちは知ってるのか?」
「もちろん知らない。田舎のおじいちゃんの家に住所だけ移させてもらったから。誰も何も知らない。お金だって去年バイトで稼いだ分で今もやりくりしてるわ。また、新しい所探さないとだけど」
淡々と話す彼女の話は耳を疑うようなものばかりだった。
俺はこいつの事をただの不良、クズだと思っていた。
しかし現実は違う。
「なかなか学校に見つからない場所って難しいのよ。去年働いてたコンビニ、春休みに潰れちゃったし。ほんと、今年に入ってから運気最悪。隣の変な奴に煙草見つかるし」
「……それはいいことだろ。禁煙出来たんだから」
「恩着せがましいわね。金欠でやめただけって言ってるでしょ」
「はいはい、わかったよ。それより、お茶、飲むか?」
今までは粗茶も出さずに追い返すだけだったが、もちろんそんなことはできなかった。
「気持ち悪いわね、誘ってるの?」
「うるさい、お茶くらい出すさ」
「今までしなかったくせに。私の裸見て欲情したんでしょ」
「いちいち突っかかるな。お茶くらい黙って飲め」
「はいはい、いただくわ」
「……」
今まで自分だけが不幸で自分だけが孤独だと思っていた俺は、そんなことを思い続けて塞ぎ込んでいた自分を急に恥ずかしく思うと同時に言い表せない苛立ちを覚えた。
なんだ同情するなよって。ダサすぎるだろ、俺……
黙ってお茶を出した後、彼女を見ないようにして俺はテレビをつけた。
見ないように……いや、見れるはずもなく。
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